いざ、鎌倉へ

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も、いよいよ佳境に入ってきましたね。頼朝に寄り添いつつ、不正義を決して許さなかった義時でしたが、9月25日の第37回「オンベレブンビンバ」では、父の時政から「おまえも、頼朝様に似てきたな」と揶揄されるシーンが出てきます・・・。次回が待ち遠しいですね。

ということで、今回は、私の自宅から近い鎌倉にやって来ました。「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館とゆかりのお寺を巡る旅をご紹介します。

 この日は台風一過ということもあって、雲一つない秋晴れです。また、3連休の最終日なので観光客も大勢いらしてました。

 

 

 「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 鶴岡八幡宮をお参りして、いよいよ「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館にやって来ました。場所は、下の地図でもお分かりの通り、境内の中にあって大きな義時のパネルが目を引くのですぐわかると思います。

 

 

 門を入ってみると、鎌倉文華館鶴岡ミュージアムがドーンと建っています。隣には、おしゃれなカフェがあります。奥の方にあるチケット売り場に向かいます。大人1,000円、子ども500円とちょっとお高い感じがしましたが、入ります。

 

 

 観覧者が多い時は、入場制限を行なっているようです。中に入ると、入場券と引き換えに一人ひとりにパンフレットが手渡されます。このパンフレットで「鎌倉国宝館」と「鎌倉歴史文化交流館」が無料で入場できますとアナウンスされます。両館とも入場料が400円なので、何だか急にお得に思えてきました。

 

 

 会場に入ると、ドラマで使用された衣装等の実物展示や映像展示があって、大河ドラマのファンは、きっと釘付けになります。写真撮影もOKですよ。鑑賞時間は30分程度でしょうか。

 

 

 出口には「ゆかりの地マップ」のパネルが展示されています。携帯用のパンフレットも充実していますから、「鎌倉殿の13人」ゆかり鎌倉散策にはもってこいです。

 

 

 鎌倉国宝館「北条氏展」

 折角なので、パンフレットの半券を利用して、境内の中にある「鎌倉国宝館」を見学します。大河ドラマ館から徒歩3分ほどの距離です。今は「北条氏展〜義時と実朝・頼経〜」がテーマで、北条氏ゆかりの文化財を見ることができます。鎌倉だからこそ見られる展示内容でとても価値があると思いました。

 

 

 ここから、北条氏ゆかりの鎌倉散策に向かいます。行き先は、鎌倉五山の第三位で北条政子が開基した「寿福寺」です。鶴岡八幡宮から、横大路を通って、800メートルほどのところにあります。途中、右側に「鎌倉市川喜多映画記念館」があるので目印にされると良いですよ。

 

 

 北条政子・実朝ゆかりの「寿福寺」

  「寿福寺」について、「鎌倉観光公式ガイド」には次のような解説があります。

1200(正治2)年、源頼朝の妻・北条政子が頼朝の死後、頼朝の父である義朝の旧邸跡に明庵栄西を招いて創建した寺で、13世紀後半になって禅宗の寺院となりました。本尊は釈迦如来坐像。その脇には大きな仁王の像があります。
​​鎌倉五山の第三位。三代将軍実朝もしばしば訪れ、最盛期には十数か所の塔頭を擁する大寺であったといいます。

山門から石畳の参道が中門まで続いており、現在は中門の手前まで拝観できます。

 

 山門から石畳の参道を通り、真っ直ぐ進むと「中門」が見えてきます。

 

 

 本堂には入れません。墓地に行くには、中門に向かって、左側に進み、突き当りを右側に折れます。山際に「やぐら」がいくつも見えてきます。北条政子と源実朝の墓といわれています。中にはともに五輪塔が建てられています。寿福寺には、明治時代の外務大臣「陸奥宗光」や作家の「大仏次郎」の墓もあります。

 

 

