前回訪ねた浄妙寺から道路を挟んで200mほどのところに竹林で有名な報国寺があります。報国寺は、建武元年(1334年)に開山されました。開基は足利家時ですが、上杉重兼も創建にかかわったといわれています。家時から二代後の足利尊氏は室町幕府を樹立し、関東を治めるのに子息を鎌倉公方に据えました。鎌倉で4代90年にわたり栄えましたが、永享の乱において鎌倉公方持氏は瑞泉寺塔頭の永安寺で、息子の義久は菩提寺報国寺で自害割腹されました。報国寺は関東における足利公方終焉の地といわれています。
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報国寺は、外国人向けガイドブック「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で3つ星を獲得するほどの人気観光スポットなんです。何台もの人力が外国人観光客を運んでいました。
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山門を入り、しばらくすると本堂裏手に小さな庭園があります。この庭園は枯山水の庭園で、まさに京都の風情を感じさせてくれます。11月末には、紅葉が楽しめます。
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毎週日曜日の午前中に、本堂で「日曜座禅会」が開かれています。座禅初心者も参加可能だそうですよ。
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本堂の横で拝観料を納めます。竹林の御庭を見る順路が案内されています。
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永享の乱で敗れた鎌倉公方足利持氏の子義久が自刃しています。このやぐらにお墓があります。
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報国寺の見どころの一つは、茶席「休耕庵」でお抹茶をいただきながら、ゆったりと竹林を眺めることができるところですね。
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鐘楼の背後には無縁仏の五輪塔が並んでいます。合戦によって戦死した者を供養するために建てられました。1416年(応永23年)、4代鎌倉公方の足利持氏に対して反乱を起こし、翌年自刃した上杉禅秀の塔婆も見受けられるそうです。
また、鎌倉幕府は1333年(元弘3年)の新田義貞による鎌倉攻めで滅亡しますが、1965年(昭和40年)、北条・新田両軍死者の遺骨が、由比ガ浜から報国寺に改葬されています。
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ご覧いただきありがとうございました。さて、金沢街道巡りは、まだ続きます。
次回は「瑞泉寺と吉田松陰」です。
報国寺はこちらです。


朝比奈切通しは、全長約1.5㎞です。時間にして15分ほどで、もとの県道204号線の金沢街道(六浦道)に合流します。そこから、300mほど行くと十二所神社に着きます。
十二所神社は、近くにある光触寺の境内にあった熊野十二所権現の社が前身とされていて、江戸時代末に明王院住職の呼掛けによって社殿が建立されたと伝えられています。
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社殿には、うさぎの彫刻がありました。私がいる間に数人の女性がカメラを片手にお参りしている姿を見かけました。隠れたスポットなのかも。
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室町時代には、足利公方屋敷が構えられ、足利尊氏やその子孫が居住していました。
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浄妙寺は、足利氏の菩提寺として1188年に創建され、鎌倉5山の第5位と高い寺格を持ちます。鎌倉時代に広大な敷地を誇っており、周辺の地名も「浄明寺」(地名は「浄妙寺」の「妙」の字を「明」に置き換えています)と呼ばれる閑静な住宅街が残っているのもその名残です。
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山門を入ると、本堂まで真っ直ぐのびる石畳、整えられた植栽、そして、青々とした芝生が印象的です。
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お寺の境内にガーデンハウスがあります。早速入ってみることにしました。
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席は室内か庭を選ぶことができます。この日は結構冷え込んでいたので室内でコーヒーをいただきました。
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調理場の奥には石窯があります。この石窯でパンが焼かれています。メニューのほか、パンだけを購入することもできます。
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石窯ガーデンテラスの庭園はイングリッシュガーデンとなっているので、コーヒーを頂いた後、覗いてみることにしました。満開の薔薇を期待していましたがハズレ。ハーブはいくつもの種類が見られました。
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浄妙寺の奥にある延福寺跡のやぐらには足利直義のお墓があります。
1352年(文和元年・正平7年)足利尊氏によって幽閉されていた足利直義(高義・尊氏の弟)は延福寺で病死したと伝えられています。(尊氏に毒殺されたという説もあります。)延福寺は、足利尊氏の異母兄の高義が実母の供養のために建てた寺で、一説には、高義の菩提を弔うために建てられたともいわれています。(高義の法号は「延福殿」)
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本堂の脇には、喜泉庵という茶室があります。その茶室から眺める枯山水庭園は一見の価値があります。お抹茶と甘味のセットのメニューが用意されていて、茶室に上がって庭園をゆっくりみることができます。癒される時間でしょうね。
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次は竹林の報国寺に行きます。(続く)
浄妙寺はこちら

