今回の旅で大いに活躍してくれたのは、トヨタレンタカーのルーミーという真っ赤な小型のファミリーカーです。
函館空港からスタートし、坂道の多い函館市内をぐるぐると廻り、江差から洞爺湖、新千歳空港まで快適にドライブできました。ざっと、400kmくらいは走ったと思います。
高龍寺を出て、次に向かったのは、称名寺です。
函館開港当初はイギリスとフランスの領事館としても利用された古い寺院です。
このお寺には、高田屋嘉兵衛の顕彰碑や土方歳三ら新撰組隊士の供養塔があります。
土方歳三と新撰組隊士の供養塔です。
解説板には、次のように書いてあります。
「土方歳三(新撰組副長)は、榎本軍に加わり、函館で戦死した。その場所は一本木(若松町)、鶴岡町、異国橋(十字街)など諸説があるが、土方ゆかりの東京都日野市金剛寺の過去帳には、函館称名寺に供養塔を建てた、と記されている。称名寺は、明治期の大災で3回も焼けて碑は現存しないため、昭和48年に有志が現在の碑を建立した。他の4名は新撰組隊士で、称名寺墓地に墓碑があったが、昭和29年の台風で壊されたため、この碑に名を刻んだ。」
称名寺を出て、向かったのは実業寺(じつぎょうじ)です。安政元年(1854)ペリー来航時には、実業寺にスタジオが設けられ、そこで行われた写真術に市民は驚いたという記録が残されています。翌年には、フランス軍艦シビル号が入港し、実業寺が多数の疾病水兵の養生所になっています。また、安政5年(1858)にはロシア領事館としても利用されています。
明治2年(1869)箱館戦争終結後、旧幕府軍戦死者の遺体が市中に放置されたままになっていた時、住職が侠客柳川熊吉と相談して、寺に葬ったという美談も残されています。 元町公園にやって来ました。函館の観光地として有名ですね。
旧ロシア領事館です。
安政元年(1854)12月の日露通好条約に基づき、実業寺に領事館を置き、2年後の万延元年(1860)元町の現ハリストス正教会敷地内に領事館を建てますが、隣の英国領事館の火災で被災します。その後、建設は日露戦争で中断し、明治41年にこの建物が完成しました。
設計は、ドイツ人建築家R.ゼールで、レンガ造りの2階建て本館の玄関には唐破風を用い、日本的な意匠が加味されています。現在は、函館市が所有しています。
この美しい建物は、旧北海道庁函館支庁庁舎です。
明治42(1909)に建てられた洋風建築物は、明治末期の函館を伝える建物として、北海道開拓の歴史上価値が高いことから北海道有形文化財に指定されています。
江戸時代、この元町公園には、箱館奉行所が置かれていましたが、嘉永7年(1954)に日米和親条約で下田と共に補給港として箱館の開港が決まると、港湾から近く、防備上不利という理由から五稜郭に移されました。
「レンガの積み方の違いから、建物の玄関部分は後から増築されたもの」という説明を解説ボランティアの方がされていました。 レンガには、「明治七年」という刻印がありました。 函館の観光スポットにも足を運びました。このライトブルーが美しい函館ハリストス正教会は、まさに異国情緒たっぷりです。
長崎や横浜と同様で安政5年(1858)に締結された日米修好通商条約を機に開港しているので、西洋文化の影響を受けた建物がたくさんありますね。 六角屋根に風見鶏のこの建物は、カトリック元町教会です。この辺りは函館を象徴する観光スポットという感じでした。 この写真は、カトリック元町教会を正面から撮ったものです。 函館を代表する八幡坂です。 函館の観光スポットをさっと見学した後、再び箱館戦争の史跡を訪ねます。
この場所にも必ず行きたいと思っていました「碧血碑(へっけつひ)」です。
ただ、函館山山麓にあることと、あまり案内表示がないために、しばらく山歩きをしてしまいました。一応、ヒグマに出会わないようにとラジオで音を出しながら歩くと、山奥からガサガサという物音がするではありませんか。
もしや、今回は吉村昭の「熊嵐」の舞台を巡る旅ではないので勘弁してください。と心で思いながら先を急ぎました。230メートルがこんなに遠いと感じたことはありませんでした。 ようやく着きました。ちなみに夜のニュースで函館の民家にヒグマが出没と出ていました。
碧血碑は、箱館戦争で亡くなった新撰組の土方歳三ら旧幕府軍の戦死者約800人の霊が祀られています。観光雑誌には土方歳三の遺骨もこの場所に埋葬されたと書かれていました。 碧血碑の隣に柳川熊吉の寿碑があります。先程、実行寺でも触れましたが、侠客の柳川熊吉が大工棟梁の大岡助右衛門や実行寺住職らと市内に放置された旧幕府軍戦死者の遺体を回収し、碧血碑を建立した方です。
パンフレットの人物紹介には、江戸浅草の料亭の息子として生まれ、侠客として箱館に渡り、江戸流柳川鍋を商売として生活していた。と書かれていました。本名は野村熊吉ですが、箱館奉行から柳川と呼ばれていたので、姓を柳川としたようです。














