東慶寺を後にし、今回は、紅葉の浄智寺、長寿寺を巡り、鎌倉七口の一つの「亀ケ谷坂切通」を歩きます。
浄智寺は、東慶寺と山を挟んで隣に位置しています。参道入口の石橋のほとりにある湧水は、「甘露の井」と呼ばれる鎌倉十井の一つとして名高いものです。湧水の池には大きな鯉が泳いでいました。
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「甘露の井」の脇を通り、鎌倉時代の石段を上ります。黄葉した銀杏が見事です。
浄智寺は、鎌倉山ノ内の禅宗の寺院で、臨済宗円覚寺派に属します。鎌倉五山の第4位で、山号を「金宝山」と称します。古刹の雰囲気を楽しむことができるお寺です。
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浄智寺が創建された13世紀の終わりごろの鎌倉は、北条氏の勢力がきわめて盛大で禅宗が最も栄えた時期です。執権として有名な北条時頼の三男宗政が29歳の若さで弘安4年(1281年)に歿していますが、間もなく、無宗政夫人が一族の助けを得て寺を起こし、亡夫と幼少の師時を開基にしたものと考えられます。
石段を上がると、2階部分が鐘楼となっている三門が現れます。
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江戸時代になると、鎌倉は農漁村になって、さびれ、寺院の多くはしだいにかつての繁栄ぶりを失います。さらに、多くの建物が大正12年の関東大震災で大打撃を受けてしまいます。新しく造られた仏殿の雲華殿。
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仏殿の裏手には、茅葺きの素朴な造りの書院があります。非公開ですが、お庭から見ることができます。
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内庭の隧道を腰をかがめて抜けると、その先の洞窟に布袋様が祀られています。鎌倉・江ノ島七福神にもなっています。お腹をさすると元気がでてきます。
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浄智寺を後に、今回の目的の一つである「亀ヶ谷坂切通」を歩きます。「亀ヶ谷坂切通」の目印は、長寿寺の角を折れることです。下のように道標がありますから見逃さないでしょう。
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長寿寺は、開基が足利尊氏となっていますが、実は尊氏の次子の関東管領の足利基氏が尊氏の供養のために建立したものです。
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長寿寺は、普段は公開されていません。この日も三門から撮影しました。とても美しい御庭です。
公開は、4~6月と10~11月の金・土・日・祝のみ拝観可能で雨天中止とされています。
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この写真は、亀ヶ谷坂切通につながる小道から撮ったものです。
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亀ケ谷坂切通です。路面はコンクリートで覆われており、当時の面影は余りありませんが、重要な街道としての雰囲気は感じることができます。
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国指定史跡の亀ヶ谷坂切通です。山ノ内と扇ガ谷を結ぶ重要な街道です。
この写真は、長寿寺の角から上がり、振り向いて撮ったものです。
鎌倉時代、北から鎌倉に入る道ははここだけとなっていたため、頼朝はこの道を通って鎌倉に入っていたものと思われます。
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この辺りが、亀ヶ谷坂切通のピークです。車止めがあるので車両は通り抜けできません。所説ありますが、「鶴岡」に対して「亀ケ谷」と名付けられたとも称されています。
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この写真は、亀ヶ谷坂切通のピークを越え、振り向いて撮ったものです。
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亀ヶ谷坂切通を抜けると、「海蔵寺岩船地蔵堂」が現れます。
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次回は、紅葉の海蔵寺を巡り、鎌倉七口を歩きます。(続く)
今回のルートは、こちらです。
駆け込み寺だったとして名高い松岡山 東慶寺は、弘安8年(1285年)、北条時宗夫人の覚山志道尼が創建しました。
女性の側から離婚できなかった封建時代、東慶寺は駆け込めば離婚できる女人救済のお寺として、明治に至るまで約600年間、縁切り寺法を守ってきたのです。
明治4年(1871年)廃仏毀釈によりこの寺法は廃止となり。明治35年(1902年)、尼寺としての歴史に幕を閉じました。
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江戸時代は、女性から夫に対して離婚を申し出ることは許されなかったので、夫と離婚したい女性は、この東慶寺に駆け込み、2~3年間、お経を読み、和裁などの修行により離婚を成立させていました。当時の東慶寺は、寺法による幕府承認の家庭裁判所のような機能をもっていたのです。
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ちなみに、1866年を例にとると、1年間で42名の女性による駆け込みがあったという文書が残っているそうです。駆け込んだ女性たちの平均年齢は29歳。1度修行を積んで離婚した女性は別の男性と再婚することも可能でした。
