国道4号線のペコちゃん&ポコちゃん

 旧道を離れ、ここから3kmほど国道4号線沿いをひたすら歩きます。

沿道には大型ショッピングモールや街中でよく見かける外食チェーンの看板が目に入ります。その奥には、広大な田畑が広がっています。

ふと見上げると不二屋ケーキのキャラクターのペコちゃんポコちゃんが屋根に腰掛けているではありませんか。

そろそろお腹が空いてきました。

 

 

 

 茨島一里塚と山田うどん
 

国道4号線の拡張工事のため、この付近にあった街道の面影や当時の史跡らしきものは、ほぼ消滅しているのではないでしょうか。

「茨島一里塚」跡の解説板が「山田うどん」の駐車場内にありました。

茨島一里塚は、杉戸宿と幸手宿のちょうど真ん中に位置しています。当時は一里塚の上に榎が植えられていたようです。

折角なので、ランチは「山田うどん」で。

 

 

 日光御成道との合流地点

国道4号線から再び旧道に入りました。

向かって左手の道が歩いてきた旧道で、直線に伸びている方が日光御成道です。

川口、鳩ヶ谷、岩城を抜けて幸手に至る御成道は、3代将軍家光の時代に整備され、徳川家康を祀る日光東照宮に参詣する代々の将軍が通行した道でした。

 

 

合流点の近くに「聖徳太子堂」があります。

太子堂は、聖徳太子の像を祀った仏堂で、市内にいくつか点在しています。

 

 

 源頼朝ゆかりの神宮寺

 太子堂の斜め向かいに「神宮寺」というお寺があります。

『幸手市史 近世資料編1』には、鎌倉幕府の初代征夷大将軍源頼朝にまつわる伝承が縁起書に書かれていると記述されています。
頼朝と薬師如来の伝承は次の通りです。

「鎌倉時代の文治年間(1185年~1190年)のこと。頼朝は、敵対する藤原泰衡を討伐するため奥州へ向かう途中で、逃げ出した秘蔵の鷹を追って当地に訪れました。

鷹は、薬師堂境内の大樹に止まったままで、近臣たちが餌箱を叩いて呼んでも下りてきません。

頼朝は薬師堂の堂守に命じ、鷹が手元に戻り帰るよう、仏師・春日賢問子の作とされる薬師如来へ祈願させ、自らもまた祈りました。
 すると、鷹は頼朝の左肩に飛び下ります。

堂守はそれを見るなり鷹の尾羽を押さえました。

鷹は、尾羽2枚が抜け落ちたものの、無事に頼朝の元に戻されたのです。

これを喜んだ頼朝一行は、奥州合戦の帰陣後に、善美を尽くした七堂伽藍の寺院を建立、山号を鷹尾山と名付くよう命じ、あわせて薬師如来に誓願したので誓願院神宮寺と号したのです。」

 

 

 眼病にご利益のある螺不動

 幸手宿の入口となる「倉松川」の「志手橋」を渡ると神明神社があります。

神明神社は宝暦5年(1755)に伊勢皇大神宮の分霊を祀った神社です。

境内には、成田・菅谷両不動尊があり、菅谷不動尊は「螺(たにし)不動尊」とも言われています。

眼病の人がたにしを描いた絵馬を奉納して祈願すればご利益があると伝えられています。
 

 
「螺(たにし)不動尊」の狛犬の足元には螺(たにし)?が置かれています。

  

 

 幸手宿のおしゃれなカフェ

 江戸幕府による街道整備の結果、日光街道6番目の宿場である幸手宿として発展してきました。

代々の徳川将軍が日光社参で通る日光御成道が上高野村で合流し、また宿内で日光社参の迂回路である日光御廻り道、更に外国府村で筑波道が分岐し、交通の要衝として栄えたようです

幸手市の歴史マップ

 

街道沿いにある「上庄かふぇ」は、江戸の宿場の面影を残す国登録有形文化財です。

 

 
この「上庄かふぇ」は、江戸末期に建築された岸本家住宅主屋(しゅおく)を移築したものです。築180年の重厚な蔵造りの構えなのですが、本格ピザや生パスタの他、手作りケーキが人気のお店です。