 帰りは「寿福寺トンネル」を抜け、鎌倉時代からのゆかりの地「扇ガ谷」のまちをゆっくりと訪ね歩き、鎌倉駅に向かいます。秋の紅葉の時期はもっと素敵ですよ。

 

 

 「陸奥爆沈」の謎を追って

 私は作家吉村昭の記録小説が好きで、度々小説の舞台となっていた場所を訪れては、ブログで紹介してきました。今回は「陸奥爆沈」という記録小説を読み終え、戦艦陸奥が建造された横須賀海軍工廠のあった横須賀港に来てみました。

 横須賀港は今もアメリカ海軍基地や海上自衛隊の軍港として引き継がれています。そして、対岸には綺麗な植栽やベンチが整備され、「ヴェルニー公園」という名称で市民の憩いの場になっています。

 

 

 ヴェルニー公園はJR横須賀駅から徒歩0分のところにあって、アクセスも最高です。このヴェルニー公園に「戦艦陸奥」の主砲身が野外展示されています。

 戦艦陸奥は大正10年に就役し、戦艦長門とともに、日本の海軍を牽引する象徴として世界に名を轟かしていましたが、第二次世界大戦ではあまり出番がないまま、昭和18年6月18日に柱島沖(周防大島伊保田沖)で原因不明の爆発事故を起こし沈没してしまうのです。総員1471人のうち死者1121人、生存者わずか350人という大惨事でしたが、大々的に世間に公表されることはありませんでした。

 その沈没の原因を探る経過が吉村昭の小説「陸奥爆沈」で描かれているのです。

 

 

  「戦艦陸奥」主砲の里帰り

  戦艦陸奥は戦後、海底から引き上げ作業が行われ、昭和45年には艦体の一部や菊の御紋章、主砲塔、主砲身などが回収され、日本各地で展示された後、この主砲は「船の科学館」に展示されていましたが、東京オリンピックに伴う再開発のため移転することになり、平成29年3月に横須賀港に里帰りしてきたのです。

 主砲は、41インチ砲で、長さが約18.8メートル、重さは約102トン、主砲8本のうち、四番砲塔の一門で、昭和11年に横須賀海軍工廠で行われた大改修の際に搭載されたものです。

 

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 横須賀製鉄所(造船所)と軍港

  主砲に隣接して「ヴェルニー記念館」があります。ヴェルニーとは幕末に日本国内で初めて造られた近代式造船所「横須賀製鉄所」を建設したフランス人技師で、その功績を紹介するためにつくられた博物館です。

 

 

 ヴェルニー記念館に入ると、戦艦陸奥の100分の1の精巧な模型が展示されています。

 

 

 このパネルは、明治22年当時の横須賀製鉄所(造船所)を紹介したものです。

 

 

 元横須賀製鉄所の向かいにヴェルニー記念館が位置しているので、下にある位置図と照らして当時の様子を想像することができます。

 

 

 

 これは、横須賀製鉄所に当時据え付けられていたスチームハンマーの実物展示で、当時オランダから輸入されたものです。蒸気の圧力で大型の鉄の加工を可能にするもので、これにより国内で艦船が造れるようになりました。

 

 

 ヴェルニー公園から海上自衛隊の艦船を見ることができます。時代は変わりましたが、横須賀港が担っている軍港としての役割は今も継承されているのがわかります。

下の艦船は、「いかづち」という護衛艦です。

 

 

 こちらは海上自衛隊の潜水艦で「たいげい」だと思います。横須賀港にはこうした海上自衛隊の軍艦などのほか、アメリカ海軍のイージス艦や潜水艦なども停泊しています。

 

 

 ヴェルニー公園の中央には、ヴェルニーさんの胸像があります。

 

 

 ヴェルニーさんの隣には「小栗上野介忠順」の胸像があります。小栗上野介忠順は、日本初の遣米使節を務め、外国奉行や勘定奉行など徳川幕府末期の要職を歴任し、フランスの支援のもと、横須賀製鉄所(造船所)の建設を進めた方です。

