今回は、熱中症を避けるため、外出せず、昔の写真から記事を書きました。かなり、堅苦しい記事ですが、我慢してお読みください。

護国寺

護国寺は、東京メトロ有楽町線の「護国寺駅」のすぐそばにあります。訪れた日は、ちょうど節分の前の日とあって、護国寺の境内では、その準備に追われていました。

護国寺は、五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の願いにより、天和元年(1681)に創建された祈願寺です。その後、将軍家の武運長久を祈る祈願寺となっています。

将軍家の祈願寺らしく、仁王門、多宝塔、本堂など威厳のある伽藍に圧倒されます。元禄時代に建てられた本堂と近江の三井寺の客殿を昭和3年に移築した月光殿はともに重要文化財に指定されています。

 

 

仁王門をぬけ、階段を上がり、本堂までの間に建つ不老門。額面の「不老」の2字は徳川家達公の筆によるものです。

 

観音堂(本堂)は、元禄時代の建築工芸の粋を結集した建築物で、震災、戦災にあったにもかかわらず、その姿を変えず、江戸の面影を今に伝えています。

護国寺は徳川幕府を倒した元勲の墓地に

明治になり、将軍家というスポンサーを失った護国寺は、境内を墓地として分譲することにしました。それを購入したのが皮肉なことに、徳川幕府を倒した「元勲」でした。

明治23年(1890)、揃って参った三条実朝(公爵)、山縣有朋(長州)、大隈重信(佐賀)は「俺達も一緒に仕事をすれば後年相当に名を残すだろう。斯うして後に我々が安眠するのは此の場所と決め様ではないか」と、同26年になり墓地を購入する(東京毎夕新聞)」。

本堂に行くと、護国寺に眠る元勲や著名人の墓地の位置を示した配置図をいただくことができます。最初にお参りしたのが三条実朝の墓です。墓地にあって、大きな鳥居があるのですぐ分かります。

三条実美墓

三条実美は、尊王攘夷派の公家で、長州藩を支援。1863年、公武合体派の皇族や薩摩藩、会津藩らが起こし八月十八日の政変により、京都を追放され、長州藩へと落ち延びます(七卿落ち)。翌年に起きた第一次長州戦争に際し、王政復古で許されるまで、太宰府で過ごし、1867年の王政復古で、明治新政府の要職に就きます。

明治22年(1891)には、黒田清隆内閣の内大臣を務め、黒田首相が辞任した後、総理大臣を兼任していました。明治24年に55歳で病死します。

山縣有朋墓

松下村塾で尊王思想を学び、のちに戊辰戦争に参加、大村益次郎の後を継ぎ、兵制を整え、西南戦争では征討参軍となります。

明治政府では、伊藤博文らとともに最高指導者となり、総理大臣等を歴任します。大正11年、85歳で亡くなっています。

大隈重信墓

大隈重信は、立憲改進党を創立し、総理となり自由民権運動の一翼を担います。伊藤内閣、黒田内閣の外相となっていますが、黒田内閣の外相の時、条約改正の任務に当たった際、爆弾を投げられ、片足を失う惨事に遭遇します。

その後、板垣退助とともに憲政党を結成し、最初の政党内閣を組織します。早稲田内閣の創立者。大正11年、84歳で亡くなります。

 

他にも、護国寺には、安田財閥を築いた安田善次郎や、東京国立博物館や鹿鳴館などの建築の設計や東京駅舎を設計した辰野金吾ら近代日本に名を残した建築家の育成指導に当たったジョサイヤ・コンドルらの墓があります。

菊池寛旧宅跡碑

護国寺を後に、雑司ヶ谷霊園に向かいます。途中、マンションの一角に菊池寛旧宅跡碑があるので立ち寄ります。

東京都雑司ヶ谷霊園

都営の共同墓地で、都内にもかかわらず、静かで落ち着いた雰囲気のある霊園です。夏目漱石の小説「こゝろ」の舞台になったところと言われています。

霊園には、多くの著名人が眠っていて、霊園の案内板にも著名人の墓の配置図が掲示されています。ここでは、幕末維新史の重要人物の墓をご紹介します。

岩瀬忠震墓

岩瀬忠震は、江戸時代後期の幕臣で外交官。外国奉行として、1855年にロシアのプチャーチンとの折衝に尽力し日露和親条約を結び、1958年には、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスと折衝し、日米修好通商条約を締結しています。

