季節外れですが。『忠臣蔵』と言えば、ご存知のとおり浅野家家臣の大石内蔵助ら赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入りし、主君の仇討ちをするというストーリーで、毎年12月に入ると、TVや映画でも取り上げられる冬の風物詩ともいえるお話ですね。
今回は、PHP文庫「日本史の謎は『地形』で解ける」(著者 竹村公太郎)から、『忠臣蔵』に徳川幕府の壮大な復讐劇が折り込まれていたという話を紹介します。
泉岳寺は徳川家康が今川義元を弔うために建てたお寺だった
私は著書を読むまで知らなかったのですが、「泉岳寺」の創建者は徳川家康で、今川義元を弔うために建てたお寺なんです。
ちょうど、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で今川義元が織田信長に倒されたところでしたね。徳川家康役の風間俊介が苦渋の決断をするところも見所でした・・・。
その時、普請したのが、毛利家や浅野家たちの大名だったので、浅野家の菩提寺として赤穂浪士四十七士の墓碑があるのです。この門は、旧赤穂藩上屋敷から移築したものです。
徳川幕府が「忠臣蔵」をバックアップしていた?
「忠臣蔵」と、徳川幕府が仕掛けた壮大な復讐劇とは、どんな関係があるのでしょう? また、徳川家が恨みを晴らす必要はどこからくるのでしょうか?
まず、「忠臣蔵」の成功に導いた要因に、徳川幕府が深く関わっている節があるということなんです。
その1、事件前、赤穂浪士四十七士は、日本橋石町、本所徳衛門町など市中に潜伏していたのですが、中でも16人もの浪士がもっとも警戒が厳しい御城下の麹町に潜伏していたのです。本来であれば見逃すことはあり得ないという点です。
池波正太郎の「鬼平犯科帳」では多くの密偵が登場しますが、麹町4丁目の蕎麦屋「瓢箪屋」の亭主も元幕臣で今は密偵という設定になっていました。
次に、松乃廊下での刃傷沙汰のあと、呉服橋門にあった吉良氏の屋敷を本所回向院の隣に移していることです。
呉服橋門と言えば、北町奉行所が近くにあり、当時の警察のエリートたちの邸宅があった場所です。
吉良家の吉良邸が呉服橋門にあったとしたら、討ち入りは不可能だったに違いありません。吉良家の屋敷を本所に所替えしたことにも幕府の意図が見え隠れします。
そして、大石内蔵助ら四十七士が討ち入りを遂げた結果、吉良氏は首を取られ、その息子、奥方もそれが元で数年後に亡くなり、お家が断絶します。
それに対し、大石内蔵助ら四十七士は切腹し、武士の本懐を遂げ、後に浅野家や家臣のお家は許され、復活を遂げるのです。
この写真は何年か前のものですが、女優の竹下景子さんと東大歴史編纂所教授の山本博文さん(今年3月逝去)達が特集番組のロケをしているところに遭遇しました。
それでは、徳川家が吉良上野介の暗殺に加担したとしたら、どこにそのワケがあるのでしょうか?
徳川家康と吉良家との確執?
室町時代からの名家であり、朝廷と幕府の仲介や調整役をとる立場にあった吉良家は、関ヶ原の戦いでも大きな働きをしたことから代々「高家」という身分を与えられていました。
しかし、徳川家にとっては、征夷大将軍を世襲するたびに、朝廷との間で吉良家が介入することが目障りだったのではないかということです。
さらに、愛知県にある矢作川の上流の岡崎に領地を持つ徳川家康とその下流に領地を持つ吉良家の間に確執があったのではないかと著者の竹村さんは述べています。
それは、吉良家の領地が矢作川河口にあることから、堆積した土砂で干拓がしやすく、農地が自然と広がっていく地形を持っていたため、家康にしてみると面白くなかったのではないか、というワケなんです。
その証拠には、後に家康は天下を取ったあと、早速、矢作川の流路を変えているのです。
なるほど、面白い話です。建設行政のプロだけあって、竹村さんの話に説得力があります。
竹村さんの「日本史の謎は地形で解ける」を読んだあと、あらためて泉岳寺にお詣りしました。下の写真は、吉良上野介の首洗いの井戸です。
浅野家とその家臣である四十七士の墓標にお詣りしました。浅野内匠頭のお墓です。
浅野家とその家臣である四十七士の墓標には今もお線香が絶えることはありません。
最後に、大石内蔵助の墓に詣りました。大石内蔵助さんにも感想を聞いてみたいところですね。