 大政奉還後も、徹底抗戦を主張していたため役職を解かれ、領地の上野国田村(群馬県倉渕村)に移りますが、何の取調べもないまま、官軍により斬首されてしまいます。

 

 

 爆沈していた戦艦三笠

   さて、タイトルにあった「陸奥爆沈の謎」についてはまだ触れてませんでしたが、タイトル通り、今も「謎」とされているのです。

 吉村昭の記録小説「陸奥爆沈」では、詳細に「査問委員会」の内容や関係者による調書なども詳らかに書かれています。

 査問委員会では当初、「自然発火説」を有力視していましたが、諸条件を考え合わせ、実験を重ねた結果、装薬の自然発火は決してあり得ないことが確認されました。ただし、常識では考えられないこととして、装薬缶の蓋が全て開けられていた時には装薬の発火により、誘爆を起こし、大爆発となることが判明したのです。

 実は、「戦艦陸奥」の爆沈以前にも、同様に停泊中に爆沈している軍艦がいくつかありました。そのうちの一つがこの「戦艦三笠」です。

 

 

 戦艦三笠は、日本海軍連合艦隊の旗艦として東郷平八郎の指揮のもと、ロシアのバルチック艦隊を殲滅し、日本側に勝利をもたらしたことは教科書で習いましたが船舶中に爆沈したことは知りませんでした。

 戦艦三笠の爆沈は、日本開戦から3ヶ月後の明治38年9月11日のことです。佐世保港に寄港していた時に爆発炎上し、その場で沈没してしまいます。多数の死傷者を出しました。

 その後、査問委員会が開かれましたが、やはり解明には至りませんでした。

 原因については諸説ありますが、記録小説「陸奥爆沈」の中で、旧海軍技術少佐の福井静夫氏が「日本海戦に勝利をおさめ、浮き浮きした空気にあふれ、解放的な気分で祝酒も出されていた、その中の数人が深夜、火薬庫に酒を持ち込み宴をひらき、その時にローソクが倒れ、火薬に引火し、火薬庫が大爆発を起こした」と証言しています。

 「戦艦三笠」の爆沈についても最終的には、原因不明の事故として処理されているのです。

 

 

 戦艦三笠は、爆沈後、停泊していた海底が浅かったことから、引きあげて改修され、現役として第一次世界大戦にも参加します。その後、ワシントン軍縮会議で廃艦が決まりますが、何とか解体を免れ、現在の横須賀新港に固定展示されることになったのです。

 

 

 陸奥爆沈の謎

   話は「戦艦陸奥」に戻ります。戦艦三笠を含め乗組員の行為により、火薬庫爆発の事故を起こしているものが3件(「三笠」「磐手」「日進」)あります。他にも原因不明として2件(「松島」「河内」)あります。

 日本海軍は「戦艦陸奥」についても乗組員の行為ではないかと疑いを抱きます。そして、査問委員会は或る一人の人物を特定します。吉村昭の取材により当時技術少尉だった鈴木氏から名前が明かされます。

 特定された某二等兵曹は艦内で盗みをはたらいていたことから、軍法会議にかけられ処罰されることを恐れ、絶望的になり、罪状隠滅のため火薬庫に入り、火を放ったというのです。しかし、某二等兵曹の行方は分からず、死体も確認できないことから今も謎とされています。

 

 

 記録小説「陸奥爆沈」の「あとがき」に衝撃的な記述があります。この小説が単行本として出版された頃、瀬戸内海に沈む戦艦陸奥の引きあげが進められていました。昭和45年7月23日、まず砲塔が海面から姿を現します。

 その内部からは一体の遺骨と印鑑2個が発見されるのです。その印鑑には某二等兵曹の名前が刻まれていたのです。吉村昭はこれをどのように解釈すべきかは、私の判断の範囲外にある。と記されています。

 