 

 

 幸手宿の面影

「旅館 あさよろず」は文政2年(1819)の創業。

板垣退助や伊藤博文等が宿泊した老舗旅館。

今も旅館業を営んでいます。最寄りの幸手駅までは徒歩5分です。

 

 
 幕末維新に小山や宇都宮の闘いなど戊辰戦争に関わる新政府軍が宿泊していたことがわかります。
 

   (「旅館あさよろずのホームページ」から)

 

幸手宿にはシャッターアートが描かれた商店がいくつもありました。
「永文商店」の建物は大正末期の関東大震災後に建造された建物で、当時そのままの状態で営業されています。

2階建て側面の波トタンの壁に描かれたシャッターアートは思わず見惚れてしまいます。

 

 
波トタンに描かれた松尾芭蕉の奥の細道。

 

 

本陣知久家跡は、現在「うなぎ義語屋」です。

初代の帯刀は幸手宿の創設に尽力し、代々問屋と名主を兼ねていました。

 

 

 桜と菜の花のコラボレーション

 幸手宿の旧街道を離れ、しばらく国道4号線沿いを歩きます。

中川に架かる行幸橋(みゆきばし)の手前には、長大な「権現堂堤」が築かれています。

江戸を洪水から守るために、寛永18年(1641)に築堤されたものです。

毎年4月初めには、桜と菜の花が咲き揃い、多くの観光客が集まりますが、5月初めのこの時期は一瞬、森林と見間違えるほどの緑の帯が堤伝いに連なっていました。

 

 
今年はちょうど今頃、桜満開なのでこんな光景が見えているのでは。
毎年この時期に1000本のソメイヨシノと菜の花が1キロにわたって美しい景観をつくっています。
(写真は観光協会)

 

 

今回はここまでです。続く

 

 

いよいよ、桜満開の知らせが届くようになってきましたね。春本番です。

 今回は粕壁宿から

スタートは「春日部駅」からです。春日部市のシンボルは「クレヨンしんちゃん」。駅前のシンボルツリーのところにもしんちゃんの顔がデザインされています。

 

しんちゃんの野原家族も住民登録されていて、住所は「春日部市双葉町904」と「クレヨン」の語呂合わせでシャレています。

 

 
粕壁宿は、江戸日本橋から数えて4番目の宿場町でした。松尾芭蕉もかつて歩いた道です。粕壁宿は江戸・日本橋を発った旅人の1日目の宿泊場となっていたので多くの旅籠が並んでいました。
 
この建物は、観光やイベントを案内する春日部情報発信館「ぷらっとかすかべ」です。しんちゃんは、春日部の観光案内にも一役買っています。

 

 

 粕壁宿の面影を残す建物

春日部は、現在の市の名称です。宿場町としては粕壁と表記します。「かすかべ」は、南北朝時代に新田義貞の家臣春日部氏が領有していたことから付けられたようです。
 
こちらは、複数ある本陣跡の1つで、1754(宝暦4)年まで務めた関根助右衛門家の本陣です。

 

 
永島庄兵衛商店は、明治初期の建築で、屋根上にある魔よけの鍾馗様の像が印象的です。慶長年間(1596~1615年)から19代続く米穀問屋です。

 


佐渡屋跡の建物です。日光街道と寺町通の分岐点にある浜島家の黒壁の土蔵で国の登録有形文化財となっています。
明治時代前期の建物で、戦前まで穀物商を営んでいた当時のものです。

 

 

 春日部の地名由来となる史跡

日光街道は新町橋の交差点を右折するのですが、突き当たりに見える寺院「最勝院」に寄りました。

最勝院は、日光東照宮に移葬される三代将軍家光の亡骸が仮安置されていた場所です。

また、最勝院には「春日部」の地名由来となった新田義貞の家臣・春日部重行公の「墳墓」があります。

 

 
再び、日光街道に戻ります。大落古利根川にかかる新町橋から上流を眺めます。江戸期には、上流に上喜蔵河岸(かみきぞうかし)があったそうです。

 

 

