名越切通の周辺には、鎌倉の防衛にも関係すると考えられる平場や切岸、やぐらや火葬場など多く分布していて、中世鎌都市鎌倉の周縁の歴史的景観を良く残しています。
名越切通のピークに差し掛かるところに細い階段上の脇道があります。
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そこを上がると「まんだら堂やぐら群」に出ます。まんだら堂やぐら群は期間限定の公開となっています。
初夏、秋、春の概ね60日間に限られています。今日は「本日、公開中」の看板が建てられています。
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まんだら堂やぐら群は、一つひとつは2m四方程度と小規模で構造も単純なものが多いですが、150穴以上の存在が確認されている有数のやぐら群で、これだけまとまったやぐらを良い状態で見ることのできる遺跡は鎌倉市内にも少なく、たいへん貴重です。
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やぐらとは、崖に四角い横穴を掘り、主として内部に石塔を建て納骨・供養する施設です。13世紀後半頃から16世紀頃まで使われ、鎌倉及び鎌倉と縁の深い地域や寺院などにのみ分布する特殊な遺構と言われています。
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やぐらの中に並ぶ五輪塔は、後の時代に動かされているものが多いので、中世の姿そのままとは言えませんが、主に火葬した骨を納めるなどして供養するために建てられたものです。葬られたのは、武士や僧侶が多かったと考えられています。
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やぐらの中に並ぶ五輪塔は、供養塔・墓塔として使われる仏塔の一種で、主に火葬した骨を納める際に供養のため建てられたものです。五輪塔は、上から「空輪」「風輪」「火輪」「水輪」「地輪」とされています。

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この場所の70cmほどの地下に火葬のための遺構があります。今は埋め戻されています。
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平成17年度の発掘調査の時の写真です。平場の地下から岩盤を四角く掘った穴が2基発見されました。穴の内部は黒く焼け焦げており、ここで遺体を火葬したと考えられています。やぐら群の前の平場では、火葬の痕跡が多く見つかっていますが、その多くは楕円形で浅い皿型をしていて、このような四角い形の火葬跡は比較的珍しいとされています。(写真:逗子市教育委員会)
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平成17年度の発掘調査で、正面尾根上の小さな平場に、大小10個の切石を敷き並べた遺構が発見されました。東半分が崩れて原型をとどめていませんが、その西側からは斬首されたと考えられる人の頭蓋骨1個が埋められた穴も見つかっています。
この遺構の性格は不明ですが、五輪塔などを据えて亡くなった方を供養する施設だった可能性があると考えられます。(14世紀代)
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この写真は、平成17年度の発掘調査で発見された遺構(上の写真)にあった斬首された頭蓋骨です。(逗子市教育委員会)
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再び、名越切通に戻り鎌倉方面に歩いていきます。前方に平場が広がっていたので、上がってみることにしました。
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この場所も、鎌倉を防御するための役割を果たしていたのでしょうか。
前方に白い煙を出している煙突が気になり、後で地図をみたところ民間の火葬場でした。
名越切通を挟み、まんだら堂やぐら群の前に、今も火葬場があることが偶然のことなのかどうか不思議な気持ちになりました。
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名越切通を抜け、鎌倉駅に向かうことにしました。(続く)
逗子駅から歩きはじめ、岩殿寺、法性寺、大切岸、まんだら堂やぐら群を通ったルートです。
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今回は、晩秋の鎌倉と題して、「名越切通」をご紹介いたします。スタート地点は、JR逗子駅です。
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逗子駅から鎌倉方面に戻るように横須賀線沿いの道を歩きます。
途中で古刹の岩殿寺をお詣りします。
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山門を入ると可愛らしい石像が出迎えてくれます。
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本堂でお参りします。そこから観音堂までは急な階段を上がります。
岩殿寺は、721年に創建され、現在は曹洞宗ですが、最初は真言宗のお寺でした。
990年に花山法皇がこの地を訪れて法要を営み、1174年には後白河法皇が参拝され、この霊場を坂東三十三箇所霊場の第2番に定めました。
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源頼朝、実朝、政子、大姫が度々訪れたことが「吾妻鏡」にも記されています。
頼朝の時代、岩殿寺の山頂から二階堂にある坂東三十三箇所霊場の第1番の杉本寺(734年創建)を結ぶ古道があったと伝えられています。現在は宅地化により古道は存在しません。