 横須賀新港に固定展示された「記念艦三笠」から、「猿島」がよく見えます。この桟橋から10分ほどで上陸することができるそうです。

 

 

 

ご無沙汰です。

 ひとたびお休みしてしまうと、なかなか復帰は難しいものですね。
前回は「日光街道」の古河宿まで書いて、1年半ばかりこのブログから離れていました。日光街道の続きは「日光街道ウォーク」でまとめましたので、よろしければご覧ください。
 今日は、久しぶりに近況を日記風に紹介したいと筆をとりました。あらためておつきあいのほど、よろしくお願いいたします。
 

 上田城

 今回は、軽井沢を拠点に、初秋の信州を旅してきました。連れの家族は軽井沢のアウトレットでショッピング。その間、しなの鉄道で上田駅へ。

真田氏ゆかりの街並みを歩きながら、上田城跡公園にやってきました。

 

 これまでに経験したことがない激烈な台風14号が九州に迫る中ですが、まだ、甲信越地方は影響を受けていないようです。

 

 上田駅を後にし、しなの鉄道で2駅戻り、田中駅で下車。ここから信州北国街道の海野宿に向かいます。海野宿に行くきっかけは、ブロ友さんの忠敬さんの「東の北国街道を歩く2日目③」を見て、その整然とした街道を実際に歩いてみたいと思ったからでした。田中駅から2キロほど歩くと、白鳥神社に到着します。
 

 この神社は、木曽義仲挙兵の地にゆかりのあるところでした。ちょうど、「鎌倉殿の13人」を見ているので、興味津々です。

 

 

 海野宿

 海野宿は、江戸と上越を結んだ旧北国街道の宿場町です。国の重要伝統建造群保存地区に指定され、「日本の道百選」にも選ばれているそうです。約650メートルにわたって当時の街道の雰囲気を感じることができます。まるで江戸時代にタイムスリップしたみたいですよ。

 

 海野宿には、防火壁としての「うだつ」が見られます。「うだつ」は、ブロ友さんのhouzanさんの記事で知りました。「うだつ」には「本うだつ」「軒うだつ」「袖うだつ」などがあるそうです。

 

美しいですね。

 

こちらも。

 

 あと、「海野格子」と呼ばれる独特の格子も特徴のようです。この格子は建物の2階から撮ったものです。風が抜ける広間は、養蚕の面影を残すたたずまいでした。

 

 街道に沿って用水路が流れています。3連休の中日でしたが、観光客はまばらです。

 

 大嶋屋さんは、お蕎麦などの食事処です。情報の拠点にもなっているようです。

 

 こちらは、海野宿滞在型交流施設だそうで、古民家を利用して、レストランや宿泊施設に改装しています。中に入って見学もできますよ。

 

 海野宿を歩き終え、振り返ると青空が広がっていました。とても心地よい気分です。また、街道歩きをしてみようかしら・・・

 

 約1キロほど歩くとしなの鉄道の「大屋駅」に到着します。15時台はなんと1時間に1本しかなく、仕方なく、駅内のベンチに座り、ペットボトルで喉を潤し、吉村昭さんの記録小説「陸奥撃沈」を読むことに。

 

 宿泊は、義兄の別荘を借りていました。安上がりです。翌日は、3歳になる孫と松ぼっくりや栗拾いや、ウルトラマンごっこをして過ごしました。本当に小学生の絵日記になってしまいました。

 

 皆様のところでは、台風14号の影響はどうでしたか、何事もなければ幸いです。

 最後までありがとうございました。

 

 静御前の伝説


JR栗橋駅から古河宿に向かいます。前回もご紹介しましたが、栗橋駅前には、静御前の墓標、源義経の招魂碑、さらには生後すぐに源頼朝によって殺された男児の供養塔があります。「吾妻鏡」では、静御前は京に戻っている筈なんですが、なぜ、ここに墓が・・・

 

「吾妻鏡」では吉野で義経と別れ、京に戻る途中で、山僧に保護され、京の北条時政に引き渡され、母の磯禅師とともに鎌倉に送られます。

 

