駆け込み寺だったとして名高い松岡山 東慶寺は、弘安8年(1285年)、北条時宗夫人の覚山志道尼が創建しました。
女性の側から離婚できなかった封建時代、東慶寺は駆け込めば離婚できる女人救済のお寺として、明治に至るまで約600年間、縁切り寺法を守ってきたのです。
明治4年(1871年)廃仏毀釈によりこの寺法は廃止となり。明治35年(1902年)、尼寺としての歴史に幕を閉じました。
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江戸時代は、女性から夫に対して離婚を申し出ることは許されなかったので、夫と離婚したい女性は、この東慶寺に駆け込み、2~3年間、お経を読み、和裁などの修行により離婚を成立させていました。当時の東慶寺は、寺法による幕府承認の家庭裁判所のような機能をもっていたのです。
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ちなみに、1866年を例にとると、1年間で42名の女性による駆け込みがあったという文書が残っているそうです。駆け込んだ女性たちの平均年齢は29歳。1度修行を積んで離婚した女性は別の男性と再婚することも可能でした。
当時の駆け込み寺の様子は、井上ひさしさんの小説「東慶寺花だより」に描かれています。この小説は映画化もされていて、題名は「駆込み女と駆出し男」。大泉洋・戸田恵梨香・満島ひかり等が出演しています。先日、DVDで観ましたが、縁切寺の雰囲気も描かれていて、何しろドタバタで面白かったですよ。
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沿革に触れますと、時代は遡りますが、後醍醐天皇の皇女、用堂尼(~1396年)が5世住職となって以降、東慶寺は「松ケ岡御所」と称されるようになります。弟の護良親王が鎌倉に幽閉され、非業の死を遂げた後、用堂尼はその菩提を弔うために東慶寺に入り、尼宮になったと伝えられています。
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20世住職の天秀尼(1608~1645年)は、豊臣秀頼の娘(豊臣秀吉の孫)です。大阪落城後、徳川家康の命によって、家康の孫であり、秀頼の正室・千姫の養女として、僅か7歳で東慶寺に入寺しました。それ以降、松ケ岡御所の寺格は一段と高くなります。また、天秀尼の願いもあり、江戸時代を通じて縁切寺法は維持されていきました。
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境内には、十月桜が咲いていました。東慶寺は、四季折々の花が楽しめるお寺としても知られています。
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また、紅葉も見ごろを迎えていました。
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現在は、古い縁や過去の想いを断ち切ることで、良縁を結ぶことができるというパワースポットとして有名になっているようです。
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次回は「浄智寺」をご紹介します。