今回は、熱中症を避けるため、外出せず、昔の写真から記事を書きました。かなり、堅苦しい記事ですが、我慢してお読みください。
護国寺
護国寺は、東京メトロ有楽町線の「護国寺駅」のすぐそばにあります。訪れた日は、ちょうど節分の前の日とあって、護国寺の境内では、その準備に追われていました。
護国寺は、五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の願いにより、天和元年(1681)に創建された祈願寺です。その後、将軍家の武運長久を祈る祈願寺となっています。
将軍家の祈願寺らしく、仁王門、多宝塔、本堂など威厳のある伽藍に圧倒されます。元禄時代に建てられた本堂と近江の三井寺の客殿を昭和3年に移築した月光殿はともに重要文化財に指定されています。
仁王門をぬけ、階段を上がり、本堂までの間に建つ不老門。額面の「不老」の2字は徳川家達公の筆によるものです。
観音堂(本堂)は、元禄時代の建築工芸の粋を結集した建築物で、震災、戦災にあったにもかかわらず、その姿を変えず、江戸の面影を今に伝えています。
護国寺は徳川幕府を倒した元勲の墓地に
明治になり、将軍家というスポンサーを失った護国寺は、境内を墓地として分譲することにしました。それを購入したのが皮肉なことに、徳川幕府を倒した「元勲」でした。
明治23年(1890)、揃って参った三条実朝(公爵)、山縣有朋(長州)、大隈重信(佐賀)は「俺達も一緒に仕事をすれば後年相当に名を残すだろう。斯うして後に我々が安眠するのは此の場所と決め様ではないか」と、同26年になり墓地を購入する(東京毎夕新聞)」。
本堂に行くと、護国寺に眠る元勲や著名人の墓地の位置を示した配置図をいただくことができます。最初にお参りしたのが三条実朝の墓です。墓地にあって、大きな鳥居があるのですぐ分かります。
三条実美墓
三条実美は、尊王攘夷派の公家で、長州藩を支援。1863年、公武合体派の皇族や薩摩藩、会津藩らが起こし八月十八日の政変により、京都を追放され、長州藩へと落ち延びます(七卿落ち)。翌年に起きた第一次長州戦争に際し、王政復古で許されるまで、太宰府で過ごし、1867年の王政復古で、明治新政府の要職に就きます。
明治22年(1891)には、黒田清隆内閣の内大臣を務め、黒田首相が辞任した後、総理大臣を兼任していました。明治24年に55歳で病死します。
山縣有朋墓
松下村塾で尊王思想を学び、のちに戊辰戦争に参加、大村益次郎の後を継ぎ、兵制を整え、西南戦争では征討参軍となります。
明治政府では、伊藤博文らとともに最高指導者となり、総理大臣等を歴任します。大正11年、85歳で亡くなっています。
大隈重信墓
大隈重信は、立憲改進党を創立し、総理となり自由民権運動の一翼を担います。伊藤内閣、黒田内閣の外相となっていますが、黒田内閣の外相の時、条約改正の任務に当たった際、爆弾を投げられ、片足を失う惨事に遭遇します。
その後、板垣退助とともに憲政党を結成し、最初の政党内閣を組織します。早稲田内閣の創立者。大正11年、84歳で亡くなります。
他にも、護国寺には、安田財閥を築いた安田善次郎や、東京国立博物館や鹿鳴館などの建築の設計や東京駅舎を設計した辰野金吾ら近代日本に名を残した建築家の育成指導に当たったジョサイヤ・コンドルらの墓があります。
菊池寛旧宅跡碑
護国寺を後に、雑司ヶ谷霊園に向かいます。途中、マンションの一角に菊池寛旧宅跡碑があるので立ち寄ります。
東京都雑司ヶ谷霊園
都営の共同墓地で、都内にもかかわらず、静かで落ち着いた雰囲気のある霊園です。夏目漱石の小説「こゝろ」の舞台になったところと言われています。
霊園には、多くの著名人が眠っていて、霊園の案内板にも著名人の墓の配置図が掲示されています。ここでは、幕末維新史の重要人物の墓をご紹介します。
岩瀬忠震墓
岩瀬忠震は、江戸時代後期の幕臣で外交官。外国奉行として、1855年にロシアのプチャーチンとの折衝に尽力し日露和親条約を結び、1958年には、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスと折衝し、日米修好通商条約を締結しています。
水野忠徳、小栗忠順とともに幕末三俊と顕彰されています。墓地は1種1号8側です。
小栗忠順墓
江戸末期の幕臣で、1860年の日米修好通商条約批准の使節として渡米します。帰国後は、外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行を歴任し、幕政改革に活躍しました。