水野忠徳、小栗忠順とともに幕末三俊と顕彰されています。墓地は1種1号8側です。

小栗忠順墓

江戸末期の幕臣で、1860年の日米修好通商条約批准の使節として渡米します。帰国後は、外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行を歴任し、幕政改革に活躍しました。

また、親フランス派の指導者として、紙幣発行、造船所開設などを遂行しています。戊辰戦争では抗戦論を唱えますが、取り入られることはなく、領地上野に帰ります。1868年に新政府軍に捕縛、斬首されます。42歳でした。墓地は、1種4号B5側です。

中浜万次郎墓

江戸時代末期の幕臣、ジョン万次郎ともいいます。元は土佐の漁師の息子で、15歳の時に出漁中、漂流し、アメリカ船に救助され、アメリカで長く教育を受けます。

帰国後は幕府に用いられ、翻訳や軍艦操練、英語の教授に当たりました。

その後、明治政府の下で徴士となり、開成学校の教授となっています。72歳で亡くなりました。墓は1種15号19側です。

 

雑司ヶ谷霊園には、他にも夏目漱石や武久夢二、永井荷風などの著名人が眠っています。

ここから雑司ヶ谷鬼子母神堂に向かいます。足に自信のない方は、都電荒川線を利用してください。

雑司ヶ谷鬼子母神堂

雑司ヶ谷霊園の西に位置する鬼子母神堂は、入谷鬼子母神と並び有名なところです。鬼子母神堂には、この大門欅並木を通っていきましょう。

大門をくぐり、ケヤキ並木のすぐ左に、かつて酒楼の「茗荷屋」がありました。明治元年2月、ここに一橋家ゆかりの17名が集まります。彼らは鳥羽伏見の戦いで敗れ、上野で謹慎する主君徳川慶喜の助命、復権を望みます。

やがて、この一団が彰義隊に発展していくことになります。茗荷屋は明治になり失われましたが、寛文6年(1666)建立の鬼子母神は当時の面影を残しています。

 

鬼子母神は、もともと夜叉神の娘。大変乱暴で子供を捕まえては食べてしまう鬼女でしたが、釈迦に諭され、改心してからは安産、子育ての守り神として庶民から信仰を集めてきました。

日蓮宗の法明寺の飛び地境内に建つのが、ここ雑司ヶ谷鬼子母神堂。

 

境内には、江戸時代から店を構える駄菓子屋の「上川口屋」があります。ここの飴は江戸時代の名物の一つだとか。

天明元年(1781)創業で、駄菓子屋としては都内最古。その懐かしい雰囲気にノスタルジーに浸ることができます。

南蔵院

雑司ヶ谷鬼子母神堂を出て、真言宗の南蔵院に向かいます。南蔵院には彰義隊士9名の首塚があります。山門を入ると左手です。

 

入口右手に「名作怪談乳房榎ゆかりの地」と書かれた古い看板がありました。

念の為、調べたところ、三遊亭圓朝が創作した怪談噺で、芝居や映画にもなっているものだそうです。

 

南蔵院を真っ直ぐ進むと、神田川にかかる面影橋に着きます。

 

椿山荘に向かう途中で、早咲きの梅が咲いていたので江戸川公園に寄ってみました。とてもよく手入れがされていて気持ち良い公園です。ベンチもあるので休憩にもピッタリです。

大洗堰の由来碑

ここは、歴史と文化の散歩道にもなっているようで、「大洗堰の由来碑」があります。かつて、ここに神田川上水の堰があり風光明媚な江戸名所になっていました。

大正8年に東京都は江戸川公園として整備して、史跡の保存に務めましたが、昭和12年に神田川の改修により、失われてしまい碑を建てたようです。

現在は、野鳥の森公園となっています。ここから目白台地に広がる椿山荘までは長く急な階段を上がっていかなければなりません。少し先に迂回できる道もあります。

椿山荘

今回のコースの最終地の椿山荘です。この椿山荘は、今は結婚式場として、またホテルとして知られています。

この地は、南北朝時代から椿が自生する景勝地だったことから「つばきやま」と呼ばれていました。

 