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この場所からは、相模湾の海を、その先に三浦半島を望むことができます。
明治時代には、文豪、泉鏡花が逗子滞在中に幾度も訪れています。「春昼」「春昼後刻」は岩殿寺を題材に描かれています。
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再び、横須賀線沿いの道に戻ると江戸時代中期の庚申塔群があります。案内板には「浦賀みち」とも書かれています。この道は、江戸時代には、東海道から浦賀奉行所に通じる「浦賀みち」であったことが分かります。
以前訪れた逸見の「三浦按針塚」も「浦賀みち」に置かれていたことを思い出しました。
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しばらく歩くと、法性寺(ほっしょうじ)の山門があります。山号「猿畠山(えんはくさん)」の扁額(へんがく)の左右には、白い猿がいて、扁額を抱えているようにしています。
他宗を激しく非難したことで知られる日蓮は、文応元年(1260年)鎌倉の松葉ヶ谷にあった小庵が襲撃されます。その時に突如白い猿が現れて、日蓮をある山の洞窟(石窟)に導いてくれ、難を逃れたという謂れがあります。この扁額の「猿畠山」は日蓮終焉の地である池上本門寺の第79世伊藤日定の揮毫です。
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この建物が法性寺です。この上に法性寺の奥ノ院があります。
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門前に「名越切通」の案内がありました。名越切通は山上の墓地の奥と書かれています。
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法性寺から奥ノ院までは、かなりの登り坂です。階段とスロープがあります。
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奥ノ院の横に岩窟(やぐら)がありました。白い猿が日蓮を導いた岩窟とはここだと思われます。
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その岩屋の隣に鳥居があります。「山王大権現」とは日吉(ひえ)神社・日枝神社の祭神で、その使いは猿だといわれています。つまり、山王大権現の使いが日蓮を救ったという繫がりがあるようです。
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この細い石段を上ると、360度眺望の頂上に出ます。
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歩いてきた逗子の街並み、その先には相模湾の海岸線が広がっています。
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奥ノ院を下ると、一面墓地が広がっています。その背後に壁のように見えるのが「お猿畠の大切岸」です。切岸とは、山城などで敵の侵入を防ぐ人工的な崖のことを言います。この切り立った崖が尾根伝いに連続しています。
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切岸の一部にすり減った階段があります。
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階段の上には、さらに切岸が連続して築かれています。
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最近行った調査発掘によると、切岸と思われていたこの崖は、石切り場の跡だったことが分かりました。四角い板状の石材を切り出す大規模な作業の結果、こうした城壁のような形で掘り残されたようです。ただし、結果として鎌倉を防御する役割が一切なかったとは言えません。十分な検証が求められます。下の写真は、発掘のトレンチ調査の際に撮った写真です。
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お猿畠の大切岸から逗子方面を撮った写真です。かなり標高が高くなっていることが分かります。ここを下ると名越切通につながります。
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国指定史跡の名越(なごえ)切通は、鎌倉時代に尾根を堀割って造られたとされる道で、鎌倉時代の事績を記した吾妻鏡に「名越坂」として登場します。鎌倉七口の一つで鎌倉と三浦半島方面とを結ぶ陸路として永く重要な役割を果たしてきました。
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名越切通の途上には大小3箇所の狭い掘り割りがあります。これは、鎌倉幕府が敵の侵入を防ぐために造ったといわれてきました。しかし、この第一切通で発掘調査を行った結果、現在の路面は江戸時代より新しいものであることが分かっています。この路面より60㎝下には幅も広く側溝を備えた道があったということも分かっています。一方、その先の切通には15世紀のものと思われる掘り割りも発見されています。
時代の要請に応じて道の姿も変化してきているといえます。
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切通の真ん中に大きな石が置かれています。これは、騎馬による軍団の侵入を防ぐ目的があったと思われます。このあたりに脇道があります。その先には「まんだら堂やぐら群」という鎌倉時代の墓場があります。ちょうど公開されていたので次回ご紹介いたします。
