今回は、晩秋の鎌倉と題して、「名越切通」をご紹介いたします。スタート地点は、JR逗子駅です。

逗子駅から鎌倉方面に戻るように横須賀線沿いの道を歩きます。
途中で古刹の岩殿寺をお詣りします。

山門を入ると可愛らしい石像が出迎えてくれます。

本堂でお参りします。そこから観音堂までは急な階段を上がります。
岩殿寺は、721年に創建され、現在は曹洞宗ですが、最初は真言宗のお寺でした。
990年に花山法皇がこの地を訪れて法要を営み、1174年には後白河法皇が参拝され、この霊場を坂東三十三箇所霊場の第2番に定めました。

源頼朝、実朝、政子、大姫が度々訪れたことが「吾妻鏡」にも記されています。
頼朝の時代、岩殿寺の山頂から二階堂にある坂東三十三箇所霊場の第1番の杉本寺(734年創建)を結ぶ古道があったと伝えられています。現在は宅地化により古道は存在しません。

この場所からは、相模湾の海を、その先に三浦半島を望むことができます。
明治時代には、文豪、泉鏡花が逗子滞在中に幾度も訪れています。「春昼」「春昼後刻」は岩殿寺を題材に描かれています。

再び、横須賀線沿いの道に戻ると江戸時代中期の庚申塔群があります。案内板には「浦賀みち」とも書かれています。この道は、江戸時代には、東海道から浦賀奉行所に通じる「浦賀みち」であったことが分かります。
以前訪れた逸見の「三浦按針塚」も「浦賀みち」に置かれていたことを思い出しました。

しばらく歩くと、法性寺(ほっしょうじ)の山門があります。山号「猿畠山(えんはくさん)」の扁額(へんがく)の左右には、白い猿がいて、扁額を抱えているようにしています。
他宗を激しく非難したことで知られる日蓮は、文応元年(1260年)鎌倉の松葉ヶ谷にあった小庵が襲撃されます。その時に突如白い猿が現れて、日蓮をある山の洞窟(石窟)に導いてくれ、難を逃れたという謂れがあります。この扁額の「猿畠山」は日蓮終焉の地である池上本門寺の第79世伊藤日定の揮毫です。

この建物が法性寺です。この上に法性寺の奥ノ院があります。

門前に「名越切通」の案内がありました。名越切通は山上の墓地の奥と書かれています。

法性寺から奥ノ院までは、かなりの登り坂です。階段とスロープがあります。

奥ノ院の横に岩窟(やぐら)がありました。白い猿が日蓮を導いた岩窟とはここだと思われます。

その岩屋の隣に鳥居があります。「山王大権現」とは日吉(ひえ)神社・日枝神社の祭神で、その使いは猿だといわれています。つまり、山王大権現の使いが日蓮を救ったという繫がりがあるようです。

この細い石段を上ると、360度眺望の頂上に出ます。

歩いてきた逗子の街並み、その先には相模湾の海岸線が広がっています。

奥ノ院を下ると、一面墓地が広がっています。その背後に壁のように見えるのが「お猿畠の大切岸」です。切岸とは、山城などで敵の侵入を防ぐ人工的な崖のことを言います。この切り立った崖が尾根伝いに連続しています。

切岸の一部にすり減った階段があります。

階段の上には、さらに切岸が連続して築かれています。

最近行った調査発掘によると、切岸と思われていたこの崖は、石切り場の跡だったことが分かりました。四角い板状の石材を切り出す大規模な作業の結果、こうした城壁のような形で掘り残されたようです。ただし、結果として鎌倉を防御する役割が一切なかったとは言えません。十分な検証が求められます。下の写真は、発掘のトレンチ調査の際に撮った写真です。

お猿畠の大切岸から逗子方面を撮った写真です。かなり標高が高くなっていることが分かります。ここを下ると名越切通につながります。

国指定史跡の名越(なごえ)切通は、鎌倉時代に尾根を堀割って造られたとされる道で、鎌倉時代の事績を記した吾妻鏡に「名越坂」として登場します。鎌倉七口の一つで鎌倉と三浦半島方面とを結ぶ陸路として永く重要な役割を果たしてきました。

名越切通の途上には大小3箇所の狭い掘り割りがあります。これは、鎌倉幕府が敵の侵入を防ぐために造ったといわれてきました。しかし、この第一切通で発掘調査を行った結果、現在の路面は江戸時代より新しいものであることが分かっています。この路面より60㎝下には幅も広く側溝を備えた道があったということも分かっています。一方、その先の切通には15世紀のものと思われる掘り割りも発見されています。
時代の要請に応じて道の姿も変化してきているといえます。

切通の真ん中に大きな石が置かれています。これは、騎馬による軍団の侵入を防ぐ目的があったと思われます。このあたりに脇道があります。その先には「まんだら堂やぐら群」という鎌倉時代の墓場があります。ちょうど公開されていたので次回ご紹介いたします。

また、切通の途中にはこうした平場が置かれています。こうした地形も軍事上の必要から設けられたものかもしれません。うっすらと雪が残っていました。

切通を囲う木々には殆ど紅葉は見られません。

切通の端に石が積み上げられていました。一番の下の石には文字が彫られています。
花も添えられているようです。

シダに囲われた切通。

漸く、切通を抜け、視界が広がります。この先の崖っぷちに沿って山を下りていきます

山を下ると、踏切がありました。名越切通はこの山の峰を掘り割って造られていたことが分かりました。明治以降、トンネルが通り、横須賀線が開通すると同時に切通の存在は忘れられていきました。