江戸時代は、久留里藩黒田氏の下屋敷になっていましたが、明治になって、元勲山縣有朋が西南戦争の功により、政府より与えられた報償で山縣有朋が購入したもので、自分の屋敷として「椿山荘」と名付けています。その後、藤田財閥が譲り受け、現在に至っています。

ここでは、庭園を観ながら、ケーキとコーヒーで疲れを癒してはいかがでしょうか。

 

庭園は、一般公開されていて、自由に見学することができます。庭園の頂上には、三重塔があります。

この三重塔は、広島の竹林寺にあったもので、藤田財閥が譲り受け、移築し再建したものです。建物の特徴から室町時代のものと推定され、国登録有形文化財とされています。

 

椿山荘の近くには「永青文庫」があります。永青文庫は、旧熊本藩主細川家が広大な目白大地の一角に建てた美術館で、細川家伝来の古美術などの文化財が展示されています。時間に余裕があれば、見学をオススメします。

今日は、梅雨空の合間の晴天に恵まれたので、大田区の洗足池に昨年オープンした大田区立勝海舟記念館に行ってきました。
洗足池は勝海舟の別邸があったところで、ご夫妻の墓標も洗足池畔にあることから、何度か訪れたことはあるのですが、コロナ禍のなか、ようやく勝海舟記念館に行くことができました。
勝海舟別邸があった場所は、現在、区立中学校になっています。


勝海舟別邸の先に区立勝海舟記念館はあります。
記念館は、勝海舟に関する図書を収集保存、公開することを目的に昭和8年に建てられた清明文庫を改修、増築した建物です。
清明文庫自体が国登録有形文化財ですから、とても貴重な建物です。ご覧の通り、正面中央部のネオゴシックスタイルの柱型4本が特徴的で、内部にもアールデコ調の造作が施されています。


入場料は、一般300円。毎週月曜日が休館です。
記念館は2階建てで、1階が展示コーナー、2階は講堂になっていて、講堂では勝海舟に関する映像が流されています。講堂の隣に勝海舟の胸像が置かれた部屋があります。ここは、当時、貴賓室として使用されていました。


勝海舟に関する映像はどれも、勝海舟が活躍した幕末期のもので、特に江戸無血開城をめぐり西郷隆盛と談判する場面は何回見ても、良いものですね。
いずれも10分程度なので、映像を見てから1階の展示コーナーに行くのがオススメです。
座席はしっかり、ソーシャルディスタンスでした。


床は美しい寄木張り、南階段室の手すりには飾りが施され、様々な建築様式が取り入れられています。
1階には、勝海舟が幕府に海防意見書を提出したところから、慶喜公の命を受け、江戸無血開城に至るまでを展示や大型モニターで知ることができます。残念ながら写真撮影はできません。


勝海舟記念館から50メートルほどのところに勝海舟夫妻の墓所があります。
明治32年1月19日に死去されました。77歳でした。
妻の民子さんの墓は、後に青山墓地から移設されています。
墓所の周りには紫陽花が咲いていました。


勝海舟夫妻の墓所に隣接して、南洲留魂詩碑が建立されています。


西郷隆盛を悼み、明治12年、南葛飾郡木下川に勝海舟が建立した石碑です。 
荒川放水路の建設に伴い、大正2年に洗足池の勝海舟別邸の敷地内に移設されました。


南洲留魂詩碑の隣には、留魂祠があります。明治16年の西郷隆盛の7回忌に勝海舟から同志たちに南洲留魂詩碑の存在が明らかにされ、彼らは碑の傍らに小さな祠を建て、西郷隆盛の魂を祀ったのです。


近くに勝海舟の墓所などの案内板があります。
今回は紹介できませんが、洗足池には、バードウオッチングのマニアが集う渡鳥の居場所やホタルの里があり、今も自然が濃く残されています。
是非、足を運んでみてください。


