静御前の伝説


JR栗橋駅から古河宿に向かいます。前回もご紹介しましたが、栗橋駅前には、静御前の墓標、源義経の招魂碑、さらには生後すぐに源頼朝によって殺された男児の供養塔があります。「吾妻鏡」では、静御前は京に戻っている筈なんですが、なぜ、ここに墓が・・・

 

「吾妻鏡」では吉野で義経と別れ、京に戻る途中で、山僧に保護され、京の北条時政に引き渡され、母の磯禅師とともに鎌倉に送られます。

 

静御前は、頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられます。静御前は「しづやしづしづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」と義経を慕う歌を唄います。この時、すでに義経の子供を身ごもっていました。

 

頼朝は、女子なら助けるが、男子なら殺すと命じます。静御前は男子を産み、赤子は由比ヶ浜に沈められます。

その後、母の磯禅師とともに京に帰されるのです。

 

しかし、その後の消息は不明になっていて、いくつかの地方に諸説伝説が残されているのです。その一つが、この栗橋の伝承です。

 

 

「栗橋」の伝承では、静は義経を慕って京都を発ち、平泉に向かいましたが、途中の下総国下辺見付近で義経討死の報を耳にし、再び京に戻ろうとしますが、悲しみと慣れぬ長旅の疲れから病になり、この地で死去したと伝えられています。

 

遺骸はこの地の高柳寺(現 光了寺)に葬られますが、墓が無かったのを哀しみ、享和3(1803)年に関東郡代中川飛騨守忠英が墓碑を建立した。という伝承を元にしているのです。

 

 

 利根川と栗橋宿


街道沿いには「橋原屋」の屋号の建物があります。江戸末期に建てられ、燃料店として明治中期に創業していました。その後、味噌や醤油、塩などの食料品も扱っていました。

 

 
街道から利根川の堤防に差し掛かったところに八坂神社があります。栗橋宿の総鎮守です。ユニークなのは、狛犬が「狛鯉」なんです。
 
謂れはこうです。
慶長年間、利根川の大洪水の折、当地の村人が総出で堤防の補強工事を行なっていたところ、川の波間に鯉と泥亀に囲まれた神輿が流れてきたので、これを引き上げると、元栗橋に祀られている八坂神社の神輿でした。
村人は、この激しい流れに神輿が転覆することもなく、着いたことから鯉を崇めたようです。

 

 

利根川堤防に栗橋関所跡碑があります。日光街道唯一の関所です。番士は4家が勤め、「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まっていました。

 

 

利根川を渡ります。橋の中程から上流を撮ったものですが、あらためて利根川の水量の多さに驚かされます。

利根川は水上山を源流に鹿島灘に注いでいます。昔から坂東太郎と呼ばれる暴れ川で幾多の洪水をもたらしました。

 

江戸時代には橋はなく、「房川の渡し」という舟渡しでした。将軍の日光社参りの際は51艘の舟を並べた舟橋で渡していました。

 

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 静御前の遺品がある光了寺


利根川を渡ると、中田宿です。明治末期に行われた利根川河川改修によって中田宿の街並みは利根川下の河原になってしまいました。


しばらく県道228号線を歩いた先に光了寺があります。

 静御前を葬ったという栗橋の「高柳寺(光了寺)がこの地に移転しています。

お寺には静御前が後鳥羽上皇より賜ったという「蛙蜊龍(あまりりゅう)の舞衣」、義経かたみの懐剣・鎧などの遺品が納められています。

 

 

 小江戸「古河宿」と鷹見泉石


古河宿に入ります。

解説版によると、江戸時代、古河宿では松並木が日光街道沿いに5キロにわたってあったそうです。街道沿いには、所々に史跡案内を兼ねた常夜灯が置かれています。

 

 

街道をしばらく歩き、「古河歴史博物館」、「鷹見泉石(たかみせんせき)記念館」の案内表示にしたがって進むと、竹林が美しい「鷹見泉石記念館」が見えてきます。

いつだったか、旅行雑誌で小江戸の雰囲気のある鷹見泉石記念館の竹林の写真を見て、古河に行ってみたいと思っていました。

 

