光明寺と古多摩川の名残

この場所は、関東公方の足利基氏らの命令で、多摩川の矢口の渡しで義興軍を謀略で殺害した竹沢右京之介や江戸遠江守など江戸氏一族の墳墓「荒塚」があったところです。

現在は、環状8号線の拡張工事の際に取り壊され、見ることはできません。

 

「太平記」には、「とある山の麓なる辻堂を目懸て・・・」と記されていますが、江戸遠江守が義興公の怨霊から逃れるために逃げ込もうとした辻堂が、光明寺の観音堂だったようです。

 

光明寺の境内の一角には大きな池があります。この池は、実は、古多摩川の名残なんです。ぜひ見たいと思っていましたが、現在は、目隠しのフェンスに覆われ、残念ながら写真に収めることはできませんでした。

 

光明寺(大田区鵜の木1-23-10)

 

矢口ノ渡頓兵衛地蔵尊堂

光明寺をあとに、下丸子駅を越え、しばらくすると道路際に赤い幟が揺れる「矢口ノ渡頓兵衛地蔵尊堂」が見えてきます。

 

新田義興謀殺を題材にした浄瑠璃「神霊矢口渡」を書いたのは平賀源内でした。

 

伝説の域は越えないのですが、芝居の中では、謀殺に折に渡し舟の船頭として頓兵衛が登場してきます。

義興以下13人の武将を舟に乗せ、多摩川の半ばまできた所で、わざと艪を落とし、それを拾うと偽って川に飛び込み、あらかじめ細工をしていた舟底の栓を抜いて舟を沈め、そのまま向こう岸に泳いで逃げて行ったというものです。

 

そして芝居では、竹沢右京之介、江戸遠江守の両名が義興の祟りにあって死んだことで、頓兵衛も罪悪感を募らせ地蔵を作ったというのです。

 

しかし、義興の祟りはこの地蔵にも起こり、地蔵の顔を溶かしたことから、この地蔵は「とろけ地蔵」とも言われるようになったというのです。

 

頓兵衛地蔵はお堂の中にあるのですが、実は地蔵は砂岩で作られていることから、崩れやすい材質ということと、併せて崩れやすいことから「イボ取り」の効果があるということで、お詣りされる方により次第に削られていったようです。

 

現在は、多摩川七福神の布袋尊として、地域の方により綺麗に整備されています。

 

矢口ノ渡頓兵衛地蔵尊堂(大田区下丸子1-1-19)

 

矢口の渡しと多摩川の流れ

この写真は、現在の多摩川「矢口の渡し跡」付近の風景です。

奥に見える橋は多摩川大橋です。現在、この辺りは河川改修が行われているためか、以前確認できた「矢口の渡跡碑」が見当たりません。

 

江戸時代は、幕府防衛のため橋を作ることはなかったので、多摩川を渡るには舟を利用するしかありませんでした。

 

一方で、この地域は、大田区側に原村梅林、川崎市側には小向梅林があり、また、新田神社の他、鎌倉時代に創建された池上本門寺は日蓮の終焉の地ということもあり、徳川将軍家の庇護を受けていたことから、多くの民衆がお詣りするために矢口の渡しを使っていたことが推察できます。

 

多摩川大橋が作られたのは昭和24年なので、それまでは矢口の渡しが頻繁に使用されていたことになります。

 

 

下の地図を見ていただくとお分かりの通り、これまで歩いてきた史跡が多摩川から結構離れていることに気がつきます。

 

実は、新田義興がいた頃は、光明寺に古多摩川の名残の池があったように、多摩川は今より東寄りにあり、新田神社などの史跡はまさに多摩川畔だったのです。

 

大田区と川崎市の両側に「等々力」・「丸子」など同じ地名があることも、時代により多摩川の流路が変遷したことによるものです。

 

 

「新田義興ゆかりの史跡を歩く」の巻は今回で終わります。

首都圏も関西方面も、しばらくの間はコロナ禍の影響で、ステイホームと言われ、外出の規制は収まりそうもありませんが、しばらくの辛抱ですね。皆さんもくれぐれもご自愛ください。

 

 

忠烈十勇士を祀る「十寄神社(十騎神社)」

前回は、「女塚神社」をご紹介しました。少し振り返ります。

新田義興の鎌倉挙兵を恐れた初代鎌倉公方の足利基氏(尊氏の子)、関東管領の畠山国清の企てにより、新田義興の元家臣竹沢右京之介が再び寝返ったと見せかけ、高級女官の少将局を義興に与え謀殺を図りました。

 

義興に情を深めた少将局は、謀殺の企てを漏らし、謀殺の企てが未然に終わるわけですが、無残にも少将局は惨殺され、憐れに思った村人が神社を建て、少将局を祀った。というものでした。1358年4月のことです。

 