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また、切通の途中にはこうした平場が置かれています。こうした地形も軍事上の必要から設けられたものかもしれません。うっすらと雪が残っていました。
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切通を囲う木々には殆ど紅葉は見られません。
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切通の端に石が積み上げられていました。一番の下の石には文字が彫られています。
花も添えられているようです。
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シダに囲われた切通。
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漸く、切通を抜け、視界が広がります。この先の崖っぷちに沿って山を下りていきます
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山を下ると、踏切がありました。名越切通はこの山の峰を掘り割って造られていたことが分かりました。明治以降、トンネルが通り、横須賀線が開通すると同時に切通の存在は忘れられていきました。
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次回は、名越切通の途中にあった「まんだら堂やぐら群」をご紹介します。(続く)
名越切通はこちらです。
江戸東京たてもの園の第2回目です。
今回は、「千と千尋の神隠し」のモデルとなった建物がある東ゾーンをご紹介いたします。
高橋是清邸の建物の裏は庭園になっています。そこを抜けると東ゾーンに入っていきます。実は、この高橋是清邸も「千と千尋の神隠し」のモデルの建物なんです。
ボロボロになった白龍が千尋のところに飛び込んできたあのシーン。そのシーンのロケ地となった窓は、高橋是清邸にあります。
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天明家(農家)
江戸時代、鵜ノ木村(現在の大田区)で年寄役を勤めた旧家です。(大田区鵜ノ木一丁目/江戸時代後期)
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この建物は、東ゾーンの店蔵型休憩所です。1階に無料休憩所、2階に手打の武蔵野うどんが食べられる「蔵」があります。ここで、昼食にしました。
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今回、注文した「武蔵野うどんセット」です。確か、700円くらいだったかな。
武蔵野うどんは、東京都多摩地域と埼玉県西部に伝わる伝統的な郷土のうどんで、麺が太く、腰が強いのが特徴のようです。薬味にキャベツが入っていて少しビックリ。
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小寺醤油店
大正期から、現在の港区白金で営業していた店です。味噌や醤油、酒類を売っていました。(港区白金五丁目/1933年)
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鍵屋(居酒屋)
台東区下谷の言問通りにあった居酒屋です。震災や戦災を免れた鍵屋は安政3年(1856年)に建てられたといわれています。
この建物は、あの「千と千尋の神隠し」のモデルとなった建物の一つです。(台東区下谷二丁目/安政3年(1856年))
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子宝湯(銭湯)
東京の銭湯を代表する建物です。神社仏閣を思わせる大型の唐破風や、玄関上の七福神の彫刻、脱衣所の格天井など贅を尽くした造りとなっています。
この建物も、「千と千尋の神隠し」の中に登場する銭湯「油屋」のモデルとなった建物です。この映画の重要な建物、湯婆婆たちがいる銭湯の油屋のモデルになった建物です。(足立区千住元町/1924年)
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そういえば、ロッカーができる前はこんな駕籠を使っていました。
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近所の商店街の広告なんかもありましたね。
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昔は、もっと広く感じましたが・・・。どこの銭湯に行っても、決まって富士山に海か湖が描かれていて、どこか山水画風でした。懐かしい!
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武居三省堂(文具店)
明治初期に創業した文具店です。(千代田区神田須田町一丁目/1927年)
この建物も、「千と千尋の神隠し」の中に登場する建物です。この建物では、千尋が千になり、あのクモみたいに手が動くおじいさん、釜爺のところへ仕事をもらいに行くのですが、そんな釜爺の仕事場のモデルとなっているのが、武居三省堂というお店です。
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丸二商店(荒物屋)
昭和初期に建てられた荒物屋です。小さな銅板片を巧みに組み合わせて模様をかたち作り、建物の正面を飾っているのが特徴です。(千代田区神田神保町三丁目/昭和初期)
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万世橋交番
神田の万世橋のたもとにあったものです。移築の際にはトレーラーでそっくり運んだようです。「写真を撮ってもいいですか」と言いながらカメラを向けると、快く「いいですよ!」とポーズをとってくれました。ありがとうございます!
