東浦賀の船着場の横に「徳田屋跡」の解説板があります。
徳田屋とは東浦賀の旅籠で、浦賀が江戸湾防衛の最前線となると、多くの武士や文化人が訪れたといわれています。その中には、吉田松陰や佐久間象山がいました。

 

 

東浦賀は、浦賀湾の周囲を除くとほぼ山々に囲まれている場所ですが、お寺と神社が所狭しと建ち並んでいます。
 
最初に伺ったのは顕正寺です。
このお寺には、横須賀が舞台となった小説「血族」の作者山口瞳や江戸時代の陽明学者、中根東里の墓があります。
 
次に向かったのは、東林寺です。
墓地には、浦賀奉行所与力だった中島三郎助親子の墓があります。お墓は偶然見つけることができました。

 

中島三郎助の墓は、右手前の墓石です。ここで、中島三郎助の人物像に少し触れたいと思います。

 

中島三郎助は、黒船来航の折に浦賀奉行所副奉行と称し、旗艦サスケハナ号の船上でペリー提督と交渉に当たります。その功績は大きく、中島は幕府から金一封を貰い受けます。


黒船来航を機に、全国に海防のお触れが出され、品川には台場が造られ、砲台が全国各所に整備されるきっかけとなりました。
幕府にとって最初の西洋式大型軍艦となる鳳凰丸の建造は、中島三郎助らが担当することになります。
 
その後、幕府の命により勝海舟らと共に長崎海軍伝習所の第一期生として、軍事と航海術を修得し、築地海軍操練所に教授として迎えられます。
 
しかし、勝海舟と反りが合わず、浦賀で咸臨丸の修理に携わりながらも、遣米使節団には選ばれませんでした。
 
再び浦賀奉行所に戻りますが、ちょうどその頃、幕府が瓦解し、浦賀奉行所も新政府軍の手に落ちます。
 
中島三郎助から造船知識を授けられた長州の桂小五郎からは新政府の要職を勧められますが、義を重んじた中島は榎本武揚と共に、海陽丸の機関長として箱館戦争に向かうのです。
 
箱館五稜郭の前線基地となった千代ヶ岡陣屋では、箱館奉行並となった中島三郎助が陣頭指揮をとりました。
 
箱館市内が新政府軍に制圧されたことから、榎本武揚から五稜郭に入るよう説得を受けますが、応じず、この地で中島三郎助親子は壮絶な死を遂げます。その2日後、榎本武揚ら旧幕府軍は降伏するのです。
 
この写真は、明治20年代の千代ヶ岡陣屋です。
 
今でも、千代ヶ岡陣屋のあたりは、中島町という地名が残され、毎年5月には、函館で中島三郎助まつりが行われているそうです。
 
また、毎年1月には、浦賀で生誕祭が行われています。中島三郎助は、函館と浦賀にとって誇りなのですね。

 

中島三郎助が眠る東林寺からは、浦賀港が見渡せます。対岸は西浦賀です。

 
次に叶神社に向かいました。東浦賀の鎮守様です。裏山は明神山といいます。
祭神は「厳島姫命」(いつくしまひめのみこと)で、海難その他の難事の際に身代わりとなって人々を救う「身代わり弁天」として祈願されています。
 

文治2年(1186)に源頼朝が源氏再興の願いが叶えられたので、叶明神とされたといわれています。

 
本殿の横にある石段を上り切ると(マップでは神社を巻いていますが)、曲輪のような場所に出ます。そこには「勝海舟断食之跡」という石柱が建てられていました。
 
ここで遣米使節団として咸臨丸でサンフランシスコに向う前に、祈願したといわれています。
 

この場所は、かつて浦賀城でした。

戦国時代に小田原北条氏が三浦半島を支配した時に房総里見氏からの攻撃に備えて北条氏康が三崎城の出城として築いたといわれています。
 
この場所からは、正面に房総半島を見ることができます。また、この下辺りが黒船が停泊した場所とされています。
 
さて、東浦賀の散策はこのくらいにして、再び西浦賀に戻りたいと思います。

今回の散策ルートです。

続きます。