太田道灌のゆかりの地を歩き、再び大山街道に戻りました。大山街道沿いは、新東名高速道路の建設工事と並行して、かなり広い範囲で埋蔵文化財の発掘調査が行われていることが分かりました。
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畑の真ん中に新東名高速道路の橋脚も建てられています。この辺りに丹沢大山のインターチェンジができるようです。
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工事の影響でしょうか、この周辺にあったと思われる道祖神やお地蔵さんが一カ所に集められています。
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街道沿いには、地元の新鮮野菜を売る無人の小屋があります。野菜高騰の折、安くて新鮮な野菜の前で思わず足が止まります。でも、これから登るところなので諦めます。
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徐々に上り坂になってきました。この細い大山街道に大型バスやトラックが行き交います。
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大山街道沿いに建立されている子易明神比比多神社(こやすみょうじんひびたじんじゃ)は、子宝安産の神社として、多くの大山詣りの人たちに参拝されていたようです。子易とは、この辺りの地名です。
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社殿の両方の柱の下半分は、赤い支柱に囲われているようです。よく見てみると・・・
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柱の木が削り取られているようで一部細くなっているのが分かります。
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柱には、手書きの案内板が括り付けられていました。そこには、「細くなった向拝の柱(由緒)」と書かれています。
どうも、この柱を削って持ち帰る(食べる?)と子宝に恵まれるという謂れから、こうした姿になったようです。
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社殿の中を見ると、天井近くに絵馬が描かれています。この絵馬は、厚木出身の浮世絵師の歌川国経によるもので、神奈川県指定重要文化財になっています。
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しばらく歩くと、JAの農産物直売所がありました。
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中に入ると、目の前に「禅寺丸柿」が売られているではありませんか!?
そして「禅寺丸柿」の謂れが書かれていました。そこには、
「鎌倉時代に、川崎市麻生区にある王禅寺の山中で発見されたものが原木といわれています。これ以前の柿は渋柿で、日本で最初の甘柿として位置づけられています。川崎市生まれの禅寺丸柿がこの地(子易)に伝わったのは、1657年(明暦3年)頃といわれ、当時流行していた「大山詣で」に江戸の旅人が王禅寺の里で手に入れた禅寺丸柿の枝を持ち込み、渋柿に接ぎ木したのが広まり、その後、「子易柿」と呼ばれ、大山詣での人々に親しまれていました。」と書かれていました。
なるほど、意外なところで、大山と川崎の関係を発見しました。
川崎市麻生区王禅寺には、「柿生」という地名もあるんです。
因みに王禅寺にある「禅寺丸柿」の原木は、国の登録記念物に指定されています。今では、ほとんど川崎では流通されていないので、記念にお土産にしました。
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大山参道「三の鳥居」が見えてきました。正面にそびえ立つのが大山です。
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謂れが書かれていました。ここにも川崎の臨海部にある「日本鋼管」(現 JFE)の名前が。
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漸く、丹沢大山国定公園の入口に着きました。心もち、大山も近くに見えてきたように感じます。
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大山の名物は、「豆腐料理」と「猪鍋」です。この御食事処は、とうふ料理の「夢心亭」さんで、人気店のようです。
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大山は古代から霊山として崇められていました。江戸時代は、現代と異なり、一人で遠出をすることは難しいことでしたので、民衆は、近所同士、あるいは職業同士で団体をつくり、「講」として参拝していました。
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大山信仰には、豊作の祈願、豊漁と海上の安全祈願、職人、商人(水に関係深い火消や酒屋、大工、板前などの職人集団)の商売繁盛祈願、除災招福祈願があげられます。写真の石段には、「築地」「木場」「消防団」などの関東圏の地名や職業に因んだ名称が刻まれています。
この「講」による大山詣では、現代でも息づいていて、毎年、地域や職人集団で宿坊に泊り、大山にお詣りをしています。イメージ 17

大山参道にある大山阿夫利神社社務所