鎌倉は、南は面し、北・東・西の三方が山に囲まれた天然の要害の地です。これは、源頼朝が鎌倉を武家政権の本拠地として選んだ大きな理由の一つですが、やがて政情が安定し、鎌倉が都市として発展するとともに人や物の往来が盛んになるにつれて、周囲の山々は交通の妨げとなっていきました。そこで、13世紀前半、執権の北条氏は山の尾根を人工的に開削し、「鎌倉七口」と呼ばれる7カ所の「切通し」を整備しました。その一つが「朝比奈切通し」です。中世鎌倉の雰囲気を残す貴重な古道は、国の史跡に指定されています。
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朝比奈切通しを代表する場所です。道幅は3メートルほどでしょうか。開削した崖面の跡が当時の難工事の様子を物語るようです。
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切り立った切通しの真上は高速道路「横浜横須賀道路」です。果たして地層的に安全なのかどうか心配ですが、その高速の真下を通っていきます。(この日も落石や崖崩れ防護の工事が何カ所にもわたり行われていました)
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高速道路の下を通り抜け、振り返ると高速道路がよく見えました。
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朝比奈切通しを代表する場所です。道幅は3メートルほどでしょうか。開削した崖面の跡が当時の難工事の様子を物語るようです。
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ここで、道は二股に分かれます。左に行くと熊野神社です。社伝によると、頼朝が創建されたと記されています。鎌倉には、熊野神社単体では存在しないとされているので、寺院もしくは、御家人の邸宅だった可能性があります。
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切通しには、石切り跡が随所に見られます。峠には地蔵と思われるレリーフが残されています。切通しの開削中に亡くなられた方を供養するために彫られたものなのでしょうか。
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道の途中には、やぐらが随所に掘られ、江戸期の石造や石塔が見られます。近世においても改修が施されていた形跡だと思われます。
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下り坂になると、路面に崖面から流れた滴が目立つようになります。その滴はしだいに細い流れに変わります。そして小川に変わり、大刀洗川に注ぎます。
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朝比奈切通しの鎌倉口に出たところに滝があります。この滝は、「三郎の滝」と呼ばれています。朝比奈切通しを一夜にして切り開いたという伝承が残る大力武勇の猛者
「朝比奈三郎義秀」に因んで名付けられています。朝比奈三郎義秀は、源頼朝の下で侍所別当を務めた和田義盛の三男といわれています。
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朝比奈切通しの説明が書かれた石碑が三郎の滝の横に建っています。
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この後、鎌倉八幡宮までの金沢街道沿いある古刹を巡ります。(続く)
朝比奈切通しのコースをマップで示す予定でしたが、途中の「熊野神社」までで途切れています。その先が道として認識されていないようです。
鎌倉幕府の首都としての鎌倉は、都市として繁栄していきますが、港の機能に問題がありました。鎌倉の海岸は遠浅で、七里ガ浜の東端に設けられた和賀江の港も決して良港ではありませんでした。そこで注目されたのが三浦半島の東岸、金沢の六浦です。北条泰時はこの地との連絡を容易にするために朝比奈の切通しを開き、それ以後、六浦は鎌倉の外港として繁栄していきます。
今回から、六浦の瀬戸の入江から、朝比奈切通しを通り、鶴岡八幡宮に至る金沢街道(六浦道)を歩きます。
京急金沢八景駅を出ると、こんもりとした森に覆われた瀬戸神社が見えます。
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社伝では、1180年(治承4年)鎌倉に入った源頼朝が信仰していた三嶋神社を勧請したとされています。ちょうど七五三のお参りに来た家族が記念撮影をしていました。
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瀬戸神社の境内に横たわる大木「蛇混柏」(ビャクシン)は、延宝8年(1680年)の台風で倒れて以来、今日まで朽ちることなく残っているもので、江戸名所図絵には既に倒れた状態で描かれています。
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瀬戸神社の前に琵琶島があります。1180年(治承4年)鎌倉に入った源頼朝が信仰していた三嶋神社を勧請した際に、夫人の北条政子が夫にならって、日頃信仰する琵琶湖の竹生島弁財天を勧請して瀬戸神社の海中に島を築いて創建したと伝えられています。島の形が琵琶に似ていることから琵琶島とも呼ばれています。周囲は60mに満たない小島で、現在は陸から伸びた参道と小橋で結ばれています。当時の風光明媚な海岸の風景が偲ばれます。
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参道に入ると、「福石」と呼ばれる大きな石があります。この石の前で物を拾うと福を授かるということから「福石」と呼ばれています。源頼朝が琵琶島の弁財天を参拝する折に、この石に服を掛け、海水に入ったので「服石」とも呼ばれたともいわれています。
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琵琶島の弁財天は沖に突き出ているため、地元では釣りのポイントになっています。釣り人が腰かけている木は、瀬戸神社の境内にあった「蛇混柏」(ビャクシン)と同様のものです。既に枯れ木のようですが、朽ちることなく残っています。
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金沢シーサイドラインから撮った平潟湾に浮かぶ琵琶島。
