「陸奥爆沈」の謎を追って
私は作家吉村昭の記録小説が好きで、度々小説の舞台となっていた場所を訪れては、ブログで紹介してきました。今回は「陸奥爆沈」という記録小説を読み終え、戦艦陸奥が建造された横須賀海軍工廠のあった横須賀港に来てみました。
横須賀港は今もアメリカ海軍基地や海上自衛隊の軍港として引き継がれています。そして、対岸には綺麗な植栽やベンチが整備され、「ヴェルニー公園」という名称で市民の憩いの場になっています。
ヴェルニー公園はJR横須賀駅から徒歩0分のところにあって、アクセスも最高です。このヴェルニー公園に「戦艦陸奥」の主砲身が野外展示されています。
戦艦陸奥は大正10年に就役し、戦艦長門とともに、日本の海軍を牽引する象徴として世界に名を轟かしていましたが、第二次世界大戦ではあまり出番がないまま、昭和18年6月18日に柱島沖(周防大島伊保田沖)で原因不明の爆発事故を起こし沈没してしまうのです。総員1471人のうち死者1121人、生存者わずか350人という大惨事でしたが、大々的に世間に公表されることはありませんでした。
その沈没の原因を探る経過が吉村昭の小説「陸奥爆沈」で描かれているのです。
「戦艦陸奥」主砲の里帰り
戦艦陸奥は戦後、海底から引き上げ作業が行われ、昭和45年には艦体の一部や菊の御紋章、主砲塔、主砲身などが回収され、日本各地で展示された後、この主砲は「船の科学館」に展示されていましたが、東京オリンピックに伴う再開発のため移転することになり、平成29年3月に横須賀港に里帰りしてきたのです。
主砲は、41インチ砲で、長さが約18.8メートル、重さは約102トン、主砲8本のうち、四番砲塔の一門で、昭和11年に横須賀海軍工廠で行われた大改修の際に搭載されたものです。
横須賀製鉄所(造船所)と軍港
主砲に隣接して「ヴェルニー記念館」があります。ヴェルニーとは幕末に日本国内で初めて造られた近代式造船所「横須賀製鉄所」を建設したフランス人技師で、その功績を紹介するためにつくられた博物館です。
ヴェルニー記念館に入ると、戦艦陸奥の100分の1の精巧な模型が展示されています。
このパネルは、明治22年当時の横須賀製鉄所(造船所)を紹介したものです。
元横須賀製鉄所の向かいにヴェルニー記念館が位置しているので、下にある位置図と照らして当時の様子を想像することができます。
これは、横須賀製鉄所に当時据え付けられていたスチームハンマーの実物展示で、当時オランダから輸入されたものです。蒸気の圧力で大型の鉄の加工を可能にするもので、これにより国内で艦船が造れるようになりました。
ヴェルニー公園から海上自衛隊の艦船を見ることができます。時代は変わりましたが、横須賀港が担っている軍港としての役割は今も継承されているのがわかります。
下の艦船は、「いかづち」という護衛艦です。
こちらは海上自衛隊の潜水艦で「たいげい」だと思います。横須賀港にはこうした海上自衛隊の軍艦などのほか、アメリカ海軍のイージス艦や潜水艦なども停泊しています。
ヴェルニー公園の中央には、ヴェルニーさんの胸像があります。
ヴェルニーさんの隣には「小栗上野介忠順」の胸像があります。小栗上野介忠順は、日本初の遣米使節を務め、外国奉行や勘定奉行など徳川幕府末期の要職を歴任し、フランスの支援のもと、横須賀製鉄所(造船所)の建設を進めた方です。
大政奉還後も、徹底抗戦を主張していたため役職を解かれ、領地の上野国田村(群馬県倉渕村)に移りますが、何の取調べもないまま、官軍により斬首されてしまいます。
爆沈していた戦艦三笠
さて、タイトルにあった「陸奥爆沈の謎」についてはまだ触れてませんでしたが、タイトル通り、今も「謎」とされているのです。
吉村昭の記録小説「陸奥爆沈」では、詳細に「査問委員会」の内容や関係者による調書なども詳らかに書かれています。
査問委員会では当初、「自然発火説」を有力視していましたが、諸条件を考え合わせ、実験を重ねた結果、装薬の自然発火は決してあり得ないことが確認されました。ただし、常識では考えられないこととして、装薬缶の蓋が全て開けられていた時には装薬の発火により、誘爆を起こし、大爆発となることが判明したのです。
実は、「戦艦陸奥」の爆沈以前にも、同様に停泊中に爆沈している軍艦がいくつかありました。そのうちの一つがこの「戦艦三笠」です。
戦艦三笠は、日本海軍連合艦隊の旗艦として東郷平八郎の指揮のもと、ロシアのバルチック艦隊を殲滅し、日本側に勝利をもたらしたことは教科書で習いましたが船舶中に爆沈したことは知りませんでした。
戦艦三笠の爆沈は、日本開戦から3ヶ月後の明治38年9月11日のことです。佐世保港に寄港していた時に爆発炎上し、その場で沈没してしまいます。多数の死傷者を出しました。
その後、査問委員会が開かれましたが、やはり解明には至りませんでした。
原因については諸説ありますが、記録小説「陸奥爆沈」の中で、旧海軍技術少佐の福井静夫氏が「日本海戦に勝利をおさめ、浮き浮きした空気にあふれ、解放的な気分で祝酒も出されていた、その中の数人が深夜、火薬庫に酒を持ち込み宴をひらき、その時にローソクが倒れ、火薬に引火し、火薬庫が大爆発を起こした」と証言しています。
「戦艦三笠」の爆沈についても最終的には、原因不明の事故として処理されているのです。
戦艦三笠は、爆沈後、停泊していた海底が浅かったことから、引きあげて改修され、現役として第一次世界大戦にも参加します。その後、ワシントン軍縮会議で廃艦が決まりますが、何とか解体を免れ、現在の横須賀新港に固定展示されることになったのです。
陸奥爆沈の謎
話は「戦艦陸奥」に戻ります。戦艦三笠を含め乗組員の行為により、火薬庫爆発の事故を起こしているものが3件(「三笠」「磐手」「日進」)あります。他にも原因不明として2件(「松島」「河内」)あります。
日本海軍は「戦艦陸奥」についても乗組員の行為ではないかと疑いを抱きます。そして、査問委員会は或る一人の人物を特定します。吉村昭の取材により当時技術少尉だった鈴木氏から名前が明かされます。
特定された某二等兵曹は艦内で盗みをはたらいていたことから、軍法会議にかけられ処罰されることを恐れ、絶望的になり、罪状隠滅のため火薬庫に入り、火を放ったというのです。しかし、某二等兵曹の行方は分からず、死体も確認できないことから今も謎とされています。
記録小説「陸奥爆沈」の「あとがき」に衝撃的な記述があります。この小説が単行本として出版された頃、瀬戸内海に沈む戦艦陸奥の引きあげが進められていました。昭和45年7月23日、まず砲塔が海面から姿を現します。
その内部からは一体の遺骨と印鑑2個が発見されるのです。その印鑑には某二等兵曹の名前が刻まれていたのです。吉村昭はこれをどのように解釈すべきかは、私の判断の範囲外にある。と記されています。
横須賀新港に固定展示された「記念艦三笠」から、「猿島」がよく見えます。この桟橋から10分ほどで上陸することができるそうです。

















