前回は、京急鮫洲駅から仙台藩下屋敷跡を巡りました。その足で大井町駅前から閑静な住宅街を通り、蘇峰公園にやってきました。紅葉真っ盛りです。
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蘇峰公園は、ジャーナリスト・評論家の徳富蘇峰の居宅を大田区が譲り受け、蘇峰公園として整備しているところです。
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蘇峰公園では紅葉がちょうど見ごろを迎えていたようです。
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居宅を建てた蘇峰は、その建物を山王草堂と名付けました。それを記念して公園内に「山王草堂記念館」が建てられています。記念館には、蘇峰が収集した和漢書10万点におよぶ文庫や著作、また当時、親交のあった新島襄や伊藤博文など著名人たちとの手紙などが資料として公開されています。
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記念館の入口には、富徳蘇峰の銅像が建てられています。
富徳蘇峰は、1863年に生まれ、1957年 95歳で亡くなっています。ジャーナリストとして、日本で最初に総合雑誌「国民之友」を発行し、続いて「国民新聞」を創刊しています。
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先日、鎌倉の瑞泉寺に行った際に、境内の石碑「松陰吉田先生留跡碑」が富徳蘇峰の筆によるものだったことをブログで紹介しました。その際にブロ友のshigeruさんから、「山王草堂記念館」のことを教えていただき、今回の訪問となりました。
※鎌倉の瑞泉寺の富徳蘇峰の筆による石碑「松陰吉田先生留跡碑」掲載のブログ
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記念館の中に、居宅の2階部分が保存されています。
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公園内には、古墳もありました。
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山王草堂記念館の近くに、尾崎士郎記念館があり、公開されています。
敷地内は自由に見学することができます。ただし、居宅内は、玄関先までしか入れません。
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尾崎士郎と言えば、何といっても人生劇場ですね。
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京浜東北線の大森駅から蘇峰公園まで徒歩15分程度です。駅前のジャーマン通りを真っ直ぐ歩くと、下の緑色の案内板があります。
いずれの記念館も、入館料無料、休館日は年末年始のみ。9:00~16:30までの開館です。
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おしまい。地図はこちら。

今年の夏に仙台から松島、そして平泉、水沢と東北を青春18切符で旅しました。
その記事をご覧いただいたブロ友のshigeruさんから、「品川区東大井にも仙台藩下屋敷跡があり、今でもそのゆかりの場所がありますよ」と教えて頂きました。そこで、今回歩いてみることにしました。
最も近い駅は、京急鮫洲駅です。2階の駅改札口を出て、駅につながっている歩道橋で国道15号線を渡ると仙台藩下屋敷跡の公園が見えてきます。近くの高台には、なんと、土佐国高知藩主の山内豊信(容堂)の墓地がありました。
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容堂公は、多難な幕末期の幕政に大きな影響を与えたことで知られていますが、進歩的で強力な言動は幕閣に恐れを抱かれ、一時、大井村の下屋敷に蟄居させられていました。その後、再び政治の場に復し、大政奉還など幕府と朝廷の間の斡旋に力を尽くしました。維新後、新政府の内国事務総長となりますが、明治5年、45歳の若さで亡くなります。遺言により、大井村の下総山(土佐山)と呼ばれていた現地に葬られました。
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小道を挟み、隣に「仙台坂大井公園」があります。ここは、仙台藩下屋敷の一部で、その周りに広大な土地を有していました。案内板には、旧・越前鯖江藩間部家下屋敷跡とも書かれています。下屋敷は、元々幕府の土地なので、その後、移動をしたのかも知れません。周囲は高層マンションが立ち並んでいます。
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公園の木々も紅葉が始まっています。
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公園の片隅に仙台藩下屋敷跡の石碑が建てられています。
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公園を出て、品川方面に暫く歩くと、自動車専用の仙台坂トンネルが見えてきます。
歩行者用の道に入ると、「旧仙台坂(くらやみ坂)」という道標が建てられています。
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道標が置かれている近くに、「泊船寺」というお寺があります。永徳2年(1382年)に海中より出現した阿弥陀如来を本尊として、大庵龍光が開創したとされています。松尾芭蕉とも親交があったことから、境内に牛耕庵(泊船堂・芭蕉堂)を建てたと伝えられています。
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芭蕉の句碑も置かれています。犬がいたので、あまり近づけませんでした。
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「旧仙台坂(くらやみ坂)」を上がっていきます。先にこんもりとした緑が見えます。