今回は、十寄神社(とよせじんじゃ)をご紹介します。

別名十騎神社とも呼ばれています。元家臣竹沢右京之介の少将局による謀殺は失敗に終わりますが、その半年後の1358年10月10日、今度は、竹沢右京之介、江戸遠江守たちは、義興の元家臣だったことから、足利幕府から所領没収の罪科に処されたと偽称し、義興に鎌倉への救援挙兵を求めたのです。

 

罠とも知らず、竹沢右京之介、江戸遠江守らと合流し、近習の将兵十数名とひそかに鎌倉に向かうため、多摩川矢口の渡し舟に乗り込みます。

江戸遠江守らは、あらかじめ舟の底に穴を開けておいたため、舟は沈み、義興と将兵十数名は壮絶な闘いの後、憤死したのです。その将兵十数名を祀ったのが、この十寄神社の謂れです。

 

十寄神社(とよせじんじゃ)  大田区矢口2-17-28

 

妙蓮塚三体地蔵尊

 

十寄神社から、少し離れた場所に「妙蓮塚三体地蔵尊」はあります。

妙蓮塚三体地蔵尊は、神社の境内にあるわけではなく、道の際に建てられた地蔵尊なのですが、良く手入れをされた風格のある祠に3体のお地蔵さんが並んでいます。

 

この3体のお地蔵さんは、土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎という義興の将兵で渡河で騙し討ちに遭った際に、向こう岸にたどり着き、敵と刃を交えて討ち死にした者たちなのだそうです。その対岸の場所に建てられたと言われています。

 

 

妙蓮塚三体地蔵尊 大田区下丸子2-1-8

 

新田義興の謀殺事件は、太平記に記されていますが、それを元にして作られた絵巻が、新田神社の社宝として保存されています。東京都の文化財です。

新田大明神縁起絵巻 

 

次回も、新田義興にまつわる史跡を歩きます。

 

新田義興ゆかりの「女塚神社」

 新田義興を祀った「新田神社」に続く第二弾です。

 今回ご紹介する神社は、新田義興の侍女、少将局が祀られている「女塚神社」です。少し艶っぽい雰囲気がします。

 新田義興は、鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ新田義貞の次男で、南朝の総大将で無類の勇将だったようです。

 

 父親の新田義貞は、ご存知の通り、鎌倉幕府を滅亡に追い込み、後醍醐天皇の建武新政樹立の立役者の一人だったわけですが、同じく、鎌倉幕府を倒した足利尊氏と対立し、奮戦したものの、越前藤島で戦死、兄の義顕も亡くします。

 

 その後、義興は、南朝の総大将として、弟の義宗や従兄弟の脇屋義治ら新田一族を率いて鎌倉幕府の奪還を目指し、武蔵野各地で転戦します。

 

 新田義興は足利尊氏が亡くなった半年後、好機と捉え、鎌倉奪還のために挙兵をこころみます。

 

 これに対し、足利尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と、関東管領の畠山国清は、義興の鎌倉進出を畏れ、新田の元家臣で、足利側に寝返った竹沢左右京亮(うきょうのすけ)を使い、再び、新田側に寝返ったと見せかけ義興に近づけるのです。しかし、容易には信用は取り戻せません。

 

 そこで、京都から選りすぐりの美女を義興に与え、巧に取り込み、謀殺の機会を伺っていました。

 

 下の写真は女塚神社の社殿です。

 

 竹沢左右京亮が義興に取り入るために与えた美女が「少将局」です。京都出身の高級女官だったとされていて、義興はとても気に入り侍女にしたと伝えられています。

 

 こうして少将局を与えた竹沢左右京亮は義興に取り入ることに成功することになります。

 

 少将局も義興謀殺の企みを承知の上で近づいたわけですが、次第に義興に心惹かれていくわけです。

 

 いよいよ時期到来と見た竹沢左右京亮は、自宅に招いて謀殺する企てをするのですが、少将局が竹沢左右京亮の招きに応じないようにと伝えるのです。

 

 少将局の知らせで、義興は窮地を脱したわけですが、この事が露見して少将局は竹沢左右京亮らによって殺害されてしまうのです。

 

 殺害された少将局の遺骸は打ち捨てられたままでしたが、村人が憐れんで塚を建てて祀った塚が「女塚」であると言われています。

 

 社殿の横に円墳らしき形が見られます。ここが少将局の墳墓出会ったとも伝わっています。(諸説あるようです)

 

 奥に少将局を祀った祠があります。

女塚神社 (大田区西蒲田6-22-1) 蒲田八幡神社の兼務社となっています。蒲田八幡神社のホームページは、

https://www.kamatahachiman.org/

 