静御前は、頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられます。静御前は「しづやしづしづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」と義経を慕う歌を唄います。この時、すでに義経の子供を身ごもっていました。

 

頼朝は、女子なら助けるが、男子なら殺すと命じます。静御前は男子を産み、赤子は由比ヶ浜に沈められます。

その後、母の磯禅師とともに京に帰されるのです。

 

しかし、その後の消息は不明になっていて、いくつかの地方に諸説伝説が残されているのです。その一つが、この栗橋の伝承です。

 

 

「栗橋」の伝承では、静は義経を慕って京都を発ち、平泉に向かいましたが、途中の下総国下辺見付近で義経討死の報を耳にし、再び京に戻ろうとしますが、悲しみと慣れぬ長旅の疲れから病になり、この地で死去したと伝えられています。

 

遺骸はこの地の高柳寺(現 光了寺)に葬られますが、墓が無かったのを哀しみ、享和3(1803)年に関東郡代中川飛騨守忠英が墓碑を建立した。という伝承を元にしているのです。

 

 

 利根川と栗橋宿


街道沿いには「橋原屋」の屋号の建物があります。江戸末期に建てられ、燃料店として明治中期に創業していました。その後、味噌や醤油、塩などの食料品も扱っていました。

 

 
街道から利根川の堤防に差し掛かったところに八坂神社があります。栗橋宿の総鎮守です。ユニークなのは、狛犬が「狛鯉」なんです。
 
謂れはこうです。
慶長年間、利根川の大洪水の折、当地の村人が総出で堤防の補強工事を行なっていたところ、川の波間に鯉と泥亀に囲まれた神輿が流れてきたので、これを引き上げると、元栗橋に祀られている八坂神社の神輿でした。
村人は、この激しい流れに神輿が転覆することもなく、着いたことから鯉を崇めたようです。

 

 

利根川堤防に栗橋関所跡碑があります。日光街道唯一の関所です。番士は4家が勤め、「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まっていました。

 

 

利根川を渡ります。橋の中程から上流を撮ったものですが、あらためて利根川の水量の多さに驚かされます。

利根川は水上山を源流に鹿島灘に注いでいます。昔から坂東太郎と呼ばれる暴れ川で幾多の洪水をもたらしました。

 

江戸時代には橋はなく、「房川の渡し」という舟渡しでした。将軍の日光社参りの際は51艘の舟を並べた舟橋で渡していました。

 

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 静御前の遺品がある光了寺


利根川を渡ると、中田宿です。明治末期に行われた利根川河川改修によって中田宿の街並みは利根川下の河原になってしまいました。


しばらく県道228号線を歩いた先に光了寺があります。

 静御前を葬ったという栗橋の「高柳寺(光了寺)がこの地に移転しています。

お寺には静御前が後鳥羽上皇より賜ったという「蛙蜊龍(あまりりゅう)の舞衣」、義経かたみの懐剣・鎧などの遺品が納められています。

 

 

 小江戸「古河宿」と鷹見泉石


古河宿に入ります。

解説版によると、江戸時代、古河宿では松並木が日光街道沿いに5キロにわたってあったそうです。街道沿いには、所々に史跡案内を兼ねた常夜灯が置かれています。

 

 

街道をしばらく歩き、「古河歴史博物館」、「鷹見泉石(たかみせんせき)記念館」の案内表示にしたがって進むと、竹林が美しい「鷹見泉石記念館」が見えてきます。

いつだったか、旅行雑誌で小江戸の雰囲気のある鷹見泉石記念館の竹林の写真を見て、古河に行ってみたいと思っていました。

 

この建物は、古河藩家老の鷹見泉石が隠居後、過ごしていた居宅です。いかにも立派な武家屋敷の趣を感じさせてくれます。

 