勝海舟が洗足池の畔に別邸や墓所を建てたのにはきっかけがありました。
勝海舟が西郷隆盛と薩摩藩邸において2度の江戸無血開城に向けての話合いをした後、慶喜公の処遇について最後に話合うために西郷隆盛が陣を構えていた池上本門寺で会見をしていました。
その際に、立ち寄った洗足池の美しさに魅せられたことからのようです。

池上本門寺の庭には、会見の碑が建てられています。この碑は、昭和16年に西郷隆盛の甥にあたる西郷従徳の揮毫により建てられました。


池上本門寺の総門近くに建つ理境院は、西郷隆盛の宿舎に当てられていたお寺です。


梅雨明けの前の晴れ間を利用した散歩でした。


季節外れですが。『忠臣蔵』と言えば、ご存知のとおり浅野家家臣の大石内蔵助ら赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入りし、主君の仇討ちをするというストーリーで、毎年12月に入ると、TVや映画でも取り上げられる冬の風物詩ともいえるお話ですね。

 

仇討ち後、切腹した赤穂浪士四十七士が埋葬されている場所は、東京高輪にある「泉岳寺」。
 
 

今回は、PHP文庫「日本史の謎は『地形』で解ける」(著者 竹村公太郎)から、『忠臣蔵』に徳川幕府の壮大な復讐劇が折り込まれていたという話を紹介します。

 

泉岳寺は徳川家康が今川義元を弔うために建てたお寺だった

私は著書を読むまで知らなかったのですが、「泉岳寺」の創建者は徳川家康で、今川義元を弔うために建てたお寺なんです。

 

ちょうど、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で今川義元が織田信長に倒されたところでしたね。徳川家康役の風間俊介が苦渋の決断をするところも見所でした・・・。

 

 
さて、「泉岳寺」ですが、実は慶長17(1612)年に江戸城に近接する外桜田(現在のホテルニューオータニの辺り)に建てられたのですが、寛永18年(1841)の寛永の大火により、徳川家光の命により高輪に移転していたのです。
 

その時、普請したのが、毛利家や浅野家たちの大名だったので、浅野家の菩提寺として赤穂浪士四十七士の墓碑があるのです。この門は、旧赤穂藩上屋敷から移築したものです。

 

徳川幕府が「忠臣蔵」をバックアップしていた?

「忠臣蔵」と、徳川幕府が仕掛けた壮大な復讐劇とは、どんな関係があるのでしょう? また、徳川家が恨みを晴らす必要はどこからくるのでしょうか?

 

まず、「忠臣蔵」の成功に導いた要因に、徳川幕府が深く関わっている節があるということなんです。

 

その1、事件前、赤穂浪士四十七士は、日本橋石町、本所徳衛門町など市中に潜伏していたのですが、中でも16人もの浪士がもっとも警戒が厳しい御城下の麹町に潜伏していたのです。本来であれば見逃すことはあり得ないという点です。

 

池波正太郎の「鬼平犯科帳」では多くの密偵が登場しますが、麹町4丁目の蕎麦屋「瓢箪屋」の亭主も元幕臣で今は密偵という設定になっていました。

 

 

次に、松乃廊下での刃傷沙汰のあと、呉服橋門にあった吉良氏の屋敷を本所回向院の隣に移していることです。

 

呉服橋門と言えば、北町奉行所が近くにあり、当時の警察のエリートたちの邸宅があった場所です。

 

吉良家の吉良邸が呉服橋門にあったとしたら、討ち入りは不可能だったに違いありません。吉良家の屋敷を本所に所替えしたことにも幕府の意図が見え隠れします。

 

 

そして、大石内蔵助ら四十七士が討ち入りを遂げた結果、吉良氏は首を取られ、その息子、奥方もそれが元で数年後に亡くなり、お家が断絶します。

 

それに対し、大石内蔵助ら四十七士は切腹し、武士の本懐を遂げ、後に浅野家や家臣のお家は許され、復活を遂げるのです。

 

この写真は何年か前のものですが、女優の竹下景子さんと東大歴史編纂所教授の山本博文さん(今年3月逝去)達が特集番組のロケをしているところに遭遇しました。

 


また、泉岳寺は、江戸の大木戸門の近くにあり、東海道に面していたことから、旅人たちが江戸に行き来する際に立ち寄るのに都合がよく、『忠臣蔵』の舞台として「泉岳寺」は全国に発信させることに都合が良かったのです。

 

それでは、徳川家が吉良上野介の暗殺に加担したとしたら、どこにそのワケがあるのでしょうか?