 小渕一里塚跡と庚申塔

しばらく県道319号線を歩くと、江戸日本橋より9里目となる小渕一里塚跡があります。

隣には天保3年(1832)に建てられた庚申塔が並べられています。

 

 
小渕の一里塚跡の先に追分があり、道標が建てられていました。

 

 
道標には、「左日光道中」と刻まれているのが分かります。道標にしたがって、追分を左に入ります。

 

 

 芭蕉句碑が建つ観音院

国道4号線沿いに「観音院」という寺院があります。立派な楼門(仁王門)は、市指定有形文化財です。

 

 
境内には、芭蕉句碑「毛(も)のいへば唇寒し秋の風」があります。芭蕉はこのお寺で宿泊されたと伝えられています。

 

 
 
しばらく国道4号線を歩きます。広い歩道の中央に春日部市と杉戸市の境界を示すモニュメント「北緯36度線地球儀」があります。
 
同じ北緯36度には、アリゾナ州のグランドキャニオンがあると書かれていましたが、そう言われても、あまりピンときませんでした。

 

 
堤根(南)歩道橋で国道4号線から旧街道に入ります。しばらく歩くと九品寺が見えてきます。街道沿いには道標を兼ねた庚申塔があります。解説板も横に建てられています。
 
それによると天明4年(1784)に堤根の村民42人で建立したことがわかります。道標には「左日光」「右江戸」と刻まれています。

 


 杉戸宿に入りました

杉戸宿に入ると、まず目に見えて来るのが、宿場時代を彷彿させる関口酒造の酒蔵です。銘柄はその名も「杉戸宿」。

街道と酒蔵がなんとも映えますね。杉玉があると、もっと絵になるのですが。

 

 
 
その先に、復元された杉戸宿高札場があります。
 
 
道路の向かいにある「巴湯」というレトロな銭湯が目を惹きます。創業は明治期で、現在の建物は昭和初期なのだそうです。
「お湯は100%井戸水、燃料は100%木材」が売りです。
 
壁面の汚れの高さが気になるのですが、この辺は古利根川の流域に近いので、洪水の跡かしらと勝手に気を回していました。
 
 
「本陣跡地前」という交差点の角に「明治天皇御小休所趾」碑があります。
 
 

 杉戸宿の面影を残す建物

渡辺金物店の建物です。平成に入って店は閉じられましたが、代々受け継がれてきた佇まいを感じました。
 
 
角穀屋跡です。米穀店だったそうで、商家と蔵が残っています。
 
 
渡辺勘左エ門邸です。豪壮な家屋と蔵が残されています。質屋業を営み、当時多数の小作人を抱えていたそうです。
 
 
今回は、ここまでです。続く
 

年度末ということもあって、このところ貧乏暇なし状態で、皆さんのプログにも訪問できずにいました。ようやく、少し抜け出せた感じです。

越ケ谷宿

今回は、日光街道・越ケ谷宿から粕壁宿に向かいます。
蒲生の一里塚から先に進むと、比較的新しい住宅街が続いています。その一角に小さな祠を見つけました。不動明王の道標です。
享保13年(1728)建立の不動明王像の台石には「是より大さがミ道」と太い字で刻まれています。
これは南越ケ谷にある大聖寺(大相模不動)への道標を兼ねた石塔でした。
地域史家の調べでは、現在では大聖寺(大相模不動)までの道は途中で失われているとのことです。時代の波とはいえ、東京近郊の住宅開発で失われた史跡や古道がたくさんあることに気付かされます。
石塔の隣には、正徳3年(1713)建立の笠付青面金剛蔵庚申塔が並んでいます。
 

 

新道と交差する辻に「清蔵院」があります。山門は越谷市の有形文化財に指定されています。寛永15年(1638)の関西の工匠の作と言われています。

 

 

山門の龍は、金網で覆われています。

巷間の伝説では、この山門の龍は伝説的彫刻職人の左甚五郎の作とされ、夜な夜な山門を抜け出して畑を荒らしたことから、金網で囲ったと言われています。

作製時期から日光東照宮の造営に当たった工匠の一人が作ったのかもしれませんね。

 

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しばらく、県道49号線沿いを歩きます。旧日光街道と分かれる右手に「照蓮院」というお寺が見えてきます。