また、親フランス派の指導者として、紙幣発行、造船所開設などを遂行しています。戊辰戦争では抗戦論を唱えますが、取り入られることはなく、領地上野に帰ります。1868年に新政府軍に捕縛、斬首されます。42歳でした。墓地は、1種4号B5側です。
中浜万次郎墓
江戸時代末期の幕臣、ジョン万次郎ともいいます。元は土佐の漁師の息子で、15歳の時に出漁中、漂流し、アメリカ船に救助され、アメリカで長く教育を受けます。
帰国後は幕府に用いられ、翻訳や軍艦操練、英語の教授に当たりました。
その後、明治政府の下で徴士となり、開成学校の教授となっています。72歳で亡くなりました。墓は1種15号19側です。
雑司ヶ谷霊園には、他にも夏目漱石や武久夢二、永井荷風などの著名人が眠っています。
ここから雑司ヶ谷鬼子母神堂に向かいます。足に自信のない方は、都電荒川線を利用してください。
雑司ヶ谷鬼子母神堂
雑司ヶ谷霊園の西に位置する鬼子母神堂は、入谷鬼子母神と並び有名なところです。鬼子母神堂には、この大門欅並木を通っていきましょう。
大門をくぐり、ケヤキ並木のすぐ左に、かつて酒楼の「茗荷屋」がありました。明治元年2月、ここに一橋家ゆかりの17名が集まります。彼らは鳥羽伏見の戦いで敗れ、上野で謹慎する主君徳川慶喜の助命、復権を望みます。
やがて、この一団が彰義隊に発展していくことになります。茗荷屋は明治になり失われましたが、寛文6年(1666)建立の鬼子母神は当時の面影を残しています。
鬼子母神は、もともと夜叉神の娘。大変乱暴で子供を捕まえては食べてしまう鬼女でしたが、釈迦に諭され、改心してからは安産、子育ての守り神として庶民から信仰を集めてきました。
日蓮宗の法明寺の飛び地境内に建つのが、ここ雑司ヶ谷鬼子母神堂。
境内には、江戸時代から店を構える駄菓子屋の「上川口屋」があります。ここの飴は江戸時代の名物の一つだとか。
天明元年(1781)創業で、駄菓子屋としては都内最古。その懐かしい雰囲気にノスタルジーに浸ることができます。
南蔵院
雑司ヶ谷鬼子母神堂を出て、真言宗の南蔵院に向かいます。南蔵院には彰義隊士9名の首塚があります。山門を入ると左手です。
入口右手に「名作怪談乳房榎ゆかりの地」と書かれた古い看板がありました。
念の為、調べたところ、三遊亭圓朝が創作した怪談噺で、芝居や映画にもなっているものだそうです。
南蔵院を真っ直ぐ進むと、神田川にかかる面影橋に着きます。
椿山荘に向かう途中で、早咲きの梅が咲いていたので江戸川公園に寄ってみました。とてもよく手入れがされていて気持ち良い公園です。ベンチもあるので休憩にもピッタリです。
大洗堰の由来碑
ここは、歴史と文化の散歩道にもなっているようで、「大洗堰の由来碑」があります。かつて、ここに神田川上水の堰があり風光明媚な江戸名所になっていました。
大正8年に東京都は江戸川公園として整備して、史跡の保存に務めましたが、昭和12年に神田川の改修により、失われてしまい碑を建てたようです。
現在は、野鳥の森公園となっています。ここから目白台地に広がる椿山荘までは長く急な階段を上がっていかなければなりません。少し先に迂回できる道もあります。
椿山荘
今回のコースの最終地の椿山荘です。この椿山荘は、今は結婚式場として、またホテルとして知られています。
この地は、南北朝時代から椿が自生する景勝地だったことから「つばきやま」と呼ばれていました。
江戸時代は、久留里藩黒田氏の下屋敷になっていましたが、明治になって、元勲山縣有朋が西南戦争の功により、政府より与えられた報償で山縣有朋が購入したもので、自分の屋敷として「椿山荘」と名付けています。その後、藤田財閥が譲り受け、現在に至っています。
ここでは、庭園を観ながら、ケーキとコーヒーで疲れを癒してはいかがでしょうか。
庭園は、一般公開されていて、自由に見学することができます。庭園の頂上には、三重塔があります。
この三重塔は、広島の竹林寺にあったもので、藤田財閥が譲り受け、移築し再建したものです。建物の特徴から室町時代のものと推定され、国登録有形文化財とされています。
椿山荘の近くには「永青文庫」があります。永青文庫は、旧熊本藩主細川家が広大な目白大地の一角に建てた美術館で、細川家伝来の古美術などの文化財が展示されています。時間に余裕があれば、見学をオススメします。













































