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参道には、現在でも51の宿坊(旅館)が並んでいます。
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大山の駐車場の付近にある愛宕滝(あたごたき)
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参道には長い階段が続いています。その両側には、おみやげ屋さんが軒を連ねています。
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漸く、大山ケーブル駅に到着しました。
大山は、標高1252メートルの山で、ケーブルカーで山の中腹まて行け、そこから1時間30分ほどで山頂まで行けることからファミリーにも人気の山です。
今回は、すでに午後2時を回っていることから、大山ケーブルカーに乗って、紅葉を楽しみながら、まずは、大山阿夫利神社下社へ向かうことにしました。
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大山登山コース
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(続く)
伊勢原駅の改札を出ると、「祝・大山詣りが日本遺産に認定!」の横断幕が目に飛び込んできます。今年(平成28年)の5月から大山街道を歩き始め、今回で4日目。少し間隔があいてしまいましたが、最終日は、いよいよ大山詣りです。
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伊勢原駅には朝9時30分に到着。久しぶりの秋晴れです。すでに、丹沢大山行きのバス停には長蛇の列ができています。
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大山街道を歩くのが目的なので、バス停を横目に、丹沢大山の登山口に向け、一歩一歩、歩いて行きます。
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国道246号線を渡り、しばらくすると、大山阿夫利神社参道二の大鳥居が見えてきます。大鳥居の先に見えるのが大山です。まだ、随分遠くに見えます。
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大山街道を少し外れ、太田道灌公墓地をお詣りします。このお寺は、洞昌院です。
道灌が上杉憲実の弟、道悦和尚のために建てたと伝えられています。
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洞昌院の本堂です。
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この辺りは、太田道灌にまつわる史跡が点在している場所です。案内地図を参考に辺りを歩きます。
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洞昌院の隣に史跡太田道灌公の墓があります。前回行った太田道灌の菩提寺大慈寺のほとりに流れる渋田川沿いにも太田道灌の墓があり、首塚と呼ばれていました。
上粕屋にあるこちらの墓は胴塚と呼ばれているもので、暗殺された後、この場所で荼毘に付されたと伝えられています。
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太田道灌公の墓。文明18年7月16日、道灌は主君の扇谷上杉定正の糟屋の館に呼ばれ、湯殿に招かれて暗殺されています。暗殺の原因は不明ですが、山内上杉顕定が扇谷上杉定正に道灌謀反を信じ込ませて討たせたとも、定正が道灌の才能に嫉妬した結果からとも、いわれがあるそうです。
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太田道灌公の墓の近くに「七人塚」があります。道灌が糟屋の上杉館で暗殺されたとき、付き添っていた家臣たちも不意打ちをくらい討ち死にします。その家臣たちの供養塔が「七人塚」です。
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家臣9人のうち、7人はその場で果てますが、残る2人は道灌暗殺を伝えるため生き残ります。その家臣、山口家はその地で代々墓守をしてきたといわれています。現在も末裔にあたる山口氏は塚の世話をされています。
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七人塚の前には、「上粕屋神社」があります。大同弘仁(9世紀初頭)近江国日吉神を移し勧請したと伝えられています。社号を山王宮と唱え、明治以後、日枝神社と改め、後、近隣の社を合祀し、社名を上粕屋神社と改められたといわれています。
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上粕屋神社の社殿です。
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境内にはケヤキの大木が左右に並んでいます。いずれも樹齢600年以上とされていて社殿の歴史を物語っているようです。
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上粕屋神社から10分ほど歩くと産業能率大学(写真の建物)に着きます。道灌が暗殺されたとされる上粕屋の上杉館は、このあたりと推定されていますが、確認はできていません。現在、この辺りは、新東名高速道路の建設工事が行われています。