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7500形
都電は今や「荒川線」だけです。門前仲町の親戚の家に行くときに利用していました。「ALWAYS 三丁目の夕日」の世界ですね。都電も「千と千尋の神隠し」の中に登場していましたね。
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ビジターセンターは、ミュージアムショップやカフェも充実しています。お土産も懐かしいモノばかりです。
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江戸東京たてもの園を出るころにはすっかりと日が落ちていました。公園内には、桜の老木がたくさんありました。春のお花見の頃もよさそうですね。
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おしまい

今回ご紹介する「江戸東京たてもの園」はジブリ映画「千と千尋の神隠し」のモデルになった建物があるところです。
場所は、東京都小金井市にある都立小金井公園内にあり、江戸東京博物館の分館となっています。主に江戸時代から昭和にかけて造られた建物を一カ所に集めたユニークな野外博物館です。
どこか、昔のモデルハウス(住宅展示場)に来たような感じもしますが、どこの住宅も本当に個性的です。しかも、靴を脱いでお邪魔できますから、一日いても飽きないと思います。
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旧光華殿
まず、「江戸東京たてもの園」の正面玄関にあるこの建物は、旧光華殿という建物です。1940年に皇居前広場で行われた紀元2600年記念式典のために建設された式殿で、「江戸東京たてもの園」のビジターセンターとして改修された建物です。
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常盤台写真場
健康住宅地として開発された郊外住宅地常盤台に建てられた写真館です。照明設備が発達していない当時、最も安定した照度を得るために、2階写場の大きな窓には北側から光を採ることができるように摺りガラスがはめ込まれています。(板橋区常盤台一丁目/1937年)
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八王子千人同心組頭の家
八王子千人同心は、江戸時代、八王子に配備された徳川家の家臣団です。拝領屋敷地の組頭の家は、周辺の農家と比べると広くありませんが、式台付きの玄関などは、格式の高さを示しています。(八王子市追分町/江戸時代後期)

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前川國男邸
日本の近代建築の発展に貢献した建築家前川國男の自邸として、品川区上大崎に1942年に建てられた住宅です。戦時体制下、建築資材の入手が困難な時期に竣工しています。外観は切妻屋根の和風、内部は吹抜けの居間を中心に書斎、寝室を配したシンプルな間取りになっています。(品川区神大崎三丁目/1942年)
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田園調布の家(大川邸)
1925年郊外住宅地の一つである大田区田園調布に建てられた住宅です。居間を中心に食堂、寝室、書斎が配置されています。また、当時としては珍しく全室洋間となっています。(大田区田園調布四丁目/1925年)
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綱島家(農家)
多摩川をのぞむ崖線上にあった、広間型の間取りを持つ茅葺きの民家です。広間と土間境の長方形断面の大黒柱や、押し板という古い形式の棚などから、建築の歴史が感じられます。(世田谷区岡本三丁目/江戸時代中期)
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小出邸
日本におけるモダニズム運動を主導した建築家堀口拾己がヨーロッパ旅行からの帰国直後に設計した住宅です。当時オランダで流行していたデザインと、日本の伝統的な造形を折衷した造りになっています。(文京区西片二丁目/1925年)
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デ・ラランデ邸
この住宅は、元は平屋建ての洋館でしたが、1910年ころ、ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデにより3階建てとして大規模に増築されました。その後、1956年から三島海雲氏(カルピスの創業者)がこの住宅に住んでいました。1999年まで新宿区信濃町に建っていました。(新宿区信濃町/1910年)
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旧自証院霊屋
尾張藩主徳川光友の正室千代姫が、その母お振の方(三代将軍徳川家光の側室)を供養するために建立した霊屋です。(新宿区富久町/1652年)
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高橋是清邸
明治から昭和のはじめにかけて日本の政治を担った高橋是清の住まいの主屋部分です。総栂普請で、洋間の床は寄木張りになっています。2階は是清の書斎や寝室として使われ、1936年の2・26事件の現場になりました。(港区赤坂七丁目/1902年)
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西川家別邸
北多摩屈指の製糸会社を設立した実業家西川伊左衛門が隠居所及び接客用に建てたものです。多摩地域の養蚕・製糸業が最盛期をむかえた大正期から昭和初期に建てられたものです。(昭島市中神町二丁目/1922年)
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伊達家の門