 

 

武田勝頼遺児が眠る照蓮院

照蓮院は、武田家の重臣・秋山信友の甥の秋山長慶が開基したものです。

 

天正10年(1582)、織田信長らの甲州征伐により、武田勝頼と嫡男・信勝が天目山が自刃しますが、その際、甲斐武田家の家臣秋山長慶は、勝頼の遺児千徳丸を連れ、落ち延び、越ケ谷瓦曽根村に潜居していたと言われています。しかし、翌年、千徳丸は早世してしまい、それを悲しんだ長慶は照蓮院の住職となって菩提を弔ったと伝えられています。

 

その後、秋山家は千徳丸の供養のため、寛永14年(1637)、秋山家墓所に五輪塔(中央の小さな五輪塔)を造塔しました。これには「御湯殿山千徳丸」と刻まれています。

 
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秋山長慶の兄虎康の娘は、徳川家康の側室、於都摩(おつま)の方といい、家康の五男武田信吉を生んでいます。
天正10年3月の織田・徳川連合軍の甲州征伐の際、甲斐河内領主の穴山信君(梅雪)は、武田家を離れ、織田・徳川方に臣従しますが、その際、武田家臣秋山長慶の兄虎康の娘である於都摩の方(下山殿)を養女として家康に差し出しており、於都摩の方は家康の側室となるのです。
一説には家康が側室に武田の血族を求めていたため、表向きは武田信玄の末娘として、家康に輿入れしたとも言われています。
 
甲斐の地から遠く離れた越ケ谷に建つ照蓮院は、武田家滅亡に因んだ史跡でもありました。
 
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宿場の面影が残る商屋

県道を離れ、しばらく旧日光街道を歩きます。かつての宿場町の名残のような建築物が目に付くようになってきました。

 

この建物は、昭和初期に建てられた水田家です。漆喰の材料となる布糊を扱う商いをされていましたが、その後、文具店を営み、現在は民家となっているそうです。

 

 

先祖が漆を扱っていたことから塗師(ぬし)市という屋号を持つ江戸時代の呉服商の小泉家です。店舗と蔵が横に並ぶ造りとなっています。蔵の前にあるレンガは防火壁となっています。
 

 

小泉家の並びに建つ鍛治忠商店は、明治33年に建てられた蔵造りの日用雑貨のお店です。

 

 

越谷市越ヶ谷本町の日光街道沿いに位置する元商家の旧大野家住宅です。明治時代に建築された主屋と土蔵は、日光街道越谷宿の景観を伝えています。
現在は、レストランや店舗を備えた古民家複合施設「はかり屋」として活用されているそうです。
 
 

大沢村総鎮守の越谷香取神社です。風に揺れる鯉のぼりが気持ちを和ませてくれます。

 
 
慶応2年(1866)建立の奥殿外壁には、紺屋の作業風景が精巧に彫刻されています。越ヶ谷が染物業の盛んだった土地であることが分かります。
 
 
越谷香取神社の創立年代は不詳のようですが、奥州街道、日光街道に面し、武州大沢宿として、江戸時代には武士、町人、百姓の往路、帰路の旅の安全と家族の安泰を祈願して参詣休憩する場所だったようです。
 
 

東武スカイツリーラインの高架を潜ると、元荒川の河川敷が見えてきます。

堤防の目線の位置に「古奥州道道標」があります。道標には「右じおんじ のじま道」と刻まれています。

 
 

その河川敷の一角に厳格な門に閉ざされている施設があります。正面の門の奥にある施設は「宮内庁埼玉鴨場」です。

鴨の飛来が少なくなった東京浜離宮の代替として明治37年(1904)に皇室用の遊猟場として建設されたものです。約11万7千㎡の敷地の中に約1万2千㎡の鴨池があります。

 
 
旧街道の道路脇に庚申塔の祠があります。小さな祠の中には宝永7年(1710)建立の青面金剛像庚申塔が安置されていました。
 
 