 鷹見泉石は、古河藩藩主・土井利厚と利位(としつら)の二代にわたって仕えた家老で、蘭学、地理、歴史、天文学、兵学、博物学など幅広い知識を学んでいた方でした。


「土井の鷹見か、鷹見の土井か」といわれたほど泉石の手腕は優れ、藩財政の建て直しをはじめ藩主・利位の大坂城代時代には「大塩平八郎の乱」を平定したのも鷹見泉石の功績とされています。

 

 

建物は、寛永10年(1633)古河藩主土井利勝が、古河城の三階櫓を造った時の残り材を使って建てたと伝えられ、現在の建物の4倍の広さがあったと言われています。

 

いくつも座敷のある長屋門もあって、元治元年(1864)には、天狗党の乱に巻き込まれ、幕府に降った水戸藩士100名あまりを一時収容したこともあったそうです。

 

 

鷹見泉石記念館の前には親水公園が作られています。

この場所は、かつて古河城の堀があった場所で、発掘調査の後、堀を遺跡保存のために埋め戻し、その面影を残しているものです。親水公園の上には歴史博物館があります。

 

鷹見泉石は、隠居後も各界の著名人とも多彩な交流関係を築き藩に多くの重要な情報や資料をもたらしていました。

 

親交のあった人物には、幕府の要人・江川英龍、蘭学者で泉石の肖像画を描いたことでも知られる渡辺華山、砲術家の高島秋帆、海外渡航者の大黒屋光太夫らがいます。


鷹見泉石の生きかたに触れることができる古河歴史博物館は、特に幕末の歴史好きの方にはオススメの歴史博物館ですよ。

 

 
渡辺崋山(かざん)が描いた国宝『鷹見泉石像』は、よくその姿を伝えています。

渡辺崋山は愛知県の小藩であった田原藩の藩士、蘭学に熱心で、泉石とは兄弟弟子でした。
その崋山が画家として残した肖像画の一つが「鷹見泉石像」です。
今では崋山の代表作として、国宝に指定され、東京国立博物館に展示されています。

 

鷹見泉石肖像画

 

近くには、歴史作家の永井路子氏が寄贈された資料を元に設置した「古河文学館」や煉瓦造りの校門の「古河第一小学校」があります。

 

 

「福法寺」の山門は、古河城二の丸御殿口の「乾門」を移築したものです。

 

 
古河第一小学校の塀越しに「鷹見泉石生誕之地碑」があります。
残念ながら落書きがありました。

 

 

この付近には、古い建物がいくつも保存されていて、街を挙げて郷土の歴史を大切にしているのが伝わってきます。


再び日光街道に戻るように歩いていると「永井路子旧宅」を見つけました。


永井路子の母方の実家のようですが、幼い頃から、この地で過ごしています。永井路子さんは歴史小説家で特に中世の小説を書いています。


随分前になりますが、有隣新書 『相模のもののふたち 中世史を歩く』を読んだことを思い出しました。

この建物は、古河文学館開館に併せて、別館として平成15年から開館しています。

 

 

建物は、江戸時代末期の商家の佇まいです。 東日本大震災の時に被害があったため、修復改修工事を行い、再び平成24年に再開館しています。

 

古河文学館も永井路子氏の寄贈によって設置されているので、併せて旧宅見学もオススメです。旧宅ではお座敷や裏庭まで自由に見学させていただけます。

 

 

永井路子旧宅の隣には、「古河街角美術館」があります。


古河市は芸術活動の盛んな地で、著名な芸術家を輩出しています。


展示室では、古河市ゆかりの作家の作品を自由に見ることができます。 

 
 

古河街角美術館の隣には、「篆刻美術館」があります。


平成3年に日本で初めて篆刻専門の美術館として開館しています。


建物は、大正9年に建築されたもので、国の登録文化財です。

 

 
日光街道は金刀比羅宮を過ぎたところで、かぎ状に直角に曲がっています。如何にも城下町の雰囲気があります。

奥に入ってみると、武家屋敷らしき建物もありました。

 