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産業能率大学の敷地の周りを歩いていたその時です。下の写真にある看板を目にしました。「遺跡の発掘調査をしています」とあるではありませんか。新東名高速道路の建設工事中に発見されたと思われます。
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現在、進められている埋蔵文化財発掘調査の現場です。これが上粕屋の上杉館だとすれば、この場所で道灌が暗殺されたということになります。正式には、発掘調査が終了される来年の10月以降に学会等で発表されると思われます。楽しみですね。
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大山街道歩きから、太田道灌の歴史捜査のような記事になってしまいましたが、果たして、新たな歴史の発見につながるのでしょうか。興味は尽きません。
さて、随分とこの場所で時間をかけてしまいました。次回は、大山詣りに戻ります。
洞昌院の辺りはこちらです。
この写真は、東京駅前の丸ビルに置かれたリーフデ号のモニュメントです。
1600年4月、時はちょうど関ケ原の戦いの5か月前、オランダ船のリーフデ号は、日本近海で難破し、九州豊後の国(今の大分県臼杵)の海岸に漂着しました。
航海士の名はウィリアム・アダムスというイギリス人でした。
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ウィリアム・アダムスは、造船の修行中に学んだ航海術や天文学を活かし、オランダから東洋に向けて遠征隊が船出することを聞きつけ、当時、マルコポーロの東方見聞録で知った日本、「黄金の島国」に一攫千金の夢を見て、その船団に乗り込むことを決心します。アダムスを乗せた5隻の船団は、暴風雨や食糧難により、殆どの乗組員が亡くなり、1年8か月かけて日本に漂着したのは、リーフデ号一隻のみでした。総勢480人いた乗組員のうち、日本の土を踏んだのは18人だけでした。

航海士だったウィリアム・アダムスは、乗組員を代表して、当時、豊臣政権の5大老筆頭だった徳川家康に謁見するため大阪に行きます。そして、39日間に及ぶ大阪の牢で厳しい尋問を受けることになります。真摯に応えるアダムスの人柄に好意を持ち、家康は外交顧問として江戸に置くことにします。家康に気に入られたアダムスは江戸日本橋に屋敷を与えられたうえ、それまで天領であった相模国三浦郡逸見250石の領地を与えられました。
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江戸日本橋の屋敷跡は、日本橋室町にあります。当時、按針町と名付けられていたその場所には、現在「按針通り」として名残の名称を見ることができます。
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屋敷跡には、「史跡 三浦按針屋敷跡」の石碑が残されています。アダムスは、三浦按針と名乗り、帯刀を許される旗本身分となります。まさに「青い目のサムライ」の誕生です。後に、日本橋大伝馬町の名主の娘「雪」を妻とし、長男「ジョセフ」、長女「スザンナ」が生まれます。
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リーフデ号の乗組員のうち、ヤン・ヨーステンというオランダ人も、砲手の経験を買われ、信任を得て、家康により屋敷を与えられます。ヤン・ヨーステンとリーフデ号のモニュメントが、八重洲通りの中央分離帯に建てられています。東京駅から300メートル程のところです。
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ヤン・ヨーステンは、日本名で耶揚子(やようす)と呼ばれていました。現在の八重洲(下の写真)の地名はヤン・ヨーステン(耶揚子)から付けられたといわれています。
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八重洲地下街には、ヤン・ヨーステンの記念像があります。
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実際のヤン・ヨーステンの江戸屋敷は、現在の場所でいうと「和田倉門外」の付近を指していて、当時はこの場所を「八代洲河岸」と呼んでいました。
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東京駅から東海道線に乗り、横浜駅で京浜急行に乗り換え、「京急 逸見(へみ)駅」で降ります。逸見は三浦按針に与えられた250石の領地だったところです。按針が抱えていた家来・農民は90人ほどいたといわれています。
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京急逸見駅を降りると、すでに夕方近くになっていました。近くには、JR横須賀駅があります。
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京急逸見駅の前にある商店街は、現在、「逸見按針通り」と呼ばれています。
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浄土寺は三浦按針の菩提寺です。逸見駅から浄土寺まで徒歩で3分ほどで着きます。お寺には、今もアダムスゆかりの念持佛など寺宝が残されています。(寺宝は一年に一度「按針忌」の4月8日に公開されているそうです。)
今回、記事を書くにあたっては、現在の浄土寺住職、逸見道郎氏の著書「青い目のサムライ 按針に会いに」(かまくら春秋社)を参考にしています。