芭蕉が宿泊した東陽寺

一宮の交差点で斜め左に進みます。その角に芭蕉が宿泊した「東陽寺」があります。
春日部郷土資料館によりますと、「東陽寺は、文明年間(1469-1487)に春日部八幡神社の東隣に開山したが、寛永元年(1624)に焼失し、寛文2年(1662)に当地で中興したと伝えられる。松尾芭蕉に随行した弟子曽良の日記に「廿七日夜カスカヘニ泊ル」とあり、元禄2年(1689)3月27日、芭蕉が「奥の細道」の旅で同寺に宿泊したともいわれている。」とあります。
 
 
境内の寺碑に「廿七日夜カスカベニ泊ル江戸ヨリ九里余」と刻まれていて、芭蕉ゆかりの寺院であることがわかります。
 


粕壁宿

小沢本陣跡に到着です。ようやく粕壁宿の中央に差し掛かりました。街道は整備されているので、旧道の面影はありません。
 
 

旧商家東屋田村本店前の道しるべ。天保5年(1834年)のもので、道標の表には「西南いハつき(岩槻)北日光 東江戸右之方陸羽みち」と刻まれています。建物は「田村荒物店」で、裏には豪壮な家屋と蔵が残されています。

 
 
裏手に参りますと、こちらには、 天保5年(1834)建立の道標があります。
 
 
 新町橋(西)の交差点に「佐渡屋敷」の土蔵(国の登録有形文化財)があります。戦前まで浜島家は米穀商を営んでいました。
 

今回はここまでといたします。(続く)

 

日光街道の魅力

日光街道の特徴は、日光東照宮への街道として歴代将軍や諸大名の社参、そして庶民の物見遊山による賑わいで発展してきた街道。また、幕末には、旧幕府が倒れるきっかけとなった鳥羽・伏見の戦いに続き、小山の戦い、宇都宮城の戦いなど戊辰戦争の舞台となった場所とも重なっています。そういう意味では、徳川家の盛衰を象徴する街道と言えるのかも知れませんね。

 

今回のひとり旅の案内は、山と溪谷社発刊の「ちゃんと歩ける日光街道・奥州街道」です。五街道ウォーク事務局代表を務める八木牧夫さんがお書きになったガイドブックで、日光街道にまつわる旧跡や見所の解説は勿論のこと、旧街道を見失わないように辻々で現在地の確認ができるように工夫されています。これから歩く方には、オススメです。

 

さて、江戸日本橋から千住、草加、宇都宮を経て、日光までの二十一次、約150㎞の日光街道の旅は、二番目の宿場(マップでは③)、草加宿に差し掛かりました。

 

草加駅からスタート

早朝、東武スカイツリーラインで草加駅に到着。この年は、草加市制60周年の年に当たっていました。日曜日の早朝なので駅に向かう人の足もまばらです。
 
 

藤城家住宅

草加宿のほぼ中央に藤城家住宅があります。明治初期の町屋造りの建物ですが、江戸時代の宿場町の面影を今に伝える貴重な建物です。平成26年に国の有形文化財に登録されています。
 


清水本陣跡

草加宿の本陣跡で宝暦4(1754)年に大川家から本陣職を譲り受けています。清水本陣跡の前に大川本陣跡があります。
この本陣には、会津藩の松平容頌、仙台藩の伊達綱村、米沢藩の上杉鷹山らが休泊した記録が残されています。
 
 
本陣跡の少し先に「おせん茶屋公園」があります。ベンチやトイレもあり休憩には最適です。公園の前には日光街道の道標があります。
 
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東福寺

東福寺は、慶長11(1606)年に草加宿開祖の大川図書により創建された寺院です。東福寺山門は瓦葺きの四脚門で、天井の絵様彫刻が見事でした。
 
 
山門の天井に彫られた彫工後藤常重の彫刻
 
 
梵鐘にも絵様彫刻が見られます。基壇に「文久二年七月再造立」(1862年)の刻銘があり、草加市でも貴重な寺院建造物として保存されています。
 
 
細かい技法が施されていて、龍の目も生き生きしています。
 
 
東福寺の本堂です。

本堂の内陣と外陣との境には、島村園哲による見事な彫刻欄間があります。欄間は3枚で、真ん中は龍、左右が中国で古来有名な二十四考(にじゅうしこう)です。機会があれば見てみたいですね。

