国道4号線のペコちゃん&ポコちゃん
旧道を離れ、ここから3kmほど国道4号線沿いをひたすら歩きます。
沿道には大型ショッピングモールや街中でよく見かける外食チェーンの看板が目に入ります。その奥には、広大な田畑が広がっています。
ふと見上げると不二屋ケーキのキャラクターのペコちゃんポコちゃんが屋根に腰掛けているではありませんか。
そろそろお腹が空いてきました。
茨島一里塚と山田うどん
国道4号線の拡張工事のため、この付近にあった街道の面影や当時の史跡らしきものは、ほぼ消滅しているのではないでしょうか。
「茨島一里塚」跡の解説板が「山田うどん」の駐車場内にありました。
茨島一里塚は、杉戸宿と幸手宿のちょうど真ん中に位置しています。当時は一里塚の上に榎が植えられていたようです。
折角なので、ランチは「山田うどん」で。
日光御成道との合流地点
国道4号線から再び旧道に入りました。
向かって左手の道が歩いてきた旧道で、直線に伸びている方が日光御成道です。
川口、鳩ヶ谷、岩城を抜けて幸手に至る御成道は、3代将軍家光の時代に整備され、徳川家康を祀る日光東照宮に参詣する代々の将軍が通行した道でした。
合流点の近くに「聖徳太子堂」があります。
太子堂は、聖徳太子の像を祀った仏堂で、市内にいくつか点在しています。
源頼朝ゆかりの神宮寺
太子堂の斜め向かいに「神宮寺」というお寺があります。
『幸手市史 近世資料編1』には、鎌倉幕府の初代征夷大将軍源頼朝にまつわる伝承が縁起書に書かれていると記述されています。
頼朝と薬師如来の伝承は次の通りです。
「鎌倉時代の文治年間(1185年~1190年)のこと。頼朝は、敵対する藤原泰衡を討伐するため奥州へ向かう途中で、逃げ出した秘蔵の鷹を追って当地に訪れました。
鷹は、薬師堂境内の大樹に止まったままで、近臣たちが餌箱を叩いて呼んでも下りてきません。
頼朝は薬師堂の堂守に命じ、鷹が手元に戻り帰るよう、仏師・春日賢問子の作とされる薬師如来へ祈願させ、自らもまた祈りました。
すると、鷹は頼朝の左肩に飛び下ります。
堂守はそれを見るなり鷹の尾羽を押さえました。
鷹は、尾羽2枚が抜け落ちたものの、無事に頼朝の元に戻されたのです。
これを喜んだ頼朝一行は、奥州合戦の帰陣後に、善美を尽くした七堂伽藍の寺院を建立、山号を鷹尾山と名付くよう命じ、あわせて薬師如来に誓願したので誓願院神宮寺と号したのです。」
眼病にご利益のある螺不動
幸手宿の入口となる「倉松川」の「志手橋」を渡ると神明神社があります。
神明神社は宝暦5年(1755)に伊勢皇大神宮の分霊を祀った神社です。
境内には、成田・菅谷両不動尊があり、菅谷不動尊は「螺(たにし)不動尊」とも言われています。
眼病の人がたにしを描いた絵馬を奉納して祈願すればご利益があると伝えられています。
幸手宿のおしゃれなカフェ
江戸幕府による街道整備の結果、日光街道6番目の宿場である幸手宿として発展してきました。
代々の徳川将軍が日光社参で通る日光御成道が上高野村で合流し、また宿内で日光社参の迂回路である日光御廻り道、更に外国府村で筑波道が分岐し、交通の要衝として栄えたようです
街道沿いにある「上庄かふぇ」は、江戸の宿場の面影を残す国登録有形文化財です。
幸手宿の面影
「旅館 あさよろず」は文政2年(1819)の創業。
板垣退助や伊藤博文等が宿泊した老舗旅館。
今も旅館業を営んでいます。最寄りの幸手駅までは徒歩5分です。
(「旅館あさよろずのホームページ」から)
幸手宿にはシャッターアートが描かれた商店がいくつもありました。
「永文商店」の建物は大正末期の関東大震災後に建造された建物で、当時そのままの状態で営業されています。
2階建て側面の波トタンの壁に描かれたシャッターアートは思わず見惚れてしまいます。
本陣知久家跡は、現在「うなぎ義語屋」です。
初代の帯刀は幸手宿の創設に尽力し、代々問屋と名主を兼ねていました。
桜と菜の花のコラボレーション
幸手宿の旧街道を離れ、しばらく国道4号線沿いを歩きます。
中川に架かる行幸橋(みゆきばし)の手前には、長大な「権現堂堤」が築かれています。
江戸を洪水から守るために、寛永18年(1641)に築堤されたものです。
毎年4月初めには、桜と菜の花が咲き揃い、多くの観光客が集まりますが、5月初めのこの時期は一瞬、森林と見間違えるほどの緑の帯が堤伝いに連なっていました。
今回はここまでです。続く