当時の駆け込み寺の様子は、井上ひさしさんの小説「東慶寺花だより」に描かれています。この小説は映画化もされていて、題名は「駆込み女と駆出し男」。大泉洋・戸田恵梨香・満島ひかり等が出演しています。先日、DVDで観ましたが、縁切寺の雰囲気も描かれていて、何しろドタバタで面白かったですよ。
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沿革に触れますと、時代は遡りますが、後醍醐天皇の皇女、用堂尼(~1396年)が5世住職となって以降、東慶寺は「松ケ岡御所」と称されるようになります。弟の護良親王が鎌倉に幽閉され、非業の死を遂げた後、用堂尼はその菩提を弔うために東慶寺に入り、尼宮になったと伝えられています。
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20世住職の天秀尼(1608~1645年)は、豊臣秀頼の娘(豊臣秀吉の孫)です。大阪落城後、徳川家康の命によって、家康の孫であり、秀頼の正室・千姫の養女として、僅か7歳で東慶寺に入寺しました。それ以降、松ケ岡御所の寺格は一段と高くなります。また、天秀尼の願いもあり、江戸時代を通じて縁切寺法は維持されていきました。
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境内には、十月桜が咲いていました。東慶寺は、四季折々の花が楽しめるお寺としても知られています。
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また、紅葉も見ごろを迎えていました。
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現在は、古い縁や過去の想いを断ち切ることで、良縁を結ぶことができるというパワースポットとして有名になっているようです。
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次回は「浄智寺」をご紹介します。
12月10日、14時 国際航海の船員を目指す実習生111名を乗せた帆船「日本丸二世」が、ハワイを目指す60日間の航海に向けて横浜港を出航しました。
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日本丸の後継として、1984年(昭和59年)に日本丸II世が就航しました。日本丸II世(この後は日本丸と呼びます)は帆装艤装設計から製作まで、すべて日本国内で行われた初の大型帆船です。姉妹船として海王丸があります。(※海王丸は以前このブログでも紹介したことがあります)
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日本丸の出発式は、横浜港の新港ふ頭第5バースで行われました。隣には、海上保安庁の建物があります。
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式典は、日本丸の甲板後方で行われました。
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式典では、関係者の挨拶が行われていました。実習生の皆さんの顔も引き締まっています。
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乗組員は、船長、機関長ほか48名います。乗組員もご家族としばらく離れることになるので、ご挨拶されているのでしょうか。微笑みながらお話しされているのが印象的でした。視線の先には・・・
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ご家族でしょうか、バースから写真を撮られているようです。
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日本丸の船首像は、手を合わせて祈る女性の姿をしており、「藍青(らんじょう)」と名付けられています。
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日本丸の出航のために、横浜港の近くにある市立中学校ブラスバンドが駆け付けてくれていました。中学生の皆さんは、ぎりぎりまで真剣に練習されていました。頭には、サンタの帽子です。
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演奏の途中で、指揮者(ブラスバンド部の担当教員)の方からもメッセージがありました。その中で、「私の父親も日本丸の乗組員でした。この場に呼んでいただいて縁を感じます」という言葉が印象的でした。
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演奏が終わる毎に、実習生の皆さんも大きな拍手を送っていました。
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さぁー、いよいよ出航の時間となりました。命令がかかり、一斉に碇を上げます。
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出航に際して、見送りに来られた方々に一堂礼。
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合図により、一斉にマストの上まで登り始めます。
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4檣バーク型帆船で、総帆数は36枚(横帆18枚、縦帆18枚)、メインマスト高は43.5 m(船楼甲板からの高さ)に達するそうです。東京湾のレインボーブリッジは、本船の通航を想定して設計されたと言われています。
全実習生がマストに上がり、登しょう礼(帆船最高の儀礼)をはじめます。
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バウスブリットの先にいる実習生の一人が大きな声で「ごきげんよう」と、発すると、マストにいる実習生全員も「ごきげんよう」と声を合わせ、見送りに来た方々に最後の御礼の挨拶をしました。
