京浜急行線で横須賀の按針塚駅まで来ました。これから三浦按針ことウィリアム・アダムスのお墓のある塚山公園を経て、三浦半島最高峰の大楠山を登り、半島の裏側の荒崎公園を巡り、京急三崎口駅まで歩く三浦半島横断のウォーキングにでかけます。
按針塚駅を下り、しばらく住宅街の坂道を上ると塚山公園に到着します。桜の名所の塚山公園からは横須賀の軍港が一望できます。何隻もの軍艦が碇泊しています。
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塚山公園をさらに上がるとウィリアムアダムズ夫妻の慰霊碑が見えてきます。
1902年(明治35年)に日英同盟が結ばれるとアダムスの事績が注目されるようになり、江戸期に建てられていた按針塚の改修が行われ、1906年(明治39年)に現在の塚山公園の原型が誕生したと伝えられています。
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慰霊碑の横の階段を上がると、ウィリアム・アダムズ夫妻の墓があります。
ウィリアム・アダムズ(日本名 三浦按針)は、1564年にイギリスのケント州に生まれ、慶長5年(1600年)に渡来、徳川家康に迎えられて、江戸に入り、造船・砲術・地理・数学等に業績を上げ、家康、秀忠の外交顧問となり日英貿易に貢献します。アダムスは、日本橋の名主の娘「ゆき」と結婚し、日本橋に屋敷を供ぜられます。また、与えられた逸見の領地は、250石といわれ、百姓も90人ほどいました。この身分は旗本クラスであり、ヨーロッパ人の殿様が存在していたということになります。そして、元和6年(1620年)、平戸で歿します。家康から浦賀にほど近い逸見に領地をもらい受けたのも、浦賀の開港にかかわりを持たせるためであったといわれています。
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大楠山登山口に入り、しばらく歩くと辻に道標やお地蔵さんが出迎えてくれます。弘化2年(1845年)に建てられた道標には、「諏訪の湯道これより3丁」と記されています。諏訪とは、この地の鎮守の諏訪社に由来しています。諏訪の湯とは、近くにある阿部倉温泉を指しているものと思われます。
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三浦半島のほぼ中央に日帰り温泉の「阿部倉温泉」があります。折角の機会ですが、これから大楠山頂を目指す所なので、今回は残念ながらパスです。
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整備されたハイキングコースを進みます。前方に見える山が三浦半島最高峰の「大楠山」です。近くにあるゴルフ場「葉山国際カンツリー俱楽部」の周囲を廻るようにして高度を上げていきます。
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三浦半島の最高峰の大楠山に無事登頂です。標高242m。頂上には360度パノラマの展望台があります。
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展望台から東京湾側を眺めると、眼下に横須賀港が広がり、その向こうに横浜みなとみないの高層ビル群が見えます。
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相模湾側を眺めます。霞がなければ伊豆半島がくっきりと見えるはずです。
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相模湾側の荒崎方面を望みます。これから向かう先です。
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なだらかな坂道を下り、国道134号線の大楠山入口に出ます。ここから三崎街道(134号線)沿いを歩き、ようやく荒崎海岸に到着しました。
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荒崎公園の磯で小休憩して、京浜急行の三崎口駅に向かいます。
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京浜急行の最南端の駅「三崎口駅」に着きました。これで三浦半島横断の旅を終えます。
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おしまい
今日は、初孫のハーフバースデイのプレゼントを買いにお台場のトイザらスにやってきました。あまり聞きなれないハーフバースデイとは、誕生6か月目の記念をお祝いするもので、外国から例によって持ち込まれたもののようです。皆さんはご存知でしたか。既に夕方近くでしたが、お台場まで来たので、久しぶりに佃島と月島まで足を延ばしました。築地方面からは佃大橋で隅田川を渡り佃島に入ります。
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下の写真は、昭和30年代のもので、上の写真と同じ方向から撮っています。佃大橋が完成する昭和39年まで隅田川をこの渡船で行き来していました。佃島を築造した天保2年(1644年)から320年に及ぶ歴史に幕を閉じたのです。
写真中央に「ALWAYS三丁目の夕日」の東京タワーが写っています。昭和31年当時、一日に60往復、1万6千人もの利用者があったそうです。
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昭和2年までは、有料の手漕ぎの渡船でしたが、それ以降は無料の曳船の渡船となり、それを記念して渡船場の佃一丁目と湊三丁目にそれぞれ石碑が建てられました。
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佃島渡船の石碑の近くに、劇作家の北條秀司氏による石碑があります。昭和32年に北條秀司氏が企画した芝居「佃の渡し」が新橋演舞場で公演されたことを記念して建てられたものです。