 

徳川家康と吉良家との確執?

室町時代からの名家であり、朝廷と幕府の仲介や調整役をとる立場にあった吉良家は、関ヶ原の戦いでも大きな働きをしたことから代々「高家」という身分を与えられていました。

 

しかし、徳川家にとっては、征夷大将軍を世襲するたびに、朝廷との間で吉良家が介入することが目障りだったのではないかということです。

 

 

さらに、愛知県にある矢作川の上流の岡崎に領地を持つ徳川家康とその下流に領地を持つ吉良家の間に確執があったのではないかと著者の竹村さんは述べています。

 

それは、吉良家の領地が矢作川河口にあることから、堆積した土砂で干拓がしやすく、農地が自然と広がっていく地形を持っていたため、家康にしてみると面白くなかったのではないか、というワケなんです。

 

その証拠には、後に家康は天下を取ったあと、早速、矢作川の流路を変えているのです。

 

なるほど、面白い話です。建設行政のプロだけあって、竹村さんの話に説得力があります。

 

竹村さんの「日本史の謎は地形で解ける」を読んだあと、あらためて泉岳寺にお詣りしました。下の写真は、吉良上野介の首洗いの井戸です。

 

 

浅野家とその家臣である四十七士の墓標にお詣りしました。浅野内匠頭のお墓です。

 

 

浅野家とその家臣である四十七士の墓標には今もお線香が絶えることはありません。

 

 

最後に、大石内蔵助の墓に詣りました。大石内蔵助さんにも感想を聞いてみたいところですね。

 

 
曹洞宗 江戸三ヶ寺 萬松山 泉岳寺
東京都港区高輪2ー11ー1
吉村昭の「夜明けの雷鳴」と徳川昭武

 

吉村昭の小説「夜明けの雷鳴」に登場する15代将軍徳川慶喜の弟・昭武の邸宅「戸定邸」に行ってきました。

 

小説は、慶応2年(1866)、フランスから招かれたパリ万国博覧会に将軍徳川慶喜の名代として派遣された弟・徳川昭武と、随行員として行動を共にした渋沢栄一や将軍の奥詰医師・高松凌雲らの数奇な運命を題材にしています。

 

ストーリーは、徳川昭武一行がフランスに渡航している間に、予期せぬ徳川幕府の瓦解という事態に遭遇し、急遽、帰国させられることになった高松凌雲らの数奇な運命を通して、箱館戦争終結に至るまでの旧幕臣の生きざまを壮絶に描いたものです。

 

今回は、将軍徳川慶喜の名代としてフランスに派遣され、留学中に徳川幕府瓦解となった弟・徳川昭武に焦点を当て、その後の人生と終の住処となった戸定邸をご案内します。

 

徳川昭武の戸定邸は、常磐線「松戸駅」から徒歩10分ほどにある高台に位置しています。駐車場も広いので車での来訪も便利です。

 

徳川昭武の戸定邸は、明治以降の近代徳川家の住まいと庭園が一般公開されている唯一の場所となっています。

鎌倉の古刹を思わせるような石段を上がると、戸定邸の茅葺門が見えてきます。

 

水戸藩最後の藩主でもある徳川昭武の私邸「戸定邸」は、7ヘクタールにおよぶ広大な敷地でした。

現在は、その3分の1に当たる2.3ヘクタールが戸定ヶ丘歴史公園として松戸市により整備公開され、その一角に戸定歴史館が併設されています。

 

