筑波道への追分道標

 

権現堂堤を離れ、しばらく進むと、追分道標があります。

安永4年(1775)建立の筑波道追分道標です。江戸時代に筑波山の参詣に使った道ですね。道標には「左日光道」「右つくば道」とあります。道標通りに左の日光道を進みます。

 

 
旧街道の途中に時代を感じさせる一軒の商店が見えてきます。吉羽屋酒店です。この辺りの地名を「外国府間(そとごうま)村」といいます。なかなか読めません。

 

 

見渡す限りに田園風景が広がっています。

 

 
旧街道を進むと、雷電社湯殿社に着きます。外国府間村の鎮守です。

社殿は、平成13年4月に不審火で焼失しましたが、地元の手で再建されました。

 

 

 小右衛門の一里塚跡
 

その先に真光寺というお寺があります。その隣に小右衛門の一里塚跡があります。現在は、その跡に弁財天堂が建っています。

 

 

この辺りの地名を「小右衛門村」といいます。

小右衛門とは、この地を新田に開拓した者の名から付けられたようです。旧街道の左手に門と白い蔵を残す旧家があります。

 

 

暴れ川の権現川に沿って造られた国道4号線は行幸堤としての役割も担っています。

旧街道は、その国道4号線に沿ってあります。今、東北新幹線の高架を潜るところです。

 

 

 栗橋大一劇場

 

突然目の前に「栗橋大一劇場」という大きな看板の建物が現れます。俗に言う「ストリップ劇場」でした。劇場の裏手に旧街道が続いています。大見出しにすることもありませんでしたが。

 

 

 会津見送り稲荷

 

しばらく進んだ所に「会津見送り稲荷」があります。民家の庭先にあるので見過ごさないようにしましょう。

会津藩士が道に迷った際に助けてくれた老人が狐の化身だったことから建てられたと言われています。また、この辺りに「名物栗餅」を商う茶屋が8軒あったと伝えられています。

 
 

 炮烙(ほうろく)地蔵

 

会津見送り稲荷から500メートルほど進むと、「焙烙地蔵」があります。

近くにある「栗橋関所」の関所破りが「火焙りの刑」に処せられた刑場跡です。地蔵尊は刑死者供養のために造立されたものです。

「エボ地蔵」とも呼ばれていて、線香の灰をイボに付けると霊験新たかと言われています。

 

 

 栗橋宿

 

栗橋宿に入ってきました。栗橋宿は利根川の舟運で栄えた宿場でした。

一方、利根川の氾濫により洪水の被害もありました。

電柱に巻かれた赤いテープは、昭和22年(1947)9月のカスリーン台風の際に利根川が決壊し、洪水となり、水位がここまで来たことを教訓として示しています。

高いところでは、9メートルの高さまで水位が上がったと言われています。

 

 

旧道には宿場町らしい木造の建造物は見かけませんでしたが、宇都宮で採掘された大谷石を使った土蔵を見つけました。日光街道ならではの作りですね。
 
 
旧家には江戸時代につくられた築地塀が見られます。

 

 

 義経の内妻静御前ゆかりの地

 

栗橋駅前に「静御前の墓」があります。

源義経の寵愛を受けた内妻の静御前が平泉に行く途中、義経討死の報を聞き、文治5年9月15日(1189年)久喜市伊坂(旧村名、静村)にて悲恋の死を遂げたと伝えられています。

この墓石は後享和3年(1803)関東郡代中川飛騨守が建立したものです。

 

 

JR栗橋駅は湘南新宿ラインや上野東京ラインが通っているので、都内からの交通が便利です。

 

 

JR春日部駅を午前8時30分にスタートし、JR栗橋駅に午後2時に到着しました。約5時間ほどの街道ウォークとなりました。

歩いた距離は、25㎞です。時速約5キロで歩いたことになります。これは、結構速いペースです。