吉村昭の歴史小説の特徴は、何と言っても史実に基づいて書かれていることですね。吉村昭は、「事実はまさにドラマである」という信念で、多くの取材を重ねて歴史小説を書いてきました。特に、幕末の「漂流」ものや、「逃亡」ものを題材にした作品は吉村昭の真骨頂といえます。
その「漂流」と「逃亡」の両方を味わえる作品が「島抜け」だと思います。とてもスリルのある物語なので、オススメです。
文庫本「島抜け」には、「島抜け」の他に短編2作品が収められています。今回は、その中の一編「梅の刺青」の舞台を歩いてみることにします。
このお寺は、東京都文京区白山にある「念速寺」です。念速寺は、寛文12(1672)年に創建された浄土真宗のお寺で、「小石川植物園」のすぐ側にあリます。
美幾女(みき)は、江戸時代末期の人。駒込追分の彦四郎の娘といわれる。美幾女は、病重く死を予測して、死後の屍体解剖の勧めに応じ、明治2年(1869)8月12日、34歳で没した。死後、直ちに解剖が行われ、美幾女の志は達せられた。当時の社会通念、道徳観などから、自ら屍体を提供することの難しい時代にあって、美幾女の志は、特志解剖一号として、わが国の医学研究の進展に大きな貢献をした。墓石の裏面には、"わが国病屍解剖の始めその志を憙賞する"と、美幾女の解剖に当たった当時の医学校教官の銘が刻まれている。文京区教育委員会
解剖と言うと、明和8年(1771)3月4日に杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らが小塚原の刑場で女囚の腑分けに立会い、「解体新書」の刊行をうんだことが有名ですね。
江戸時代後期になると、西洋医学を学ぶ者によって、解剖が続けられましたが、幕府が公認しているのは中国医学だったことから、漢方医たちの西洋医学への反発があり、江戸で行われることは稀でした。
明治維新以来、一例もないことから苛立っていた医師たちは、医学校に付属していた黴毒院に視線を注ぐようになっていました。その医療所は、広く蔓延する梅毒に侵された重傷患者を収容していましたが、治療法もなく死を迎える者がほとんどでした。
黴毒院は、徳川吉宗が創設した小石川養生所の性格をそのまま受け継いだところで、極貧の梅毒患者に無料で薬を与え治療を施す施療院でした。現在の小石川植物園に小石川養生所はありました。
黴毒院に入院している患者の中に、みきと言う34歳の女がいました。長年遊女をしていた女で、みきの病勢は進み、体は痩せこけ、寝たきりの状態で舌もただれて出血し、激痛に悶えていました。みきも死を自覚していました。
医学校の医師は、医学の進歩のため死後の解剖を受け容れるように溶きます。みきの心を動かしたのは、解剖後、厚く弔うという言葉でした。遊女は死ぬと投込寺の穴に遺棄されるのが習いだったことから、戒名をつけて、然るべき寺の墓地に埋葬し、墓も建ててやるという説得を受け容れたのです。
旧藤堂家の江戸屋敷に建てられた医学校では、直ちに解剖の準備に手を付けました。
体の所々にはただれの跡が残り、身体は痩せこけ骨が浮き出ている。乳房はしぼんでいるが、隠毛の豊かさと艶をおびた黒さが際立っていた。遺体を見つめる医師たちは、みきの片腕に思いがけぬものがあるのに視線を据えた。それは、刺青で、梅の花が数輪ついた枝に短冊が少しひるがえるようにむすばれている。短冊には男の名の下に「・・・さま命」と記されている。
白提灯灯をかかげた長い葬列に、沿道の人々は身分の高い死者の葬送と思ったらしく、道の端に身を寄せ、合掌し頭を垂れる者もいたそうです。
四人の僧の読経のもと葬儀が行われ、みきには「釈妙倖信女」という戒名がおくられました。






