年度末ということもあって、このところ貧乏暇なし状態で、皆さんのプログにも訪問できずにいました。ようやく、少し抜け出せた感じです。

越ケ谷宿

今回は、日光街道・越ケ谷宿から粕壁宿に向かいます。
蒲生の一里塚から先に進むと、比較的新しい住宅街が続いています。その一角に小さな祠を見つけました。不動明王の道標です。
享保13年(1728)建立の不動明王像の台石には「是より大さがミ道」と太い字で刻まれています。
これは南越ケ谷にある大聖寺(大相模不動)への道標を兼ねた石塔でした。
地域史家の調べでは、現在では大聖寺(大相模不動)までの道は途中で失われているとのことです。時代の波とはいえ、東京近郊の住宅開発で失われた史跡や古道がたくさんあることに気付かされます。
石塔の隣には、正徳3年(1713)建立の笠付青面金剛蔵庚申塔が並んでいます。
 

 

新道と交差する辻に「清蔵院」があります。山門は越谷市の有形文化財に指定されています。寛永15年(1638)の関西の工匠の作と言われています。

 

 

山門の龍は、金網で覆われています。

巷間の伝説では、この山門の龍は伝説的彫刻職人の左甚五郎の作とされ、夜な夜な山門を抜け出して畑を荒らしたことから、金網で囲ったと言われています。

作製時期から日光東照宮の造営に当たった工匠の一人が作ったのかもしれませんね。

 

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しばらく、県道49号線沿いを歩きます。旧日光街道と分かれる右手に「照蓮院」というお寺が見えてきます。

 

 

武田勝頼遺児が眠る照蓮院

照蓮院は、武田家の重臣・秋山信友の甥の秋山長慶が開基したものです。

 

天正10年(1582)、織田信長らの甲州征伐により、武田勝頼と嫡男・信勝が天目山が自刃しますが、その際、甲斐武田家の家臣秋山長慶は、勝頼の遺児千徳丸を連れ、落ち延び、越ケ谷瓦曽根村に潜居していたと言われています。しかし、翌年、千徳丸は早世してしまい、それを悲しんだ長慶は照蓮院の住職となって菩提を弔ったと伝えられています。

 

その後、秋山家は千徳丸の供養のため、寛永14年(1637)、秋山家墓所に五輪塔(中央の小さな五輪塔)を造塔しました。これには「御湯殿山千徳丸」と刻まれています。

 
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秋山長慶の兄虎康の娘は、徳川家康の側室、於都摩(おつま)の方といい、家康の五男武田信吉を生んでいます。
天正10年3月の織田・徳川連合軍の甲州征伐の際、甲斐河内領主の穴山信君(梅雪)は、武田家を離れ、織田・徳川方に臣従しますが、その際、武田家臣秋山長慶の兄虎康の娘である於都摩の方(下山殿)を養女として家康に差し出しており、於都摩の方は家康の側室となるのです。
一説には家康が側室に武田の血族を求めていたため、表向きは武田信玄の末娘として、家康に輿入れしたとも言われています。
 
甲斐の地から遠く離れた越ケ谷に建つ照蓮院は、武田家滅亡に因んだ史跡でもありました。
 
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宿場の面影が残る商屋

県道を離れ、しばらく旧日光街道を歩きます。かつての宿場町の名残のような建築物が目に付くようになってきました。

 

この建物は、昭和初期に建てられた水田家です。漆喰の材料となる布糊を扱う商いをされていましたが、その後、文具店を営み、現在は民家となっているそうです。

 

 

先祖が漆を扱っていたことから塗師(ぬし)市という屋号を持つ江戸時代の呉服商の小泉家です。店舗と蔵が横に並ぶ造りとなっています。蔵の前にあるレンガは防火壁となっています。
 

 

小泉家の並びに建つ鍛治忠商店は、明治33年に建てられた蔵造りの日用雑貨のお店です。

 

 

越谷市越ヶ谷本町の日光街道沿いに位置する元商家の旧大野家住宅です。明治時代に建築された主屋と土蔵は、日光街道越谷宿の景観を伝えています。
現在は、レストランや店舗を備えた古民家複合施設「はかり屋」として活用されているそうです。
 
 

大沢村総鎮守の越谷香取神社です。風に揺れる鯉のぼりが気持ちを和ませてくれます。

 
 
慶応2年(1866)建立の奥殿外壁には、紺屋の作業風景が精巧に彫刻されています。越ヶ谷が染物業の盛んだった土地であることが分かります。
 
 
越谷香取神社の創立年代は不詳のようですが、奥州街道、日光街道に面し、武州大沢宿として、江戸時代には武士、町人、百姓の往路、帰路の旅の安全と家族の安泰を祈願して参詣休憩する場所だったようです。
 
 

東武スカイツリーラインの高架を潜ると、元荒川の河川敷が見えてきます。

堤防の目線の位置に「古奥州道道標」があります。道標には「右じおんじ のじま道」と刻まれています。

 
 

その河川敷の一角に厳格な門に閉ざされている施設があります。正面の門の奥にある施設は「宮内庁埼玉鴨場」です。

鴨の飛来が少なくなった東京浜離宮の代替として明治37年(1904)に皇室用の遊猟場として建設されたものです。約11万7千㎡の敷地の中に約1万2千㎡の鴨池があります。

 
 
旧街道の道路脇に庚申塔の祠があります。小さな祠の中には宝永7年(1710)建立の青面金剛像庚申塔が安置されていました。
 
 

芭蕉が宿泊した東陽寺

一宮の交差点で斜め左に進みます。その角に芭蕉が宿泊した「東陽寺」があります。
春日部郷土資料館によりますと、「東陽寺は、文明年間(1469-1487)に春日部八幡神社の東隣に開山したが、寛永元年(1624)に焼失し、寛文2年(1662)に当地で中興したと伝えられる。松尾芭蕉に随行した弟子曽良の日記に「廿七日夜カスカヘニ泊ル」とあり、元禄2年(1689)3月27日、芭蕉が「奥の細道」の旅で同寺に宿泊したともいわれている。」とあります。
 
 
境内の寺碑に「廿七日夜カスカベニ泊ル江戸ヨリ九里余」と刻まれていて、芭蕉ゆかりの寺院であることがわかります。
 


粕壁宿

小沢本陣跡に到着です。ようやく粕壁宿の中央に差し掛かりました。街道は整備されているので、旧道の面影はありません。
 
 

旧商家東屋田村本店前の道しるべ。天保5年(1834年)のもので、道標の表には「西南いハつき(岩槻)北日光 東江戸右之方陸羽みち」と刻まれています。建物は「田村荒物店」で、裏には豪壮な家屋と蔵が残されています。

 
 
裏手に参りますと、こちらには、 天保5年(1834)建立の道標があります。
 
 
 新町橋(西)の交差点に「佐渡屋敷」の土蔵(国の登録有形文化財)があります。戦前まで浜島家は米穀商を営んでいました。
 

今回はここまでといたします。(続く)