 

続く


 

 筑波道への追分道標

 

権現堂堤を離れ、しばらく進むと、追分道標があります。

安永4年(1775)建立の筑波道追分道標です。江戸時代に筑波山の参詣に使った道ですね。道標には「左日光道」「右つくば道」とあります。道標通りに左の日光道を進みます。

 

 
旧街道の途中に時代を感じさせる一軒の商店が見えてきます。吉羽屋酒店です。この辺りの地名を「外国府間(そとごうま)村」といいます。なかなか読めません。

 

 

見渡す限りに田園風景が広がっています。

 

 
旧街道を進むと、雷電社湯殿社に着きます。外国府間村の鎮守です。

社殿は、平成13年4月に不審火で焼失しましたが、地元の手で再建されました。

 

 

 小右衛門の一里塚跡
 

その先に真光寺というお寺があります。その隣に小右衛門の一里塚跡があります。現在は、その跡に弁財天堂が建っています。

 

 

この辺りの地名を「小右衛門村」といいます。

小右衛門とは、この地を新田に開拓した者の名から付けられたようです。旧街道の左手に門と白い蔵を残す旧家があります。

 

 

暴れ川の権現川に沿って造られた国道4号線は行幸堤としての役割も担っています。

旧街道は、その国道4号線に沿ってあります。今、東北新幹線の高架を潜るところです。

 

 

 栗橋大一劇場

 

突然目の前に「栗橋大一劇場」という大きな看板の建物が現れます。俗に言う「ストリップ劇場」でした。劇場の裏手に旧街道が続いています。大見出しにすることもありませんでしたが。

 

 

 会津見送り稲荷

 

しばらく進んだ所に「会津見送り稲荷」があります。民家の庭先にあるので見過ごさないようにしましょう。

会津藩士が道に迷った際に助けてくれた老人が狐の化身だったことから建てられたと言われています。また、この辺りに「名物栗餅」を商う茶屋が8軒あったと伝えられています。

 
 

 炮烙(ほうろく)地蔵

 

会津見送り稲荷から500メートルほど進むと、「焙烙地蔵」があります。

近くにある「栗橋関所」の関所破りが「火焙りの刑」に処せられた刑場跡です。地蔵尊は刑死者供養のために造立されたものです。

「エボ地蔵」とも呼ばれていて、線香の灰をイボに付けると霊験新たかと言われています。

 

 

 栗橋宿

 

栗橋宿に入ってきました。栗橋宿は利根川の舟運で栄えた宿場でした。

一方、利根川の氾濫により洪水の被害もありました。

電柱に巻かれた赤いテープは、昭和22年(1947)9月のカスリーン台風の際に利根川が決壊し、洪水となり、水位がここまで来たことを教訓として示しています。

高いところでは、9メートルの高さまで水位が上がったと言われています。

 

 

旧道には宿場町らしい木造の建造物は見かけませんでしたが、宇都宮で採掘された大谷石を使った土蔵を見つけました。日光街道ならではの作りですね。
 
 
旧家には江戸時代につくられた築地塀が見られます。

 

 

 義経の内妻静御前ゆかりの地

 

栗橋駅前に「静御前の墓」があります。

源義経の寵愛を受けた内妻の静御前が平泉に行く途中、義経討死の報を聞き、文治5年9月15日(1189年)久喜市伊坂(旧村名、静村)にて悲恋の死を遂げたと伝えられています。

この墓石は後享和3年(1803)関東郡代中川飛騨守が建立したものです。

 

 

JR栗橋駅は湘南新宿ラインや上野東京ラインが通っているので、都内からの交通が便利です。

 

 

JR春日部駅を午前8時30分にスタートし、JR栗橋駅に午後2時に到着しました。約5時間ほどの街道ウォークとなりました。

歩いた距離は、25㎞です。時速約5キロで歩いたことになります。これは、結構速いペースです。