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碇が上がり、出航です。
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タグボート「さくら」に曳航されながら、日本丸は進行方向を変えます。
乗組員全員がふ頭に向き、一列になって手を振ります。帆船は、汽笛を鳴らしながら横浜港を後にしました。近くにいる大型船からも、それに応えるように汽笛が鳴り響きます。バースでは、中学校のブラスバンドの演奏で「蛍の光」が流れていました。
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おしまい
臨済宗建長寺派大本山 建長寺
建長寺は、巨福山建長興国禅寺といい、鎌倉五山の第一位のお寺です。今から約760年前建長5年(1253年)に鎌倉幕府五代執権北条時頼が建立した我が国最初の禅寺です。この建物は、総門です。巨福門(こふくもん)ともいいます。
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三門(重要文化財)
これは、三門建立の時に、この寺で育てられた古狸がその恩義に報いようとして僧侶の姿に身を変えて住職の化縁を助けて大活躍したという言い伝えによるものです。
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柏槇(びゃくしん)(名勝史跡)
創建当時から760年もの歳月と幾度かの火災を生き抜いてきた貴重なものです。大覚禅師の御手植えと言われています。
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仏殿(重要文化財)
当時の本尊地蔵菩薩を安置し、法要を行うお堂です。
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法堂(はっとう)
法堂とは、住職が仏に代わって須弥壇(しゅみだん)上で説法するためのお堂です。
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法堂の天井画 雲流図(小泉淳作)
平成15年横河電機の寄進(画像はお借りしています)
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唐門(勅使門・重要文化財)
唐門とは、屋根が唐破風になっている門のことです。
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庭園(名勝史跡)
方丈(龍王殿)にあり、大覚禅師の作庭で貴賓を応接するための禅寺を象徴する日本最古の禅庭園です。江戸時代に改修されています。
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半僧坊に向かいます。手前のピンク色の花は、ヒメツルソバです。
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半僧坊
境内奥の山の中腹にあります。建長寺の鎮守・半僧坊大権現が祀られています。ここからは、相模湾や富士山も眺望できる絶景の地です。
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続く
建長寺はこちらです。https://goo.gl/maps/3bGnTahoKd82
源頼朝が鎌倉に幕府を開いた最大の理由は、一方は海を臨み、三方は山に囲まれて、敵の攻撃を守る自然の軍事的要害があることでした。しかし、人々の生活に必要な物資や人の往来のための最小限の道も必要でした。そのため鎌倉幕府は各地を結ぶために7つの道をつくりました。それを「切通」と言います。
今回は、北鎌倉を起点に史跡を巡り、7口の切通をご紹介いたします。
まずは、紫陽花で有名な「明月院」から参ります。
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明月院の創建は、今から850年前の永暦元年(1160年)にはじまります。この地の武将で平治の乱で戦死した山内首藤俊通の菩提供養のため、俊通の子、山内首藤経俊によって創建されました。
その百年後、康元元年(1256年)、鎌倉幕府第5代執権北条時頼公によって「西明寺」として建立されました。時頼は30歳で出家、37歳で亡くなります。
その後、足利三代将軍義満転化の時、明月院として改め、今日に至ります。
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明月院のやぐら
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開山堂
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北条時頼公墓所
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枯山水庭園
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本堂の方丈の円窓を撮るために行列ができています。
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この窓が「悟りの窓」と聞いて、私も行列に並ぶことにしました。
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境内にある建物の屋根を走る野生のリス。餌付けされています。
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山門を出て、建長寺に向かいます。
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続く
明月院はこちら https://goo.gl/maps/PG8VNZdYZ6x