いよいよ、桜満開の知らせが届くようになってきましたね。春本番です。

 今回は粕壁宿から

スタートは「春日部駅」からです。春日部市のシンボルは「クレヨンしんちゃん」。駅前のシンボルツリーのところにもしんちゃんの顔がデザインされています。

 

しんちゃんの野原家族も住民登録されていて、住所は「春日部市双葉町904」と「クレヨン」の語呂合わせでシャレています。

 

 
粕壁宿は、江戸日本橋から数えて4番目の宿場町でした。松尾芭蕉もかつて歩いた道です。粕壁宿は江戸・日本橋を発った旅人の1日目の宿泊場となっていたので多くの旅籠が並んでいました。
 
この建物は、観光やイベントを案内する春日部情報発信館「ぷらっとかすかべ」です。しんちゃんは、春日部の観光案内にも一役買っています。

 

 

 粕壁宿の面影を残す建物

春日部は、現在の市の名称です。宿場町としては粕壁と表記します。「かすかべ」は、南北朝時代に新田義貞の家臣春日部氏が領有していたことから付けられたようです。
 
こちらは、複数ある本陣跡の1つで、1754(宝暦4)年まで務めた関根助右衛門家の本陣です。

 

 
永島庄兵衛商店は、明治初期の建築で、屋根上にある魔よけの鍾馗様の像が印象的です。慶長年間(1596~1615年)から19代続く米穀問屋です。

 


佐渡屋跡の建物です。日光街道と寺町通の分岐点にある浜島家の黒壁の土蔵で国の登録有形文化財となっています。
明治時代前期の建物で、戦前まで穀物商を営んでいた当時のものです。

 

 

 春日部の地名由来となる史跡

日光街道は新町橋の交差点を右折するのですが、突き当たりに見える寺院「最勝院」に寄りました。

最勝院は、日光東照宮に移葬される三代将軍家光の亡骸が仮安置されていた場所です。

また、最勝院には「春日部」の地名由来となった新田義貞の家臣・春日部重行公の「墳墓」があります。

 

 
再び、日光街道に戻ります。大落古利根川にかかる新町橋から上流を眺めます。江戸期には、上流に上喜蔵河岸(かみきぞうかし)があったそうです。

 

 

 小渕一里塚跡と庚申塔

しばらく県道319号線を歩くと、江戸日本橋より9里目となる小渕一里塚跡があります。

隣には天保3年(1832)に建てられた庚申塔が並べられています。

 

 
小渕の一里塚跡の先に追分があり、道標が建てられていました。

 

 
道標には、「左日光道中」と刻まれているのが分かります。道標にしたがって、追分を左に入ります。

 

 

 芭蕉句碑が建つ観音院

国道4号線沿いに「観音院」という寺院があります。立派な楼門(仁王門)は、市指定有形文化財です。

 

 
境内には、芭蕉句碑「毛(も)のいへば唇寒し秋の風」があります。芭蕉はこのお寺で宿泊されたと伝えられています。

 

 
 
しばらく国道4号線を歩きます。広い歩道の中央に春日部市と杉戸市の境界を示すモニュメント「北緯36度線地球儀」があります。
 
同じ北緯36度には、アリゾナ州のグランドキャニオンがあると書かれていましたが、そう言われても、あまりピンときませんでした。

 

 
堤根(南)歩道橋で国道4号線から旧街道に入ります。しばらく歩くと九品寺が見えてきます。街道沿いには道標を兼ねた庚申塔があります。解説板も横に建てられています。
 
それによると天明4年(1784)に堤根の村民42人で建立したことがわかります。道標には「左日光」「右江戸」と刻まれています。

 


 杉戸宿に入りました

杉戸宿に入ると、まず目に見えて来るのが、宿場時代を彷彿させる関口酒造の酒蔵です。銘柄はその名も「杉戸宿」。

街道と酒蔵がなんとも映えますね。杉玉があると、もっと絵になるのですが。

 

 
 
その先に、復元された杉戸宿高札場があります。
 
 
道路の向かいにある「巴湯」というレトロな銭湯が目を惹きます。創業は明治期で、現在の建物は昭和初期なのだそうです。
「お湯は100%井戸水、燃料は100%木材」が売りです。
 
壁面の汚れの高さが気になるのですが、この辺は古利根川の流域に近いので、洪水の跡かしらと勝手に気を回していました。
 
 
「本陣跡地前」という交差点の角に「明治天皇御小休所趾」碑があります。
 
 

 杉戸宿の面影を残す建物

渡辺金物店の建物です。平成に入って店は閉じられましたが、代々受け継がれてきた佇まいを感じました。
 
 
角穀屋跡です。米穀店だったそうで、商家と蔵が残っています。
 
 
渡辺勘左エ門邸です。豪壮な家屋と蔵が残されています。質屋業を営み、当時多数の小作人を抱えていたそうです。
 
 
今回は、ここまでです。続く