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瀬戸の入江を離れ、金沢街道(六浦道)を歩きます。最初に見えてくるのが「泥牛庵」(でいぎゅうあん)という臨済宗のお寺です。階段の上には立派な茅葺きの山門があります。円覚寺の伝宗庵の南山士雲によって創建されたといわれています。室町時代後期に廃絶していく鎌倉寺社同様に、泥牛庵も衰微したようです。承応2年(1656年)に復興されています。
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現在の金沢街道は、国道16号線をしばらく歩き、「六浦」の信号で右折し「環状4号」を通るルートです。
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環状4号をしばらく歩き、最初に見えてくるお寺が日蓮宗の「六浦山上行寺」です。
初めは、真言宗で金勝寺といいました。日蓮宗に改めたのは、日荷上人でした。日荷上人は、もと六浦平次郎といい回船問屋を営み、六浦湊を支配する商人でしたが、帰依し、出家して日荷上人と呼ばれました。境内には、日荷上人が植えたという樹齢600年の榧の木があります。これは日荷上人が身延山から持ち帰ったものといわれています。
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しばらく交通量の多い環状4号を歩くと、「小泉又次郎誕生地」という石碑が道路沿いに建っています。小泉又次郎は、元総理大臣小泉純一郎の祖父にあたり、横須賀市長、逓信大臣、衆議院副議長を歴任した方です。義侠心のある大衆政治家で、入れ墨があったことから「いれずみの又さん」との異名があったそうです。
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「鼻欠地蔵」と呼ばれる摩崖仏です。ここは武蔵の国との国境で、西は相州、東は武州の堺にあたっていました。そこで「堺の地蔵」、また鼻が欠けているところから「鼻欠地蔵」とも呼ばれていました。今は風化が進み、地蔵の顔や姿は説明を受けないとわからない程になっています。イメージ 13

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この辺りから環状4号の勾配が上がってきます。前方に見える山の懐に大きな門構えのお屋敷がみえてきます。
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この大きな門構えのお屋敷を通り過ぎると「朝比奈切通」の看板が見えてきます。ここを左に折れ200m先に今回の目的の一つである金沢街道(六浦道)の旧道の切通しがあります。この先は次回、ご紹介いたします。(続く)
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今回ご紹介したルートはこちらです。
前回のゴール地点だった京急三崎口駅からスタートして、小網代の森を通って、油壷、三崎、毘沙門、金田湾を巡り、京急三浦海岸駅を目指して歩きます。
三崎口駅から15分ほど歩くと、「引橋」のバス停があります。そこから、小網代の森に入ります。
この森には、1キロほどの川の源流があり、その水は湿地を生み、川となって湾口付近に干潟をつくり、豊かな湾に注がれるまでを見ることができます。こうした源流から海までの流域の生態系を見ることができる場所は首都圏ではこの小網代の森だけと言われています。今回は、スマホのカメラで撮りました。
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原生林の中にどこまでも入っていきます。
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源流の流れに沿って作られた木道を歩いていきます。
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谷戸に入ると湿地が広がります。
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そして、小網代湾に注がれます。河口には、干潟がつくられアカテガニのダンスを見ることができます。スマホなので、うまくアカテガニのダンスが撮れませんでした。
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小網代の干潟に生息するアカテガニです。(お借りしました)
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高台から小網代湾を眺めます。
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小網代湾の漁港に着きました。湾全体が細長く、奥まっているため、湖面のような海岸線が続いています。
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小網代湾を後に、高台に上がると油壷のマリーナが眼下に見えてきます。
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漸く、三浦三崎に着きました。漁港にある三崎食堂で昼食です。この日は平日だったので並ぶことなく入ることができました。
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今回は、奮発して4点盛り刺身定食です。さすがに新鮮なお刺身で美味しくいただきました。
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三崎港を後に、三浦半島南端の海岸線の国道をひたすら歩きます。宮川大橋から見た景色です。薄っすらと見える対岸は千葉県南房総です。東京湾の入口付近ですね。
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海岸の磯まで降りてみることにしました。ここで、しばらく釣りを楽しみました。が何も釣れませんでした。
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再び、国道に戻り、ひたすら歩きます。漸く、三浦海岸側(東京湾)になります。
この海岸は金田湾です。春から初夏にかけて、手漕ぎボートでシロギスやカレイを釣ることができます。ここには結構通いました。向こう岸は久里浜です。
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やっと、京急三浦海岸駅に到着しました。この日の歩行距離は28キロでした。
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三浦半島南端の海岸線の地図はこちら
おしまい