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この木は、「仙台坂のタブノキ」と呼ばれているもので、品川区指定天然記念物になっていて、高さ20メートル、幹の周囲4.6メートルで、推定樹齢300年とされています。300年の樹齢とは思えないほど、勢いのある大樹です。仙台藩下屋敷の裏玄関に植えられていたといわれていて、今では唯一の証しとなっています。
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仙台坂を上がったところに大きな木造の建物があります。今回の旅の目的の一つ、「仙台味噌醸造所」です。ここは、仙台藩下屋敷の通称味噌屋敷と呼ばれていたところで、仙台藩から仙台味噌の技術、人をそのまま受け継いでいるところなのです。
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正式名称は、八木合名会社仙台味噌醸造所です。会社のホームページを読むと、伊達藩では、備蓄食料確保から寛永2年以来、味噌の醸造を行っていたそうです。江戸在勤の伊達藩士は当時3千人いて、江戸の甘い味噌は、東北武士の口に合わなかったため造り始めたのだそうです。
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折角なので、「五風十雨」(天然醸造仙台味噌)をお土産にしました。300グラムを量り売りしてもらいました。(撮影の許可をもらいました。)
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味噌樽も店頭に置かれています。
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今も仙台味噌醸造所の木造の建物で造られたお味噌は、仙台藩下屋敷の名と味を引き継いでいます。ぜひ、ご賞味ください。
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帰宅して早速、ビールのつまみに「味噌きゅうり」にしていただきました。辛口の仙台味噌がみずみずしいきゅうりに合って最高です!
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次回は、大井町から大田区山王の蘇峰公園に伺います。紅葉が綺麗でした!
仙台藩下屋敷の仙台味噌醸造所はこちらです。
日が沈んでから、ドライブがてら横浜山手、元町辺りを歩きました。
この建物は、山手十番館です。ウェディング姿の花嫁さんも見えました。
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えの木てい本店。
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エリスマン邸です。
日本の建築界に大きな影響を与えた「近代建築の父」と呼ばれたA.レーモンドの設計。横浜の絹糸貿易商シーベルヘグナー商会の支配人であったエリスマン氏の私邸として大正15年(1926年)に山手127番地に建築されました。
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べーリック・ホールです。
イギリス人貿易商B.R.ベリック氏の私邸として、J.H.モーガンの設計により昭和5年(1930年)に建てられました。スパニッシュスタイルを基調とし、戦前の西洋館としては、最大規模を誇る、建築学的にも価値ある建物です。
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山手資料館。
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元町通りに行きましたが、7時過ぎになるとお店もほとんどシャッターが下りています。少し寂しい感じです。
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中華街に行きます。こちらは賑やかです。
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夕食は、創業1951年の老舗、中国粥専門店の「謝甜記」に入ります。15分ほど並びました。何しろ、4時間かけてつくる中国粥は一度食べると癖になります。
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エビシュウマイです。450円也。
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三鮮粥です。中には、イカやサザエなどの海鮮が入っています。810円也。
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おしまい
場所はこちらです。
逗子駅から出発し、名越切通から松葉ケ谷を通り、漸く鎌倉駅に着きました。
折角、鎌倉まで来たので、午後は、3つ目の切通し「極楽寺坂切通」まで歩くことにします。
鎌倉駅近くには、毎日獲れたての新鮮な鎌倉野菜を手頃な価格で買うことができる「鎌倉市農協連即売所」があります。通称「レンバイ」と言われているところです。
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鎌倉野菜だけではありません。奥に入ると、狭い路地に海産物、パン屋、ケーキ屋、喫茶店、居酒屋なども建ち並んでいて見ているだけでも楽しめます。
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ここでは、トマト、小松菜、ほうれん草等、季節ごとに獲れたての旬野菜が揃っています。近所の主婦から一流レストランのシェフまで多くの人々が訪れる人気スポットとなっています。
鎌倉野菜の第一印象はとてもカラフルなこと。イタリアンの食材に合う野菜が揃いそうですね。
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愛真紅(あいしんく)という名前の紅カブはレンバイの人気野菜の一つです。
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不思議なことに、普通の野菜も鎌倉野菜に見えてきます。
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この野菜も初めて見ました。紫奏子(むらさきそうし)という名前の白菜。サラダ白菜の仲間です。
