金沢街道(六浦道)の最終回です。前回の瑞泉寺を後に、二階堂、雪ノ下と閑静な住宅街を歩き、鶴岡八幡宮まで巡ります。
鎌倉宮テニスクラブのコートの脇に建つこの石碑は「永福寺(ようふくじ)跡」の碑です。


永福寺は、1192年(建久3年)、源頼朝が奥州平泉の中尊寺や毛越寺を模して建てた壮大な寺院でした。弟源義経と奥州藤原氏の霊魂を鎮めるために建立したといわれていますが、それとともに頼朝自身の権勢を世に知らしめるためだともいわれています。跡地は国の指定史跡となっていて、本堂の「二階堂」の名は地名として残されています。

二階堂の住宅街をしばらく歩き、幕府遺跡の上に建つ清泉小学校の角を曲がると細長い階段が見えてきます。源頼朝のお墓です。
1198年(建久9年)12月27日、「相模川の橋供養」の帰りに落馬し、それが原因で53歳で死去したとされています。相模川の橋は稲毛重成が亡き妻(北条政子の妹)の供養のために架けたものでした。この稲毛重成の墓は、以前このブログでもご紹介したことのある川崎市多摩区枡形の「廣福寺」にあります。

墓石の供物台を見ると、薩摩藩島津家の「丸に十字」の家紋が見えます。
この多層塔(源頼朝墓)は1779年(安永8年)に薩摩藩の島津重豪(しまずしげひで)が建てたものです。

頼朝の墓を建てた島津重豪は、先祖の島津忠久が頼朝の子ともいわれ、反感を抱かれていた江戸幕府に対し、頼朝の墓を建てることで、その「家柄」を示したといわれています。頼朝の墓の山裾には、島津重豪が源頼朝墓とともに整備した島津忠久の墓があります。
今なお頼朝公墓前祭(4月13日)には、島津家ご当主が出席しています。歴史が今もつながっていることを感じました。
また、島津忠久の墓の横には、頼朝の側近として鎌倉幕府を支えた大江広元(政所別当)の墓があります。大江広元の末裔には、毛利元就がいます。

源頼朝墓の東側の山の中腹に並ぶ三つの「やぐら」は、中央が大江広元、左がその子で毛利氏の祖となる毛利季光、右が源頼朝の子ともいわれる島津忠久の墓。(お借りしました)![]() |
江戸時代に鎌倉の観光名所として定められた鎌倉十橋の一つ「筋替橋」。
名前の由来は、橋が「く」の字に架かっていたためといわれています。

ようやく鶴岡八幡宮に着きました、金沢街道のゴールです。3代将軍の源実朝を暗殺した公暁が隠れていたという伝説から「隠れ銀杏」とも呼ばれていた鶴岡八幡宮の大銀杏は有名ですが、平成23年3月10日未明に強風により倒れてしまいました。手前に無残にも切断された大木が残されています。階段の脇に見えるのが大銀杏から移植された幹です。うまく根付いたようで、元気に育っています。

鶴岡八幡宮の参道若宮大路は、頼朝が妻政子の安産祈願のため造営させたと伝わっています。その中央に一段高く造られたのが「段葛」です。段葛は鎌倉時代の数少ない遺構として残されています。この間、修復が行われていましたが、2016年(平成28年)3月30日に竣工しています。

賑やかな鎌倉・小町通を通って鎌倉駅に向かいます。

鎌倉駅に到着です。ご覧いただきありがとうございました。