この建物は、古河藩家老の鷹見泉石が隠居後、過ごしていた居宅です。いかにも立派な武家屋敷の趣を感じさせてくれます。

 


 鷹見泉石は、古河藩藩主・土井利厚と利位(としつら)の二代にわたって仕えた家老で、蘭学、地理、歴史、天文学、兵学、博物学など幅広い知識を学んでいた方でした。


「土井の鷹見か、鷹見の土井か」といわれたほど泉石の手腕は優れ、藩財政の建て直しをはじめ藩主・利位の大坂城代時代には「大塩平八郎の乱」を平定したのも鷹見泉石の功績とされています。

 

 

建物は、寛永10年(1633)古河藩主土井利勝が、古河城の三階櫓を造った時の残り材を使って建てたと伝えられ、現在の建物の4倍の広さがあったと言われています。

 

いくつも座敷のある長屋門もあって、元治元年(1864)には、天狗党の乱に巻き込まれ、幕府に降った水戸藩士100名あまりを一時収容したこともあったそうです。

 

 

鷹見泉石記念館の前には親水公園が作られています。

この場所は、かつて古河城の堀があった場所で、発掘調査の後、堀を遺跡保存のために埋め戻し、その面影を残しているものです。親水公園の上には歴史博物館があります。

 

鷹見泉石は、隠居後も各界の著名人とも多彩な交流関係を築き藩に多くの重要な情報や資料をもたらしていました。

 

親交のあった人物には、幕府の要人・江川英龍、蘭学者で泉石の肖像画を描いたことでも知られる渡辺華山、砲術家の高島秋帆、海外渡航者の大黒屋光太夫らがいます。


鷹見泉石の生きかたに触れることができる古河歴史博物館は、特に幕末の歴史好きの方にはオススメの歴史博物館ですよ。

 

 
渡辺崋山(かざん)が描いた国宝『鷹見泉石像』は、よくその姿を伝えています。

渡辺崋山は愛知県の小藩であった田原藩の藩士、蘭学に熱心で、泉石とは兄弟弟子でした。
その崋山が画家として残した肖像画の一つが「鷹見泉石像」です。
今では崋山の代表作として、国宝に指定され、東京国立博物館に展示されています。

 

鷹見泉石肖像画

 

近くには、歴史作家の永井路子氏が寄贈された資料を元に設置した「古河文学館」や煉瓦造りの校門の「古河第一小学校」があります。

 

 

「福法寺」の山門は、古河城二の丸御殿口の「乾門」を移築したものです。

 

 
古河第一小学校の塀越しに「鷹見泉石生誕之地碑」があります。
残念ながら落書きがありました。

 

 

この付近には、古い建物がいくつも保存されていて、街を挙げて郷土の歴史を大切にしているのが伝わってきます。


再び日光街道に戻るように歩いていると「永井路子旧宅」を見つけました。


永井路子の母方の実家のようですが、幼い頃から、この地で過ごしています。永井路子さんは歴史小説家で特に中世の小説を書いています。


随分前になりますが、有隣新書 『相模のもののふたち 中世史を歩く』を読んだことを思い出しました。

この建物は、古河文学館開館に併せて、別館として平成15年から開館しています。

 

 

建物は、江戸時代末期の商家の佇まいです。 東日本大震災の時に被害があったため、修復改修工事を行い、再び平成24年に再開館しています。

 

古河文学館も永井路子氏の寄贈によって設置されているので、併せて旧宅見学もオススメです。旧宅ではお座敷や裏庭まで自由に見学させていただけます。

 

 

永井路子旧宅の隣には、「古河街角美術館」があります。


古河市は芸術活動の盛んな地で、著名な芸術家を輩出しています。


展示室では、古河市ゆかりの作家の作品を自由に見ることができます。 

 
 

古河街角美術館の隣には、「篆刻美術館」があります。


平成3年に日本で初めて篆刻専門の美術館として開館しています。


建物は、大正9年に建築されたもので、国の登録文化財です。

 

 
日光街道は金刀比羅宮を過ぎたところで、かぎ状に直角に曲がっています。如何にも城下町の雰囲気があります。

奥に入ってみると、武家屋敷らしき建物もありました。

 

 

続く