旧前田家本邸
明治17年、華族令発布により、前田家は侯爵の爵位を授与されて、百万石の威信を保っていましたが、約10万坪あった前田家上屋敷の大半は、文部省用地東京帝国大学(現東京大学本郷キャンパス)と駒場の東京帝国大学農学部実習地4万坪と交換されることになったのです。
今も東京大学に残る赤門は、上屋敷の御守殿門で、文政10年(1827)に第12代斉泰が第11代将軍家斉の息女溶姫を正妻に迎えた際に造られたものなのです。
重々しいノッカーの付いた玄関扉を開けると、そこには深緑の蛇紋石の柱、チーク材の梁、寄木細工の床、シャンデリアで彩られ、重厚で広々とした玄関広間が現れます。
その周囲には、大小客間や応接間が配され、用途によって使い分けられています。
中庭に面した縦長3連アーチのガラス窓から大階段に柔らかい光が差しています。
小さな菱形の色ガラスを並べた意匠はテューダー様式の特徴で、大きなガラスを作るのが難しかった時代のデザインを模したものとなっています。
2階は侯爵家の私的な空間で、家族の私室が並んでいます。
夫人室は、邸内でもっとも華麗な部屋で家族や親類の集まる居間でもあったそうです。
夫人室に並んで、子供達の私室が続いています。
また、和室もありましたが、使用人の部屋と記されていました。当時、使用人は100人程いたと言われています。
侯爵夫妻の寝室の内装は、銀地に金銀色の模様の壁紙、カーテンは絹織物、絨毯は毛織物で、大変豪華なもの。
ベッドの枕元の壁龕には、守り刀が飾られています。
1階の客間からは、広大な芝庭が見えます。
南側には築山もあり、家族はスキーやゴルフを楽しんでいたようです。また、園遊会などの催事会場としても使用されていました。
芝庭から洋館南側を撮影したもの。
洋館南側には屋根付きのベランダがあり、半屋外として利用できるようになっています。
特に1階のベランダは、サロンや大客間から芝庭へ続く外回廊のような空間で、3連アーチが見事です。
芝庭には梅が見頃を迎えていました。
洋館北側の写真です。
煉瓦に見えるのは、表面に引っ掻き傷をつけたスクラッチタイルで、帝国ホテルや東京帝国大学の本郷キャンパスをはじめ、この時代の建物装飾に多く用いられていたそうです。
洋館北側の奥に進むと和館があります。洋館とは渡り廊下で繋がっていました。
和館は、主に外国からの賓客をもてなすために建てられ、四季折々の前田家の行事にも用いられていだそうです。
木造2階建ての近代和風建築で、見学者は見ることはできませんが、庭園側から見ると、銀閣寺とプロポーションが似た姿をしていました。
和館の門は、唐破風が横につく平唐門の形式で、唐破風頂部に幼剣梅鉢紋の瓦を載せています。
駒場への本邸移転は、昭和4年に洋館、昭和5年に和館が竣工しています。
東京帝国大学工科大学教授である塚本靖を中心に、明治神宮造営技師を務め高島屋東京店などを設計した高橋貞太郎や宮内省内匠寮技師で東京国立博物館の内装を手がけた雪野元吉など優秀なスタッフが行い、工事は竹中藤右衛門(現在の竹中工務店)が請け負っています。
1階大広間は、主室と次の間と合わせると40畳近くあり、周囲を畳廊下で囲んでいます。
1階大広間から池泉庭園が見えます。
灯篭は本郷邸から移設したものです。奥には、小さな滝があり、池に注がれています。
秋の紅葉の時期に再び見てみたいですね。
洋館に隣接して近代文学館が配置されていたが、平成14年に閉館されています。
日本民藝館
旧前田家本邸がある駒場公園に隣接して、日本民藝館があります。日本民藝館は、1926年に思想家の柳宗悦らにより企画され、1936年に開設されました。柳の審美眼により集められた陶磁器、染織品、絵画など約17000点が収蔵されていて、国内外から高い評価を受けています。今回は見学できませんでした。
外観、各展示室ともに和風意匠を基調としながらも随所に洋風を取り入れた施設となっています。
旧館および道路に面した石塀や門柱は、大谷石でできていて、1999年に国の有形文化財に登録されています。
日本民藝館本館の道路向いに西館(旧柳宗悦邸)があります。
栃木県から移築した石屋根の長屋門と、それに付設した母屋からなっています。72歳で没するまで柳宗悦が生活の拠点にしていた建物です。




