 
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大川図書の墓です。大川図書は、草加宿開拓者のひとりで、小田原北条氏に仕えていました。徳川家康の天下統一後、盟友の伊奈備前守のはからいで草加の土地に土着し、新田の開拓、農業の奨励、寺院の建立などの功績を残しています。
 
 
東福寺の先は、緩やかなカーブを描いています。いくつか江戸時代の宿場町の面影を残す建物が残されています。
 
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この建築物は、久野家(大津屋)住宅です。記録によりますと、宿場は開宿以来4回ほど大火や震災に見舞われ、その度毎に蘇ってきたそうです。家伝によれば、この家は、安政2(1855)年の安政の大地震や明治3(1870)年の大火にも免れているそうです。
 

日光街道と新道が交差する場所に「草加せんべい発祥の地」の石碑が建てられていました。
 
 

札場河岸公園と松並木

綾瀬川に沿って「札場河岸公園」があります。札場屋野口甚左衛門の私河岸で、江戸との舟運が盛んであったことがわかります。また、草加宿は、松尾芭蕉の「奥の細道」で、最初の宿場となったゆかりの地でもあるのですね。
「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早加といふ宿にたどり着きにけり」と記されています。
 
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訪れた頃は、ちょうど藤の花が満開を迎える頃でした。
 
 
札場河岸公園の中には、江戸時代の面影を感じさせる「火の見櫓」が建てられていました。急な階段ですが、上まで上がることができます。見晴らしは最高です。
 
 
松並木の途中に太鼓橋(矢立橋)があります。矢立橋は「奥の細道」の一節「矢立の初めてとして」に因んで命名されています。
 
この松並木は、綾瀬川沿い約1.5㎞続いています。江戸時代から「草加松原」「千本松原」と呼ばれ親しまれていましたが、明治10年には約800本あったと言われる松も、昭和40年ごろには自動車の排気ガスの影響で60数本までに減少したそうです。その後、市民団体の熱意により設立された松並木保存会による保護などにより、現在は約600本まで回復しているそうです。この松並木は一見の価値がありますよ。
 
 
綾瀬川に架けられた橋にも風情がありますね。この綾瀬川は「、大雨のたびに川筋が変わることから、「あやし川」と呼ばれていましたが、伊奈忠次によって堤が整備され流路が安定したそうです。綾瀬川は隅田川に落ち合い、江戸に通じる重要な水路でした。
 
 
祠の中に水神、青面金剛蔵庚申塔、寛政7(1795)年建立の馬頭観世音像が安置されています。
 
 
東京外環自動車道の高架ガードの下の壁に、草加宿にたどり着いた芭蕉と曽良の旅姿が描かれていました。
 

高橋藤助の私河岸

綾瀬川の向う岸に、高橋藤助の私河岸が復元されています。江戸への年貢米の積み出しが行われていた場所です。維新後も舟運が盛んでした。
 
 
蒲生大橋を渡ると、時代を感じさせる酒屋さんがありました。店名は「藤助酒店」。もしかすると、高橋藤助の末裔の方が経営されているのかも知れません。
紺色の吊看板「越ヶ谷宿」は、越谷市の地酒 純米酒「越ヶ谷宿」です。市内で収穫された埼玉県推奨米“彩のかがやき”を100%使用しているお酒とか。
 

蒲生の一里塚

近くには、蒲生の一里塚がありました。現在は東側のみが残されています。この一里塚が県内の日光街道沿いに残る唯一の一里塚となっているそうです。ようやく、越ヶ谷宿に入ってきました。
 
 
 

 
続く。

千住宿からスタート

千住大橋を渡ると、「奥の細道 矢立初めの地」碑が見えてきます。この場所は、元禄2年3月27日(1689年5月16日)、松尾芭蕉が深川から船で隅田川を上り、ここから陸路「奥の細道」へと旅立ったところです。

松尾芭蕉は、この場所で「行春(ゆくはる)や 鳥啼(なき) 魚の目は泪(なみだ)」を詠んでいます。


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橋の袂から千住大橋の下に降ります。堤防の壁面を利用して千住大橋にまつわる歴史資料の解説があります。