旧宇和島藩伊達家が大正時代に東京に建てた屋敷の表門です。大名屋敷の門を再現したような形をしています。(港区白金二丁目/大正期)
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長くなってしまいましたので、ジブリ映画「千と千尋の神隠し」のモデルとなった建物のご紹介は次回にいたします。(続く)
※各住宅の解説はパンフレットを参考にしています。
「江戸東京たてもの園」の場所はこちらです。
時間的にも厳しくなってきたので、大山ケーブル駅からケーブルカーで阿夫利神社駅まで行くことにしました。駅間の標高差は300mありますが、乗車時間はなんと6分です。見てお分かりの通り新品の車両です。昨年の10月に小田急電鉄が50年振りに新しく造ったケーブルカーです。大阪の工場で組み立てたケーブルカーは麓の秦野からヘリコプターで釣り上げました。車両にはできるだけ大型ガラスを採用して眺望に力を入れたそうです。そのことが認められたのか、車内に2016年度グッドデザイン賞のプレートが貼られていました。
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座席はほとんど麓に向けられています。行ったのは10月末でしたので、まだまだ紅葉には早いようです。
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標高700mの阿夫利神社駅に到着です。
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ここにも出るんだなと思いながら足早に神社へ向かいます。
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参道の階段も綺麗に整備されています。
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大山阿夫利神社からの眺望は、2015年6月にミシュラン・グリーンガイド・ジャパンで☆☆だったそうです。標高700mともなると少々紅葉してきます。麓に広がっているのは、湘南の海岸線です。江の島も見えています。その向こうが三浦半島です。
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大山阿夫利神社下社のベンチで遅めの昼食です。駅前のコンビニで買った鮭と梅のお握りを美味しくいただきました。
大山は、別名「あふり山」。「雨を降らす山」の意味で、阿夫利神社は江戸時代より庶民の雨降り信仰を集めてきました。
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社殿の横の紅葉が色づき始めていました。
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1252mの頂上に大山阿夫利神社本社があります。下社からの高低差は約500mです。ルート標準タイムは急坂の男坂で90分、少し緩やかな女坂で100分です。既に時刻は午後2時30分なので、少しでも短縮できる男坂を登ることにします。今日は、軽登山靴とストックと缶ビールを装備しています。いきなりの急階段に心臓はバクバクです。
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ここからはスマホで撮りました。樹齢500年から600年とされています。夫婦杉と呼ばれている縁起の良い大木です。
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石や岩を足がかりにして登ります。上に行くほど斜面はきつくなります。
30年ほど前にも登っていますが、その時はそれほど苦にした覚えはありませんでした。ところが、今回は結構しんどいです。
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この石碑は「16丁目追分の碑」とよばれているものです。1716年に建てられたもので、高さは3メートル68センチあります。この石は、麓から強力たちが担ぎあげたそうです。江戸期の大山信仰の深さを示していますね。
時刻は4時近くになり、標高でいうと1000メートルほどのところまで来ましたが、日も陰ってきたので、今回は残念ながら途中棄権することにしました。
また、機会をみて頂上にある大山阿夫利神社本社にお詣りすることにします。
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すでに膝は笑い始めています。下社に出る急階段は手すりを頼りに降りてきました。
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ここは、社殿の地下です。納め太刀が奉納されています。起源は、源頼朝が「武運長久」を祈願して真剣を納めていたことからだそうです。それが、江戸時代に庶民に広まり、木太刀を奉納しては、翌年に持ち帰ることを繰り返していました。
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社殿の横に男の子と女の子の銅像が建っています。プレートには、「輝け杉の子 川崎市学童疎開40周年記念像 川崎市長 伊藤三郎」と書かれていました。
説明書きを読むと、終戦間際に空襲のひどかった川崎市南部の小学生が、伊勢原や大山に集団疎開していたことから、その縁で記念像が建てられたようです。文末を読むと、「最後に、当地で爆死した米須清博君の霊の安からんことを切に祈る」と結んでいました。尊い命が安全と思って疎開した先で亡くなっていたのですね。
川崎市南部の学校には、私が卒業した学校も入っていました。
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また、改めて山頂を目指すことにして、とりあえず「大山街道を歩く」は終わります。お付き合いいただきまして、ありがとうございました。
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