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浄土寺は、鎌倉時代の武将、畠山六郎重忠が建立した寺と伝えられています。創建からおよそ800年が経っています。神奈川県の調査によると横須賀市内で最も古い木造建築だとされています。
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浄土寺のすぐ近くに三浦按針の屋敷があったといわれている場所「鹿島神社」があります。
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三浦按針は、日本漂着から4年後の1604年、家康の命を受けて、船手奉行の向井将監忠勝とともに船大工一行を引き連れて、伊豆の伊東に向かい、現地の船大工を使い、日本初のイギリス式帆船80トンを建造しています。続いて、120トンの帆船も建造しています。伊東の松川沿いの海岸に出るところのなぎさ橋の際に、小さな「按針メモリアルパーク」があります。公園の中には、按針の胸像と帆船建造の碑が建てられています。なお、毎年、8月10日に伊東市で按針祭が開かれています。(写真はお借りしています)
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その後、按針は、家康亡き後、秀忠に仕えます。秀忠はイギリス・オランダ両国の貿易は平戸と長崎に制限します。ただし、旗本身分の按針は例外とされ、独自にシャムや中国と貿易を行い、商人としての生活を中心とします。按針は1620年、平戸の日本人宅で病気で亡くなります。56歳でした。遺産は、イギリスにいる妻子と、日本の家族に分配するよう遺言に書き残しています。逸見の領地は息子のジョセフが按針二世として引き継いでいきます。鹿島神社もジョセフが建立したと伝えられています。おそらく、下の写真にある「塚山公園」にある供養塔もジョセフにより建てられたものと考えられます。確かなことは分かっていません。
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塚山公園は標高133メートルの小高い山の中腹にあります。逸見の塚山公園に按針の領地や供養塔が建てられた理由の一つに江戸時代、この場所には「浦賀道」が通っていたことがあげられます。また、家康は、海外との交流の窓口を浦賀と考えていたことから、按針に近くの逸見に領地を与えたのではないかといわれています。
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按針塚は大正12年(1923年)に国指定史跡になっています。
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1980年(昭和55年)、私も見ていましたが、「将軍」という海外ドラマがありました。リチャード・チェンバレン、島田陽子、三船敏郎が演じていたあのドラマは、ウィリアム・アダムスの生涯を描いたフィクションだったんです。懐かしいですね。
あと、「ガリバー旅行記」もアダムスがモデルだとされているのです。驚きました。

伊東の小室山で発見された早咲きの桜「伊東小室桜」が按針の菩提寺「浄土寺」の境内にあります。
これは、昨年、按針忌に合わせ、「按針が紡ぐ伊東・横須賀市民交流の樹」事業で植樹されたものです。
現在も、按針にゆかりのある都市間で市民交流が盛んに行われているのですね。
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おしまい
按針の菩提寺「浄土寺」はこちらです。
金沢街道(六浦道)の最終回です。前回の瑞泉寺を後に、二階堂、雪ノ下と閑静な住宅街を歩き、鶴岡八幡宮まで巡ります。
鎌倉宮テニスクラブのコートの脇に建つこの石碑は「永福寺(ようふくじ)跡」の碑です。
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永福寺は、1192年(建久3年)、源頼朝が奥州平泉の中尊寺や毛越寺を模して建てた壮大な寺院でした。弟源義経と奥州藤原氏の霊魂を鎮めるために建立したといわれていますが、それとともに頼朝自身の権勢を世に知らしめるためだともいわれています。跡地は国の指定史跡となっていて、本堂の「二階堂」の名は地名として残されています。
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二階堂の住宅街をしばらく歩き、幕府遺跡の上に建つ清泉小学校の角を曲がると細長い階段が見えてきます。源頼朝のお墓です。
1198年(建久9年)12月27日、「相模川の橋供養」の帰りに落馬し、それが原因で53歳で死去したとされています。相模川の橋は稲毛重成が亡き妻(北条政子の妹)の供養のために架けたものでした。この稲毛重成の墓は、以前このブログでもご紹介したことのある川崎市多摩区枡形の「廣福寺」にあります。
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墓石の供物台を見ると、薩摩藩島津家の「丸に十字」の家紋が見えます。
この多層塔(源頼朝墓)は1779年(安永8年)に薩摩藩の島津重豪(しまずしげひで)が建てたものです。
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頼朝の墓を建てた島津重豪は、先祖の島津忠久が頼朝の子ともいわれ、反感を抱かれていた江戸幕府に対し、頼朝の墓を建てることで、その「家柄」を示したといわれています。頼朝の墓の山裾には、島津重豪が源頼朝墓とともに整備した島津忠久の墓があります。
今なお頼朝公墓前祭(4月13日)には、島津家ご当主が出席しています。歴史が今もつながっていることを感じました。