 

初代の千住大橋は、徳川家康が文禄3(1594)年に架橋しています。橋は現在よりも約200m上流に架けられ、その後6回架け替えられています。
現在地に架け替えられたのは、明和4年(1767年)の架替えで、近代には、明治19年に二重の太鼓橋様式の木橋が架けられましたが、関東大震災で失われ、震災復興事業の一環として、昭和2年にタイドアーチ橋が架橋されています。

 

今も、下の写真のオレンジ色のブイのところに木橋の杭が残っています。

初めの千住大橋の橋杭材は伊達政宗が陸中南部地方から水に強くて朽ちにくい高野槇(コウヤマキ)の材木を寄進し、明治期の洪水によって流されるまで使われ続けたという根強い言い伝えがあります。

 

当時の古い川柳にも「伽羅よりもまさる、千住の槇の杭」と詠まれていました。その後の調査によってこの高野槇の橋杭が千住大橋の橋下に残っているものであると確認されているそうです。

 

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国道4号線から旧道に入ります。千住宿は宿場であるとともに流通の町として賑わいました。

この先の旧街道は「元やっちゃ場」の場所で、明治以降には正岡子規や高浜虚子も訪れていて、「やっちゃ場句会」も開かれていたそうです。

松尾芭蕉の石像が立つ敷石は、やっちゃ場の競り場に敷かれていた御影石です。

この場所の裏には、現在も「東京都中央卸売市場足立市場」があり、海産物の卸売り場となっています。一般の人も立ち寄れる海鮮丼のお店もありました。

 
 
北千住駅前の北千住マルイの10階にある総合文化施設フロアーに上がると、千住宿の江戸時代当時の大きなジオラマがあって千住宿の雰囲気を見ることができます。
 
人通りが少ないのは、新型コロナウイルスのせいでしょうか(笑)、当時はもっと活気があったように思うのですが、どうしても気になりました。
 
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かつて「やっちゃ場」とよばれた青物市場は、戦前には旧日光街道沿いに多くの青物問屋が軒を連ね、活気あふれる問屋街でした。

 

市場となったのは、天正4(1576)年頃と言われていますが、公的に市場の形をなしたのは享保20(1735)年で、青物市場は神田・駒込と並び江戸の三大市場に数えられていたそうです。

 

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やっちゃ場の通り沿いの家々には、昭和5年当時の卸問屋の屋号が表札と一緒に掲げられています。
 
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千住宿歴史プチテラスです。千住四丁目の元地漉紙問屋・横山家の内蔵(土蔵)を平成5年(1993)に移築したもので、間口2間半、奥行き3間半の2階建てで母屋と棟続きの内蔵として使われていました。
地元の「千住宿歴史プチテラス維持会」の方々によって管理され、ミニ展示会などに利用されています。コロナ禍の中、運営が心配です。
 
 
この場所は、問屋場・貫目改所跡として知られていましたが、平成12年(2000)、足立区教育委員会が発掘調査をしたところ、現在より1m程低い江戸時代の遺構面から、等間隔で並ぶ杭穴と礎石が見つかりました。
分析の結果、この遺構は2棟の建物からなり、それぞれ問屋場跡と貫目改所跡であると推定されました。また、南東の小石を厚く敷いた部分は、荷さばき場跡と考えられています。
 

不動院の境内には正面に「南無阿弥陀仏」、右側面に「芸州」と刻まれた石塔があります。
 
 
これは芸州供養塔とよばれ、戊辰戦争に参戦した安芸広島藩(芸州藩)の応変隊の輸送に従事し、会津戦争のうち会津田島、会津若松付近で戦士した人びとを供養するために明治元年(1868)9月に造立されました。
六月村(現・足立区六月・東六月)の善八、新蔵、八郎、福松らの名前が記されています。
ほかにも明治9年(1876)に明治天皇東北巡幸の時に御休息所となった中田屋の墓、千住宿旅籠屋一同が万延元年(1860)に建てた遊女の無縁塔などもあります。(足立区観光交流協会)
 
