横須賀線の踏切から名越切通を振り返ります。樹木に隠れ切通は見えません。
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ここから、松葉ケ谷の安国論寺と妙法寺をお詣りし、鎌倉に出ようと思います。
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安国論寺に着きました。安国論寺の開山は日蓮といわれています。安房の小湊で布教活動を進めた日蓮が、地頭との確執により退去して、鎌倉で最初に結んだ松葉ヶ谷の草庵の跡と伝えられています。 同様の寺伝は妙法寺と長勝寺にもあります。
安国論寺にはさらに日蓮が前の執権の北条時頼に提出した『立正安国論』を執筆したという伝説もあります。
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季節の花が咲く参道を通ると本堂(祖師堂)に至ります。江戸時代に2回ほど再建されていますが、1961(昭和36)年に火災で焼失。その後、さらに再建されました。
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山号を妙法華経山、寺号を安国論寺といいます。本堂には釈迦如来像や日蓮上人座像が安置されています。
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本堂の前には、白い山茶花が咲いていました。
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日蓮が前の執権の北条時頼に『立正安国論』を提出したため、松葉ケ谷焼討の難に遭い、安国論寺の南面窟に避難したとされています。その場所がこの岩窟です。
その後、日蓮は、山王大権現の使いの白猿に導かれ、逗子市の法性寺(第一回目で紹介)の奥ノ院の岩窟、猿畠まで赴いたという伝説が残っています。
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山腹の細い道を上がっていくと、鐘楼があります。
注意書きには「鐘は定刻に撞きますので勝手に撞きませんようにお願いします」とあります。
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撞木(鐘をつく棒)にシールが貼ってありました。よく見ると「ナムシステム」と書かれています。気になったので、後でインターネットで検索したところ、「全自動撞木」という製品名だということが分かりました。「ナム(南無)システム」のネーミングは、なかなかです。(笑)
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安国論寺の山門を出ると、「妙法寺道」の道標が目に入ります。
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3分ほど歩くと、松葉ケ谷妙法寺の入口が見えてきます。
妙法寺の創建は、日蓮が松葉ヶ谷草庵を結んだ1253年、開山は日蓮ということになります。しかし、実質的に寺格を整備したのは後醍醐天皇の子、倒幕の雄として非業の最期を遂げた護良親王の子、日叡です。山号には、自身の幼名の楞厳丸(りょうごんまる)としています。日叡、護良親王の墓所も境内にあります。
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松葉ケ谷妙法寺は苔が美しいお寺で、「苔寺」という名称で知られています。
受付で拝観料を納めると、その場でお香が手渡されます。それを持って本堂でお参りします。
緑に囲まれた参道を進むと本堂が見えてきます。現存している本堂は、肥後細川家が江戸時代に建造したもので、天井の格子や板戸の画などは当時のままと伝えられています。
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仁王門は、苔の石段の手前に位置します。歴史を感じさせる朱色は、江戸時代、第11代将軍徳川家斉を迎えるために塗られたと言われています。 
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左手から進むと、薩摩屋敷事件戦没者の墓があります。
幕末慶応三年、江戸の薩摩屋敷焼討事件で戦死した薩摩と幕府双方の遺骨が納められているそうです。
もともと、江戸芝三田の薩摩藩島津家屋敷跡にあった妙法寺の支院である清正公堂にあったものが、1995年にここに移されたのだそうです。
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最近建てられたのでしょうか、名越家の供養塔が建てられていました。名越切通と関係があるのでしょうか。
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本堂を通り過ぎて仁王門をくぐると目の前に現れる苔の石段は、都会の喧騒を忘れさせてくれます。ただし、苔の美しい時期は梅雨の頃だそうです。 
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さらに石段を上がります。(こちらの石段は上がれますが、その前の苔むした石段は上がれません)
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登りきった右手に法華堂があります。
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日叡上人の父、護良親王の墓があります。護良親王の墓は二階堂にもあります。
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ここからは、鎌倉の街並みと稲村ケ崎が見えます。
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続く
松葉ケ谷妙法寺はこちらです。