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「鎌倉しふぉん」というケーキ屋さんも人気のお店。テイクアウトはもちろんのこと、お店の中で食べることもできます。
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とても賑やかな鎌倉駅東口前を素通りして、横須賀線のガードを潜り、鎌倉駅西口に出ます。江ノ電の駅舎がある方です。
ここから、御成町の商店街、由比ケ浜の通りを抜け、極楽寺坂切通を目指します。
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由比ケ浜から長谷に向かう途中で「鎌倉文学館」に入りました。
鎌倉文学館は、鎌倉にゆかりのある文学者の川端康成、夏目漱石、芥川龍之介、与謝野晶子たちの直筆の原稿などが展示されているところです。庭園もあって、四季折々の植物も見ることができます。
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ちょうど今、特別展「ビブリア古書堂の事件手帖」(三上延さん著)が開催されているところです。私も読み始めたところなので興味があり入ってみました。
「ビブリア古書堂の事件手帖」は、北鎌倉が舞台の人気ミステリー小説で、この特別展では、小説に登場する場所やスポットのモデルと思われる所を地図入りで紹介しています。愛読者らしい人達でとても賑わっています。
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現在の鎌倉文学館の建物は、1890年頃に伯爵の前田利嗣の鎌倉別邸として建築された建物が火事で焼失したため、1936年に洋風として全面改築した建物です。戦後は、元内閣総理大臣の佐藤栄作氏の別荘として使用されていた時期もあるそうです。国の登録有形文化財に指定されています
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鎌倉文学館を出て、由比ガ浜の海岸に出ることにします。途中の踏切で江ノ電を撮ります。
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これは、新しいモデルかな。少し丸みを帯びていますね。
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由比ガ浜の海岸に到着です。すでに夕方。あいにく雲がかかっています。晴れていれば富士山も撮れるはずだったんですが・・・。
鎌倉の海岸と富士山の写真は、亀楽さん(ブロ友さん)の写真を楽しみにしたいと思います。
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極楽寺坂切通に差し掛かる道角に、何やら「夫婦饅頭」の看板に「老舗 力餅屋」の暖簾がかかったお店があります。後で調べたところ、「リピ必至!」、食べログ4.5の和菓子屋さんなのでした。一番の売れ筋は「力餅」というあんこが乗った御餅なんですが、とにかく美味しいと評判のお店だそうです。昔ながらの赤い郵便ポストは少し背が低くて可愛らしいですね。
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極楽寺坂へ通じる道に入ると、右側に「星月井」という石碑があります。名の由来としては、昔、このあたりは昼でも薄暗く、星の影が映っていたためという伝説に基づくもので、ある時、近くに住む女が誤って包丁を井戸に落として以来、星の影が見えなくなってしまったと伝えられています。慶長5年(1600年)に徳川家康が京都からの帰り道に鎌倉を通った際に、この井戸を見たということから知れわたることになったそうです。
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この井戸の上には虚空蔵堂があります。行基が虚空蔵法の修行をしているときに、この井戸が光り輝いていたので、井戸の水を汲みだしたところ、中から黒光りした石が現れたので、それを祀ったと伝わっています。
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ここが極楽寺坂切通です。極楽寺坂切通は、京を結ぶ街道として使われていました。これまでの切通と異なり、幅も広く、当時から街道として機能していたことが分かります。
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岩肌は見るからに堅そうですね。
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極楽寺坂切通の中央まで来ると、右側に「極楽寺坂」という石碑が現れます。
鎌倉幕府の最後、北条氏滅亡の時です。新田義貞は自ら2万騎を率いてやってきますが、極楽寺一帯は、北条軍が強固な陣を構え、海上にも大船を浮かべ、一部の隙も無かったといわれています。幾度となく、両軍は攻防を繰り返し、多数の死者が出ました。新田義貞は、極楽寺坂の突破をあきらめ、稲村ケ崎の海岸沿いからの攻略に切り替えざるを得なかったといわれています。
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極楽寺は、鎌倉唯一の真言律宗のお寺で、建立は、北条義時の三男の重時です。当時、地獄谷に呼ばれていた地に造営をはじめますが、工事半ばで重時は亡くなり、その子の長時と業時が父の意志を引き継ぎ完成させます。その後、忍性が招かれ開山となります。忍性はこの広大な境内に慈善救済の大事業を営み、多数の病者を収容し、貧者には無料で加療をしました。また、橋や道などの土木工事も行ったといわれています。その後、1333年に新田義貞の鎌倉攻めの際の戦火で焼失しています。現存の伽藍や山門は、文久3年(1863年)の建立となっています。境内の中は、撮影禁止とされています。
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極楽洞(トンネル)から江ノ電が出てきたところを撮りました。
極楽洞は、極楽寺駅と長谷駅の間にある全長200メートルのトンネルです。1906年(明治40年)に竣工しています。