戸定歴史館

まずは、戸定邸に隣接する戸定歴史館に入ります。

戸定歴史館には、徳川昭武が将軍の名代として派遣された1867年のパリ万国博覧会に関する資料や幕末から明治にかけての古写真、戸定邸の歴史を語る文書や調度品、慶喜が亡くなるまで手元にあった遺品などが展示されています。

 

最近まで戸定歴史館も新型コロナウイルスの影響で休館されていましたが、6月2日から再開しています。

他の施設も同様ですが、戸定歴史館の受付でも検温と体調チェックの記入が求められます。また、マスクの着用は必須ですね。

 

戸定邸

戸定歴史館の向かいに、徳川昭武の私邸「戸定邸」があります。

履物を脱ぎ、受付へ。戸定歴史館と戸定邸見学の共通入場券を買うと一般、370円のところ320円とお得です。

 

戸定邸庭園は、2015年3月に国の名勝に指定されています。

また、戸定邸は、明治前期の上流住宅の指標となるとされ歴史的価値が高く評価され、国の重要文化財に指定されています。

 

玄関に入ると住宅に囲われた中庭が見えます。

徳川家が権力の座から離れたため、生活様式が大きく変化して、規模は縮小し、最上級の杉材をふんだんに使う一方で装飾を最小限に留めた空間となっています。

 

廊下は狭く、すれ違うことさえできないほど。建物は、純和風木造平屋建で一部二階建の構造で、増築を重ね、9棟が廊下で結ばれ、部屋数は23を数えます。

 

客間は華美な装飾が意識的に排除されています。当時、大正天皇や徳川慶喜もこの部屋を利用されていたそうです。

 

湯殿は初期の頃は木製でしたが、昭和初期になってタイル張りになったようです。エメラルドグリーンのタイルはイタリア製です。

 

不思議な設えだったので、写真に収めました。用途を見ると洗面台ということでした。正座をして顔を洗っていたということでしょうか。

 

目の前に庭園が広がる表座敷は64枚の畳が使用されています。

 

表座敷から見た庭園。残念ながら、庭園に下りることはできないようです。

 

この写真は、明治31年5月8日に徳川慶喜が撮ったものです。(お借りしました)

古写真

 

戸定邸庭園を散策

戸定邸庭園を散策します。眩しいばかりの夏紅葉は新緑の緑の中で引き立ちます。

 

紫陽花もそろそろ見頃を迎えていますね。

 

戸定邸の南と西には芝生の庭が広がっています。洋風技法による芝生面は我が国現存最古で、樹木の木立を主要景観に取り入れる手法は類例がないと言われています。

徳川昭武はフランスをはじめヨーロッパを歴訪していたので、当時の西洋の庭園造りの技法を再現したのかも知れません。

 

一面の芝生とは対照的に、木立の根元に広がる苔が何とも美しい景観を作っています。

 

徳川昭武は水戸藩主・斉昭の18男。7男の将軍慶喜は、13歳の昭武を将軍家に迎え、将軍候補の身分を与えて、1867年にパリ万国博覧会へ将軍名代として派遣しました。

フランスとの連携で幕府の窮地を打開するためでした。明治維新により帰国後、最後の水戸藩主となりましたが、既に幕府は存在しませんでした。

 

昭武は29歳で隠居の身となり、華やかさを求めず、建物や庭園、趣味の写真などの文化財を残したとされています。再び、昭武が慶喜と再開したのは、15年後のことだったそうです。

 

表座敷から見た西南の方向です。

正面には江戸川が流れ、空気が澄んだ日には富士山が望めます。

左奥には東京スカイツリー、真下には常磐線の列車が見えています。

 

吉村昭の歴史小説「夜明けの雷鳴」の主人公・高松凌雲は、徳川昭武より一足先に帰国します。

幕府という居場所を失った旧幕臣・高松凌雲は、壮絶な箱館戦争に身を投げ、その後、数奇な生涯を送ることになります。

この話を始めると長くなるので、別の機会にブログにすることにします。

 

「じょんのび」といきましょう!