また、島津忠久の墓の横には、頼朝の側近として鎌倉幕府を支えた大江広元(政所別当)の墓があります。大江広元の末裔には、毛利元就がいます。
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源頼朝墓の東側の山の中腹に並ぶ三つの「やぐら」は、中央が大江広元、左がその子で毛利氏の祖となる毛利季光、右が源頼朝の子ともいわれる島津忠久の墓。(お借りしました)
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江戸時代に鎌倉の観光名所として定められた鎌倉十橋の一つ「筋替橋」。
名前の由来は、橋が「く」の字に架かっていたためといわれています。
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ようやく鶴岡八幡宮に着きました、金沢街道のゴールです。3代将軍の源実朝を暗殺した公暁が隠れていたという伝説から「隠れ銀杏」とも呼ばれていた鶴岡八幡宮の大銀杏は有名ですが、平成23年3月10日未明に強風により倒れてしまいました。手前に無残にも切断された大木が残されています。階段の脇に見えるのが大銀杏から移植された幹です。うまく根付いたようで、元気に育っています。
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鶴岡八幡宮の参道若宮大路は、頼朝が妻政子の安産祈願のため造営させたと伝わっています。その中央に一段高く造られたのが「段葛」です。段葛は鎌倉時代の数少ない遺構として残されています。この間、修復が行われていましたが、2016年(平成28年)3月30日に竣工しています。
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賑やかな鎌倉・小町通を通って鎌倉駅に向かいます。
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鎌倉駅に到着です。ご覧いただきありがとうございました。
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おしまい

前回ご紹介した報国寺を出て、200mほど金沢街道を横浜側に戻ります。そこから路地に入り、浄明寺の閑静な住宅街を抜け、山越えをして瑞泉寺を目指します。地図上では分かりませんでしたが、かなりの勾配でした。下に見える街が金沢街道です。
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浄明寺の住宅街を上りきると、天園ハイキングコースの入口らしき看板があります。方角的には合ってるようなので、一か八か急阪を登ることにします。
※天園ハイキングコースとは、鎌倉の山々の稜線をつなぐ鎌倉アルプスと呼ばれるスーパー低山ハイキングコースで眺望がとても良いです。
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天園ハイキングコースを出ると、瑞泉寺の参道とつながっていました。ラッキーです。瑞泉寺は鎌倉公方の菩提寺として、鎌倉五山に次ぐ関東十刹に列した格式のあるお寺様です。
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創建時の建物は、ほとんど残されていませんが、門前に至る歪みのある石段は当時の面影を残しています。
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歪んだ石段を上りきると門前に「松陰吉田先生留跡碑」があります。
吉田松陰は、嘉永6年(1853年)6月中旬、佐久間象山と一緒に浦賀へ黒船を見に来ていますが、そのあとに、伯父の瑞泉寺第25世住職の竹院和尚に会いに来たと伝えられています。また、安政元年(1854年)、下田で黒船に密航を企てる直前にも瑞泉寺の竹院和尚に会いに来ているようです。
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下田での密航の企ては失敗に終わります。企てに失敗した松陰は自首し、江戸の獄に送られます。松陰は、獄中で瑞泉寺を訪ねた詩を吟じたといわれています。詩は石碑の裏に漢文で次のように書かれています。
「山の青々とした竹の光が窓から差し込んでくる。方丈は奥深く、錦屏山の懐に抱かれて物静かである。いま私は囚われの身となって獄中にあり、むなしく苦しみを味わっている。ある夜夢に瑞泉寺を訪ねた」
瑞泉寺山門の前の石碑は、昭和4年(1929年)に建立されています。徳富蘇峰の筆によるものです。

吉田松陰の石碑の前に山門があります。
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瑞泉寺は、鎌倉二階堂紅葉ヶ谷の奥に、無窓国師によって建てられました。創建は、鎌倉時代末期の嘉暦2年(1327年)で、山号は錦屏山です。本堂脇には、鎌倉市の指定天然記念物の黄梅と冬桜が植えられています。
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瑞泉寺本堂裏の庭園は、夢窓国師(むそうこくし)の作として国の名勝に指定されているもので、岩盤を彫刻的手法によって庭園となした「岩庭」とも呼ぶべきこの庭は、書院庭園の原型とされ、京都嵯峨の天龍寺・西芳寺の礎になったといわれています。
現在の庭園は、昭和45年に発掘・復元されたもので、鎌倉に残る鎌倉時代唯一の庭園となっています。
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次は、金沢街道の最終回です。(続く)
瑞泉寺はこちらです。