再び西浦賀へ

渡船は、午後1時まで昼休みなのですが、私の顔を見て「どうぞ」と声を掛けてくださいました。15分も早くの出船です。船頭さんありがとうございます!
再び、西浦賀に向かいましょう。
 

先ほどは、叶神社のある明神山の頂きまで登りましたが、今度は、西浦賀の最高峰、愛宕山の登頂を目指します。

 

愛宕山には、中島三郎助の招魂碑と咸臨丸出航碑、与謝野鉄幹・晶子の歌碑があります。

中島三郎助招魂碑が建つ愛宕山

浦賀港沿いの路地に入ったところに「浦賀園」と読むのでしょうか、愛宕山公園の入口があります。

 

 階段を登り始めたところで、何十年か振りに大蛇と遭遇してしまいました。

 

毒蛇ではなさそうですが、アオダイショウ?・・・目を合わせないようにして、こちらから道を譲り、何とか切り抜けることができました。

 

息を荒くして登った先に「咸臨丸出航の碑」がありました。

この碑は、昭和35年に日米修好通商条約の締結100年を記念して建てられました。

碑の裏には、勝海舟をはじめ、福沢諭吉、中浜万次郎(ジョン万次郎)など乗組員全員の名前が刻まれています。

 

個人的には、主要な浦賀奉行所与力が選ばれるなか、功績も高く、咸臨丸の修理も担当していた中島三郎助や通詞として活躍した堀辰之助が遣米使節団の一員になれなかったことに複雑な思いがします。

 

 

 

 その先に中島三郎助の招魂碑と功績を記した解説板がありました。
 
江戸時代末期に横須賀造船所ができてから、浦賀は幕府の軍港としての役割はなくなりますが、中島三郎助の23回忌に建てた招魂碑の除幕式に、箱館五稜郭で共に戦った榎本武揚らが中島三郎助の功績を称えて、再び浦賀に造船所建設を呼びかけ、煉瓦造りのドライドッグが造られることになったのです。
 
それにより、浦賀は造船所の街として再び賑わいを取り戻すことになりました。多くの軍艦や、青函連絡船などがこの港で造られています。
 
現在、特定の日に文化財となった浦賀ドックを見学することできるようです。

 

 

 与謝野鉄幹と晶子の歌碑があります。この地で詠んだ後、鉄幹は20日後に亡くなっていることから、最期の歌となったのかも知れません。

 

(与謝野夫婦の歌碑)
*黒船を怖れし世などなきごとし浦賀に見るはすべて黒船  寛
*春寒し造船所こそ悲しけれ浦賀の町に黒き鞘懸く  晶子
 (引用;横須賀市 与謝野夫妻歌碑)

 

 さらに、先に進むと、何と日本龍馬会という法人が龍馬像をこの地に建てる計画だという看板を発見しました。
そもそも龍馬はこの地に来ているのだろうか?
 
 ちなみに龍馬像が建ったとすると、こんな景色を望むことになります。
対岸の山は先ほど登った明神山です。
 
陸軍桟橋の前にある「よこすか浦賀病院」は、浦賀奉行所の出先機関である番所が置かれていたところです。

番所では、江戸へ出入りする船の荷改め(検査)を行い、それは江戸中の経済を動かすほどの重要なものでした。

その業務は昼夜を通じて行われ、三方問屋と呼ばれる、下田と東西浦賀の回船問屋100軒余が実務を担当していました。

 

 太平洋戦争が終わると南方や中国大陸から引き揚げ者56万人がこの場所から上陸したそうです。

 

しかし、日本帰還の前に、船内でコレラが発生し、多くの死者が出たそうです。

 
堤防釣りにちょうど良いこの場所は「陸軍桟橋」です。

浦賀奉行所跡

浦賀湾から少し奥に入ったところに「浦賀奉行所跡」があります。

2年ほど前に来た時は、まだ団地がありましたが、現在は埋蔵文化財の調査も終え、更地になっています。

 

享保5年(1720年)に奉行所が下田から浦賀に移されました。

奉行所では、船改めのほか、海難救助や地方役所としての業務を行っていました。

 

また、1830年代にたびたび日本近海に出没するようになった異国船から江戸を防御する海防の最前線として、さらに重要な役割を担うようになりました。

奉行所跡を取り囲む堀の石垣は当時のものです。 

 

 浦賀奉行所跡から1キロほど歩いた先に「燈明堂跡」があります。
 
慶安元年(1642年)に幕府の命により建てられた燈明堂は灯台の役割をはたしていて、その灯は、房総半島まで届いたといいます。
 
燈明堂は、浦賀湾西岸の先端にあり、荒々しい岬の岩礁と反対側には美しい砂浜が続いています。
 

 image

 
燈明堂の建物は明治5年に消滅しますが、台座の石垣のみ横須賀市の史跡に指定されています。

幕末はここから始まりましたペリー上陸記念碑

ここまで来たら、ペリー提督が最初に上陸した久里浜に参りましょう。
 
1853年7月14日(嘉永6年6月9日)、米国フィルモア大統領の日本開国を求める国書をもって、提督ペリーは久里浜海岸に上陸しました。

この歴史的事実をきっかけに、翌年には日米和親条約が結ばれ、日本は200年以上に渡ってつづけてきた鎖国を解き、開国しました。

ペリー公園は、日本の近代の幕開けを象徴する史実を記念した公園です。
 
1901年(明治34年)7月14日、ペリー上陸と同じ日にペリー上陸記念碑の除幕式がおこなわれました。
 
碑文の「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」は、初代内閣総理大臣 伊藤博文の筆によるものです。
 
太平洋戦争以降、日米が敵対関係となり、1945年(昭和20年)2月に碑は引き倒されました。
しかし、終戦後、粉砕されず残っていた碑は同年11月に復元されました。
 
公園の奥にペリー記念館があります。1987年(昭和62年)に横須賀市の市制80周年を記念して建てられました。
 
1Fは黒船来航を再現したジオラマ模型の展示ホール、2Fはペリー上陸にまつわる貴重な資料を展示するスペースとなっています。月曜日は休館です。
 
この久里浜の海岸には、ペリー艦隊の4隻の軍艦が整列していたことでしょう。
 
ペリー公園から最寄りの駅、京急久里浜駅まで歩きました。今回の旅で歩いた距離は14Kmでした。私にとっては、久しぶりの距離です。

西渡船場から京急久里浜駅までの散策マップ

続きます。