日光街道の魅力

日光街道の特徴は、日光東照宮への街道として歴代将軍や諸大名の社参、そして庶民の物見遊山による賑わいで発展してきた街道。また、幕末には、旧幕府が倒れるきっかけとなった鳥羽・伏見の戦いに続き、小山の戦い、宇都宮城の戦いなど戊辰戦争の舞台となった場所とも重なっています。そういう意味では、徳川家の盛衰を象徴する街道と言えるのかも知れませんね。

 

今回のひとり旅の案内は、山と溪谷社発刊の「ちゃんと歩ける日光街道・奥州街道」です。五街道ウォーク事務局代表を務める八木牧夫さんがお書きになったガイドブックで、日光街道にまつわる旧跡や見所の解説は勿論のこと、旧街道を見失わないように辻々で現在地の確認ができるように工夫されています。これから歩く方には、オススメです。

 

さて、江戸日本橋から千住、草加、宇都宮を経て、日光までの二十一次、約150㎞の日光街道の旅は、二番目の宿場(マップでは③)、草加宿に差し掛かりました。

 

草加駅からスタート

早朝、東武スカイツリーラインで草加駅に到着。この年は、草加市制60周年の年に当たっていました。日曜日の早朝なので駅に向かう人の足もまばらです。
 
 

藤城家住宅

草加宿のほぼ中央に藤城家住宅があります。明治初期の町屋造りの建物ですが、江戸時代の宿場町の面影を今に伝える貴重な建物です。平成26年に国の有形文化財に登録されています。
 


清水本陣跡

草加宿の本陣跡で宝暦4(1754)年に大川家から本陣職を譲り受けています。清水本陣跡の前に大川本陣跡があります。
この本陣には、会津藩の松平容頌、仙台藩の伊達綱村、米沢藩の上杉鷹山らが休泊した記録が残されています。
 
 
本陣跡の少し先に「おせん茶屋公園」があります。ベンチやトイレもあり休憩には最適です。公園の前には日光街道の道標があります。
 
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東福寺

東福寺は、慶長11(1606)年に草加宿開祖の大川図書により創建された寺院です。東福寺山門は瓦葺きの四脚門で、天井の絵様彫刻が見事でした。
 
 
山門の天井に彫られた彫工後藤常重の彫刻
 
 
梵鐘にも絵様彫刻が見られます。基壇に「文久二年七月再造立」(1862年)の刻銘があり、草加市でも貴重な寺院建造物として保存されています。
 
 
細かい技法が施されていて、龍の目も生き生きしています。
 
 
東福寺の本堂です。

本堂の内陣と外陣との境には、島村園哲による見事な彫刻欄間があります。欄間は3枚で、真ん中は龍、左右が中国で古来有名な二十四考(にじゅうしこう)です。機会があれば見てみたいですね。

 
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大川図書の墓です。大川図書は、草加宿開拓者のひとりで、小田原北条氏に仕えていました。徳川家康の天下統一後、盟友の伊奈備前守のはからいで草加の土地に土着し、新田の開拓、農業の奨励、寺院の建立などの功績を残しています。
 
 
東福寺の先は、緩やかなカーブを描いています。いくつか江戸時代の宿場町の面影を残す建物が残されています。
 
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この建築物は、久野家(大津屋)住宅です。記録によりますと、宿場は開宿以来4回ほど大火や震災に見舞われ、その度毎に蘇ってきたそうです。家伝によれば、この家は、安政2(1855)年の安政の大地震や明治3(1870)年の大火にも免れているそうです。
 

日光街道と新道が交差する場所に「草加せんべい発祥の地」の石碑が建てられていました。
 
 

札場河岸公園と松並木

綾瀬川に沿って「札場河岸公園」があります。札場屋野口甚左衛門の私河岸で、江戸との舟運が盛んであったことがわかります。また、草加宿は、松尾芭蕉の「奥の細道」で、最初の宿場となったゆかりの地でもあるのですね。
「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早加といふ宿にたどり着きにけり」と記されています。
 
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訪れた頃は、ちょうど藤の花が満開を迎える頃でした。
 
 
札場河岸公園の中には、江戸時代の面影を感じさせる「火の見櫓」が建てられていました。急な階段ですが、上まで上がることができます。見晴らしは最高です。
 
 
松並木の途中に太鼓橋(矢立橋)があります。矢立橋は「奥の細道」の一節「矢立の初めてとして」に因んで命名されています。
 
この松並木は、綾瀬川沿い約1.5㎞続いています。江戸時代から「草加松原」「千本松原」と呼ばれ親しまれていましたが、明治10年には約800本あったと言われる松も、昭和40年ごろには自動車の排気ガスの影響で60数本までに減少したそうです。その後、市民団体の熱意により設立された松並木保存会による保護などにより、現在は約600本まで回復しているそうです。この松並木は一見の価値がありますよ。
 
 
綾瀬川に架けられた橋にも風情がありますね。この綾瀬川は「、大雨のたびに川筋が変わることから、「あやし川」と呼ばれていましたが、伊奈忠次によって堤が整備され流路が安定したそうです。綾瀬川は隅田川に落ち合い、江戸に通じる重要な水路でした。
 
 
祠の中に水神、青面金剛蔵庚申塔、寛政7(1795)年建立の馬頭観世音像が安置されています。
 
 
東京外環自動車道の高架ガードの下の壁に、草加宿にたどり着いた芭蕉と曽良の旅姿が描かれていました。
 

高橋藤助の私河岸

綾瀬川の向う岸に、高橋藤助の私河岸が復元されています。江戸への年貢米の積み出しが行われていた場所です。維新後も舟運が盛んでした。
 
 
蒲生大橋を渡ると、時代を感じさせる酒屋さんがありました。店名は「藤助酒店」。もしかすると、高橋藤助の末裔の方が経営されているのかも知れません。
紺色の吊看板「越ヶ谷宿」は、越谷市の地酒 純米酒「越ヶ谷宿」です。市内で収穫された埼玉県推奨米“彩のかがやき”を100%使用しているお酒とか。
 

蒲生の一里塚

近くには、蒲生の一里塚がありました。現在は東側のみが残されています。この一里塚が県内の日光街道沿いに残る唯一の一里塚となっているそうです。ようやく、越ヶ谷宿に入ってきました。
 
 
 

 
続く。