今回は、文字と写真をひと回り大きくしてみました。ゴールデンウィークですが、じっと辛抱ですかね。くれぐれもご自愛ください。

次回も新田義興ゆかりの史跡を歩きます。

新田義興を祀った「新田神社」

新型コロナウイルス退散を祈願して、昔の写真から、破魔矢発祥の「新田神社」を取り上げてみようと思います。
 
大田区矢口にある新田神社は、鎌倉幕府を倒した新田義貞の次男で、戦乱が続く室町時代に後醍醐天皇に使え、手柄をたてた新田義興を祀った神社です。
 
随分前に「鎌倉」をテーマにブログを書いていた時に義興の父「新田義貞」について書いているので、そちらもご覧ください。
 
新田神社は、大田区矢口にあります。多摩川の「矢口の渡」から付けられた地名で、最寄りの駅は、東急多摩川線り武蔵新田駅です。ですから、読み方は「むさししんでん駅」ではなく、「むさしにった駅」です。
 
新田神社は、多摩川の矢口の渡に所縁があるのですが、現在の場所は、多摩川から少し距離があります。暴れ川の異名を持つ多摩川の蛇行のせいでしょうか、室町時代の頃とは、この辺りの地形が随分と変わっているようです。
 
境内に入ると、正面に樹齢700年という御神木の「大ケヤキ」があります。この御神木に触れると「病気平癒」「若返り」のご利益があるという事なので、しっかりと触れてきました。
 
その先に立派な社殿があります。とても明るくすっきりしている印象です。
 
社殿の横側はこのような造になっています。
 
由緒ですが、パンフレットには次のようなことが書かれています。少し、端折っています。
「新田義貞の次男として生まれた義興は、天皇のために戦い、大勢の敵が襲ってきても義興公は負けたことがありませんでした。敵の武士たちは、いくさでは勝てないので、卑怯な作戦をたてました。敵の竹沢と江戸という武士が味方の振りをして義興公に鎌倉で戦うことを進め、それを信じた義興公は鎌倉に行くために多摩川の「矢口の渡」から船に乗りました。そこに敵が襲ったのです。
 
義興公が敵に沈められ死んでしまった矢口では、不思議な現象が起こり始めました。怪しい光が現れたり、雷が度々落ちるようになり、義興公を裏切った人は怨霊に悩まされ、狂死してしまうということが起こったのです。
 
それを見た村人たちは、義興公の祟りを鎮めるために義興公の墳墓の前に神社を作ることにしました。こうして、村人たちは、新田神社を作り、義興公を「新田大明神」とあがめ、やがて、義興公は、村人や旅人の「運を開き守り、幸せに導く神様」として広く崇敬されるようになりました。」
 
社殿の裏には、新田義興公の墳墓があります。
 
義興公の物語は江戸時代に平賀源内によって歌舞伎・浄瑠璃「神霊矢口渡」というお芝居にもなり、今も語り継がれています。
 
そして、この神社をもう一つ有名にしているのが「破魔矢の元祖」と伝えられていることです。
 
義興公の墳墓の裏手に「旗竹」という昔から神域を決して越えることがない不思議な篠竹が生えていて、雷がなるとこの竹がピチピチと割れたという言い伝えがあり、「エレキテル」を発明した江戸時代の蘭学者平賀源内がこの竹で厄除招福・邪気退散の「矢守(破魔矢の元祖)」を作ったというのです。(パンフレットによる)
 
矢守は、毎年正月初詣の人々に社頭で授与されているようです。(お借りした写真です)
 
確かに、義興公の墳墓の裏手に竹林がありました。
 
実は最近、家内が五十肩を痛がっていて、痛くて夜中に起きてしまうというので、「病気平癒・若返り」にご利益があると伝えられている御神木の御守りをいただくことにしました。カミさん孝行です。
 
新田神社(東京都大田区矢口1-21-23)の詳細は、次のホームページをご覧ください。
http://www.nittajinja.org/
 
新田神社に関する史跡を後日アップします。
鳥羽港から伊勢自動車道に入ったのですが、途中、関宿に寄ることにしました。
関宿は昨年3月に「東海道53次」を歩いたときに通った所です。当時の街道がそのまま残っている貴重な宿場です。
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この鳥居がある場所を「東追分」と言って、お伊勢参りのため東海道を歩いて来た旅人が伊勢神宮に向かう最初の鳥居です。鳥居をくぐると伊勢別街道です。
この鳥居は、20年に1度の伊勢神宮式年遷宮の際、内宮の宇治橋南詰の鳥居が移されて来ています。常夜灯も江戸時代のまま残っています。

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関宿の高札場跡です。後ろの建物は関郵便局です。
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今に息づく東海道関宿。現在も旅籠を続けている建物もありました。
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現在でも多くの参拝者で賑わう関地蔵院。老木は不断桜です。10月下旬から4月にかけて咲くそうです。3月半ばに来た時も咲いていました。

2年前の東海道53次のブログです。確かに桜が咲いています。
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お寺で遊ぶ子ども達は絵になります。
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重要文化財の愛染堂。
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国道1号線には、「道の駅・関宿」があります。その隣に本物のJR関駅があります。
ここから、亀山インターから東名阪自動車道に入ります。
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途中、東名高速「浜名湖サービスエリア」で休憩です。向こうに見えるのは鈴鹿峠でしょうか。
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(完)