逗子駅から出発し、名越切通から松葉ケ谷を通り、漸く鎌倉駅に着きました。
折角、鎌倉まで来たので、午後は、3つ目の切通し「極楽寺坂切通」まで歩くことにします。
鎌倉駅近くには、毎日獲れたての新鮮な鎌倉野菜を手頃な価格で買うことができる「鎌倉市農協連即売所」があります。通称「レンバイ」と言われているところです。
鎌倉野菜だけではありません。奥に入ると、狭い路地に海産物、パン屋、ケーキ屋、喫茶店、居酒屋なども建ち並んでいて見ているだけでも楽しめます。
ここでは、トマト、小松菜、ほうれん草等、季節ごとに獲れたての旬野菜が揃っています。近所の主婦から一流レストランのシェフまで多くの人々が訪れる人気スポットとなっています。
鎌倉野菜の第一印象はとてもカラフルなこと。イタリアンの食材に合う野菜が揃いそうですね。
愛真紅(あいしんく)という名前の紅カブはレンバイの人気野菜の一つです。
不思議なことに、普通の野菜も鎌倉野菜に見えてきます。
この野菜も初めて見ました。紫奏子(むらさきそうし)という名前の白菜。サラダ白菜の仲間です。
「鎌倉しふぉん」というケーキ屋さんも人気のお店。テイクアウトはもちろんのこと、お店の中で食べることもできます。
とても賑やかな鎌倉駅東口前を素通りして、横須賀線のガードを潜り、鎌倉駅西口に出ます。江ノ電の駅舎がある方です。
ここから、御成町の商店街、由比ケ浜の通りを抜け、極楽寺坂切通を目指します。
由比ケ浜から長谷に向かう途中で「鎌倉文学館」に入りました。
鎌倉文学館は、鎌倉にゆかりのある文学者の川端康成、夏目漱石、芥川龍之介、与謝野晶子たちの直筆の原稿などが展示されているところです。庭園もあって、四季折々の植物も見ることができます。
ちょうど今、特別展「ビブリア古書堂の事件手帖」(三上延さん著)が開催されているところです。私も読み始めたところなので興味があり入ってみました。
「ビブリア古書堂の事件手帖」は、北鎌倉が舞台の人気ミステリー小説で、この特別展では、小説に登場する場所やスポットのモデルと思われる所を地図入りで紹介しています。愛読者らしい人達でとても賑わっています。
現在の鎌倉文学館の建物は、1890年頃に伯爵の前田利嗣の鎌倉別邸として建築された建物が火事で焼失したため、1936年に洋風として全面改築した建物です。戦後は、元内閣総理大臣の佐藤栄作氏の別荘として使用されていた時期もあるそうです。国の登録有形文化財に指定されています
。
鎌倉文学館を出て、由比ガ浜の海岸に出ることにします。途中の踏切で江ノ電を撮ります。
これは、新しいモデルかな。少し丸みを帯びていますね。
由比ガ浜の海岸に到着です。すでに夕方。あいにく雲がかかっています。晴れていれば富士山も撮れるはずだったんですが・・・。
鎌倉の海岸と富士山の写真は、亀楽さん(ブロ友さん)の写真を楽しみにしたいと思います。
極楽寺坂切通に差し掛かる道角に、何やら「夫婦饅頭」の看板に「老舗 力餅屋」の暖簾がかかったお店があります。後で調べたところ、「リピ必至!」、食べログ4.5の和菓子屋さんなのでした。一番の売れ筋は「力餅」というあんこが乗った御餅なんですが、とにかく美味しいと評判のお店だそうです。昔ながらの赤い郵便ポストは少し背が低くて可愛らしいですね。
極楽寺坂へ通じる道に入ると、右側に「星月井」という石碑があります。名の由来としては、昔、このあたりは昼でも薄暗く、星の影が映っていたためという伝説に基づくもので、ある時、近くに住む女が誤って包丁を井戸に落として以来、星の影が見えなくなってしまったと伝えられています。慶長5年(1600年)に徳川家康が京都からの帰り道に鎌倉を通った際に、この井戸を見たということから知れわたることになったそうです。
この井戸の上には虚空蔵堂があります。行基が虚空蔵法の修行をしているときに、この井戸が光り輝いていたので、井戸の水を汲みだしたところ、中から黒光りした石が現れたので、それを祀ったと伝わっています。
ここが極楽寺坂切通です。極楽寺坂切通は、京を結ぶ街道として使われていました。これまでの切通と異なり、幅も広く、当時から街道として機能していたことが分かります。
極楽寺坂切通の中央まで来ると、右側に「極楽寺坂」という石碑が現れます。
鎌倉幕府の最後、北条氏滅亡の時です。新田義貞は自ら2万騎を率いてやってきますが、極楽寺一帯は、北条軍が強固な陣を構え、海上にも大船を浮かべ、一部の隙も無かったといわれています。幾度となく、両軍は攻防を繰り返し、多数の死者が出ました。新田義貞は、極楽寺坂の突破をあきらめ、稲村ケ崎の海岸沿いからの攻略に切り替えざるを得なかったといわれています。
極楽寺は、鎌倉唯一の真言律宗のお寺で、建立は、北条義時の三男の重時です。当時、地獄谷に呼ばれていた地に造営をはじめますが、工事半ばで重時は亡くなり、その子の長時と業時が父の意志を引き継ぎ完成させます。その後、忍性が招かれ開山となります。忍性はこの広大な境内に慈善救済の大事業を営み、多数の病者を収容し、貧者には無料で加療をしました。また、橋や道などの土木工事も行ったといわれています。その後、1333年に新田義貞の鎌倉攻めの際の戦火で焼失しています。現存の伽藍や山門は、文久3年(1863年)の建立となっています。境内の中は、撮影禁止とされています。
極楽洞(トンネル)から江ノ電が出てきたところを撮りました。
極楽洞は、極楽寺駅と長谷駅の間にある全長200メートルのトンネルです。1906年(明治40年)に竣工しています。
極楽寺駅から江ノ電に乗り、鎌倉経由で帰ることにします。
鎌倉駅から極楽寺坂切通を抜け、極楽寺駅までのルートはこちらです。