 
千住2丁目にあるこの寺院は、千住の名の起こりともなった千住で最も古い寺院の勝専寺(赤門寺)です。
江戸時代には、2代将軍徳川秀忠の鷹狩りの休息所になり、家綱の時には御殿となり、日光社参の折には数日滞在していました。その後も、日光門跡の宮殿下が日光への往復の都度、滞在していたと言われています。
 
 
千住高札場跡は、千住本町公園として活用されています。
 
 
横山家は宿場町の名残として伝馬屋敷の面影を今に伝える商家です。
戸口は一段下げて造られているのが特徴です。商家としてお客様をお迎えする心がけの現れとされています。横山家は屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く紙漉問屋を営んでいました。
慶応4(1868)年5月の上野戦争で敗退する兵士が切りつけた玄関の柱の傷跡や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根などがあり、千住の歴史を見つめてきた生き証人なのかも知れません。
 
 
この建物は、旧千住郵便局電話事務所(旧NTT千住局)で昭和4年に、建築家の山田守の設計により竣工したものです。都内に存在する1920年代の貴重なモダン建築の一つとされています。
昭和建築界の巨匠と言われる山田守の晩年の建築物に日本武道館や京都タワーなどの代表作があります。この場所は、北千住駅から10分ほど歩いたところにあります。
 
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竹ノ塚駅から10分ほどの所に炎天寺という寺院があります。
炎天寺は、平安中期に源頼義、義家父子が建立したと伝えられている古刹。
小林一茶は千住関屋に住んでいた建部巣兆を中心とした文化人たちとかかわり、竹の塚の作家・竹塚東子などとこの寺の周辺をよく歩き、「蝉鳴くや六月村の炎天寺」「やせ蛙負けるな一茶是にあり」などの句を残しました。
 
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右不動尊と書かれた祠があります。古くから耳不動とも呼ばれ、耳の病に苦しむ人が遠方からもここに立ち寄り、治癒すれば竹筒に酒を入れて奉納する風習が続いているといいます。
その前には、マフラーと帽子を付け、暖かそうなお地蔵さんがあります。そして、道標に「子育八彦尊道 是より二丁行く」とあります。
これは日光街道から明王院へ通じる参道を指すもので、明王院境内の八彦尊像は子育てと咳に効験ありとして庶民の信仰を集め、祈願する人が寺からおけさを借り、治癒すると新しいおけさを奉納するという風習が伝えられています。
 
 

島根の交差点の先に「将軍家御成橋 御成通松並木跡」の標柱があります。その先にある「国土安穏寺」までの御成道となっていました。

 
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増田橋の交差点に道標があります。「増田橋跡 北へ旧日光道中」「西へ旧赤山道」と刻まれています。 
 
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竹の塚を越えた場所に法華寺があります。小塚原刑場の刑死者の菩提を弔っていました。境内には無縁塔があります。
 
 
東京都と埼玉県の境となる毛長川を渡ります。谷塚駅の近くに「冨士浅間神社」があります。瀬崎村の総鎮守です。
 
 
その先の交差点に「火あぶり地蔵尊」があります。奉公中の娘に母危篤の知らせが届き、主に暇を願い出るものの許されません。そこで主の家が火事になれば仕事が休みになり、家に帰れると思い込み放火してしまい、「火あぶりの刑」となってしまいます。村人が憐れみ供養のために地蔵を祀りました。悲しい物語ですね。
 
 
旧道との追分の場所に「今様草加宿」の大きな標柱があります。街道は左の方です。ようやく1日目の目的地、草加宿に入ります。
 
 

草加市役所の敷地は幕末から明治にかけての豪商大和屋の跡。その入口の角に地蔵尊があります。 

 
 
1日目のゴール「草加駅」に到着。駅前には、高層ビルのマルイとイトーヨーカドーがあります。駅前周辺の開発が進んでいて賑さを感じました。・・・予想通り、一日中花粉症で悩まされました。
 
 
お土産に「いけだ屋」の草加煎餅を買いました。
 
 
江戸日本橋から千住宿を通り、草加宿までの距離は18.5㎞となっていますが、実際に歩いた距離は23㎞でした。
 

続く