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極楽寺駅から江ノ電に乗り、鎌倉経由で帰ることにします。
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おしまい
鎌倉駅から極楽寺坂切通を抜け、極楽寺駅までのルートはこちらです。
横須賀線の踏切から名越切通を振り返ります。樹木に隠れ切通は見えません。
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ここから、松葉ケ谷の安国論寺と妙法寺をお詣りし、鎌倉に出ようと思います。
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安国論寺に着きました。安国論寺の開山は日蓮といわれています。安房の小湊で布教活動を進めた日蓮が、地頭との確執により退去して、鎌倉で最初に結んだ松葉ヶ谷の草庵の跡と伝えられています。 同様の寺伝は妙法寺と長勝寺にもあります。
安国論寺にはさらに日蓮が前の執権の北条時頼に提出した『立正安国論』を執筆したという伝説もあります。
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季節の花が咲く参道を通ると本堂(祖師堂)に至ります。江戸時代に2回ほど再建されていますが、1961(昭和36)年に火災で焼失。その後、さらに再建されました。
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山号を妙法華経山、寺号を安国論寺といいます。本堂には釈迦如来像や日蓮上人座像が安置されています。
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本堂の前には、白い山茶花が咲いていました。
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日蓮が前の執権の北条時頼に『立正安国論』を提出したため、松葉ケ谷焼討の難に遭い、安国論寺の南面窟に避難したとされています。その場所がこの岩窟です。
その後、日蓮は、山王大権現の使いの白猿に導かれ、逗子市の法性寺(第一回目で紹介)の奥ノ院の岩窟、猿畠まで赴いたという伝説が残っています。
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山腹の細い道を上がっていくと、鐘楼があります。
注意書きには「鐘は定刻に撞きますので勝手に撞きませんようにお願いします」とあります。
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撞木(鐘をつく棒)にシールが貼ってありました。よく見ると「ナムシステム」と書かれています。気になったので、後でインターネットで検索したところ、「全自動撞木」という製品名だということが分かりました。「ナム(南無)システム」のネーミングは、なかなかです。(笑)
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安国論寺の山門を出ると、「妙法寺道」の道標が目に入ります。
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3分ほど歩くと、松葉ケ谷妙法寺の入口が見えてきます。
妙法寺の創建は、日蓮が松葉ヶ谷草庵を結んだ1253年、開山は日蓮ということになります。しかし、実質的に寺格を整備したのは後醍醐天皇の子、倒幕の雄として非業の最期を遂げた護良親王の子、日叡です。山号には、自身の幼名の楞厳丸(りょうごんまる)としています。日叡、護良親王の墓所も境内にあります。
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松葉ケ谷妙法寺は苔が美しいお寺で、「苔寺」という名称で知られています。
受付で拝観料を納めると、その場でお香が手渡されます。それを持って本堂でお参りします。
緑に囲まれた参道を進むと本堂が見えてきます。現存している本堂は、肥後細川家が江戸時代に建造したもので、天井の格子や板戸の画などは当時のままと伝えられています。
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仁王門は、苔の石段の手前に位置します。歴史を感じさせる朱色は、江戸時代、第11代将軍徳川家斉を迎えるために塗られたと言われています。 
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左手から進むと、薩摩屋敷事件戦没者の墓があります。
幕末慶応三年、江戸の薩摩屋敷焼討事件で戦死した薩摩と幕府双方の遺骨が納められているそうです。
もともと、江戸芝三田の薩摩藩島津家屋敷跡にあった妙法寺の支院である清正公堂にあったものが、1995年にここに移されたのだそうです。
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最近建てられたのでしょうか、名越家の供養塔が建てられていました。名越切通と関係があるのでしょうか。
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本堂を通り過ぎて仁王門をくぐると目の前に現れる苔の石段は、都会の喧騒を忘れさせてくれます。ただし、苔の美しい時期は梅雨の頃だそうです。 
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さらに石段を上がります。(こちらの石段は上がれますが、その前の苔むした石段は上がれません)
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登りきった右手に法華堂があります。
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日叡上人の父、護良親王の墓があります。護良親王の墓は二階堂にもあります。
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ここからは、鎌倉の街並みと稲村ケ崎が見えます。
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続く
松葉ケ谷妙法寺はこちらです。