最近、朝5時というと目が覚める。歳のせいかもしれません。

仕方なく、今朝は昨日録画しておいた「ブラタモリの黒部ダム」の再放送を見て、その後、6時からトリバゴのコマーシャルでブレイクしたナタリー・エモンズが旅人となって全国の文化遺産を巡る旅番組「じょんのび日本遺産(TBS)」を見ました。充実した一日の始まりです?

 

「じょんのび」とは、新潟弁で「のんびりと、くつろぐ」という意味なんだそうです。

今朝、初めてこの番組見たのですが、結構、良質な番組ですよ。

これからは「じょんのび」でいきたいと思います。

 

笠森観音堂に行ってきました

そして、朝食をとり、車で千葉県にある笠森観音堂に行ってきました。

東京湾アクアラインで木更津、圏央道「茂原長南IC」で降り、5分くらいでしょうか。参道入口に50台ほどの無料駐車場があります。

 

周辺の山々は「県立笠森鶴舞自然公園」に指定されていて、車から降りた瞬間、酸素をたっぷり含んだ新緑の香りに全身が包まれる感覚を覚えます。

 

参道は自然林の中に設けられた階段です。一段一段が歩幅に合わないせいか、思ったより息が荒くなるのを感じます。

 

階段を上り終えると、御神木が見えてきます。霊木の子授楠です。

子授楠の根元に穴が空いていて、梯子がかかっています。穴をくぐることで子授のご利益があると言われています。

 

その先に、松尾芭蕉の句碑があります。安永6年(1777)に建立されたものです。

千葉県で最古のものだそうです。句碑には「五月雨に此笠森をさしもぐさ」と記されています。

 

笠森観音の正式名称は、「天台宗・別格大本山笠森寺」です。

この笠森寺は「坂東三十三観音札所」の三十一番札所として古くから巡礼の霊場にもなっています。

創建は、延暦3年(784)、伝教大師最澄上人が楠の霊木で十一面観世音菩薩を刻み山上に安置して開基されたと伝えられています。

 

非常事態宣言が解除されたとはいえ、新型コロナウイルスの影響からでしょうか、境内にあるお土産屋さんも控えめにお店を開いているように感じられます。

 

この笠森観音で有名なものといえば、「黒い招き猫」なんです。

 

黒い招き猫の開運パワーは、口コミで広がり、通販でも販売されるほど。購入する際は、二匹一緒に、色とりどりの敷物も合わせて買うのが良いとされています。

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観音堂は、長元元年(1028)に後一条天皇の勅願により建立され、その建築様式は日本唯一の「四方懸造(しほうかけづくり)」で、国指定重要文化財となっています。

 

これまで幾多の大震災に遭遇したにもかかわらず木造の建物は当時のままの姿を変えずに存在しているのです。まさに奇跡のようですね。

江戸時代には二世安藤広重の浮世絵「諸国名所百景」にも描かれています。

 

私は自他ともに認める高所恐怖症なものですから、高い所は苦手なのですが、観音堂へはこの細くて急な階段を上がらなければなりません。階段を上がった先で、拝観料大人300円を払います。最近、100円値上がりしたようです。

 

上から下を覗くとこんな景色が広がっています。山林は自然公園として保存されているので緑がとても濃いことがわかります。

 

拝観される皆さんもマスク着用です。お堂の中は、もちろん撮影禁止です。

 

古く歪んだ床板の間からは下の様子がしっかりと見えます。流石に、年月の重みを感じさせる床板です。出来るだけ下を見ないように歩きます。

 

岩山に建てられた柱が整然と並んでいます。しっかりと耐震の構造計算がされているのだと思います。

 

もう一つ、笠森観音のパワーの源をお寺のホームページからご紹介しますと、この笠森観音が建っている位置が御来光の道(レイライン)に重なっているということなのだそうです。

 

御来光の道(レイライン)とは、春分の日と秋分の日に、太陽が通る道のことで、北緯約35度23分を結ぶ直線上には、地理的に名所、歴史的な建物が立ち並んでいるそうです。

その中には、笠森観音の他に、島根県出雲大社、神奈川県寒川神社、富士山、京都元伊勢内宮皇大神社、滋賀県伊吹山の名称がありました。

笠森観音(笠森寺)

千葉県長生郡長南町笠森302