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渡船場の近くにある佃煮の天安本店。170年の歴史を刻む佃煮の老舗。
佃島は、徳川家康が江戸幕府を開くときに、かつて世話になった摂津国佃島(現大阪市西淀川区佃町)の漁民33人を江戸に呼びました。そして、石川島に近い島(浅瀬を埋め立てさせた)を居住地として与え、故郷の佃村にちなみ「佃島」と名付けました。海が荒れ、漁に出れない時や忙しい時期の保存食として小魚を塩辛く煮込んだものが「佃煮」の起源です。
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天安本店のほかに、佃源田中屋、丸久の老舗二軒が近くにあります。
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下の写真は昭和34年の大祭の様子です。
佃祭では、中央区の区民無形民俗文化財に指定されている「獅子頭」や八角形の神輿「八角神輿」の宮出し、神輿を船に乗せて氏子が地域をまわる「船渡御」が行われます。八角形の神輿は、東京都では住吉神社だけのもので、江戸時代の天保9年から現在まで用いられている貴重なものだそうです。
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住吉神社の例大祭(本祭は3年度)は毎年8月に行われています。住吉神社は、天保3年(1646年)に住吉三神、神功皇后、徳川家康の御心霊を奉遷祭祀したのが起源とされています。海運業をはじめ多くの人々から海上安全、渡航安全の守護神として信仰を集めています。
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佃島渡船の石碑の横に佃まちかど展示館があります。中には「獅子頭」や八角形の神輿「八角神輿」が保存されていて、ガラス越しに見ることができます。
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文政2年に作製された「獅子頭」。ガラス越しに撮影しました。
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赤い佃小橋から佃島渡船場の界隈を撮りました。突き当りは隅田川です。
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佃島公園の横に神社があります。鳥居は一つですが、波除稲荷神社と於咲稲荷神社の二つの神社が隣り合っています。
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佃公園から撮った写真。佃島の昔ながらの赤い佃小橋と船だまりの風景と、背景にある大川端リバーシティ21の超高層ビルが対照的です。
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街に灯りがつき始めた頃、月島に渡ってきました。月島は、明治25年(1892年)に埋め立てられたところです。当初、「築地」などと同様に「築島」と名付けられていましたが、やがて「月島」に変えられたと言われています。「月島」と言えばご存知、もんじゃ焼きストリートです。
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月島の西仲通りの交番はレトロな感じです。
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建物の1階は、もんじゃ屋さんに浸食されていますが、建物の上部をよく見ると以前、営んでいた店舗の屋号らしき文字が薄っすらと見えます。佃島と月島は、奇跡的に戦災を免れたため、往時の面影を色濃く残しています。多くの建物が大正末期から昭和初期に建てられた建物のようです。
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2軒長屋や4軒長屋の間を細長い路地が碁盤の目のようにあります。こうしたところに隠れたおもんじゃの有名店が軒を連ねているんです。
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席が空くのを路地で待ちながら、有名人が店に訪れた時の写真を眺めます。
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商店街のど真ん中にある「月島温泉」。実は天然温泉ではなく、普通の銭湯です。下町らしい雰囲気は漂います。通路の右側には、お肉屋さんがあります。
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隅田川沿いに建つ「月島スペインクラブ」。倉庫を改装して造られています。300年前の教会から移築した木製扉を開けると開放的な空間が広がっています。スペイン産の調度品でスパークリングワインやパエリアを味わうことができるとあって、女子会の人気が高い所のようです。毎週月曜日には、フラメンコの本格ライブも見られるそうです。1度、話のタネに行ってみようかな。
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気ままな散歩でございました。
佃島と月島はこの辺りです。
「津久井地方は、絹の一大市場である八王子に出荷され、売買されていたが、八王子商人に安く買いたたかれるのをきらい、文化年間から直接江戸へ送るようになった。甲州街道を避けて津久井道を使うようになったため、津久井道は江戸に向かう絹の道(シルクロード)として栄えたが、横浜開港とともに国の重要輸出品として横浜へ運ばれるようになり、さびれていったというのが従来の定説だった。しかし、近年、その記録や形跡がないことから、津久井道はシルクロードではなかったとする説が有力になっている。」(稲田郷土史会機関紙「あゆたか」)
だとしたら、津久井道とはどんな機能を持った「道」だったのでしょうか。
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そんな関心を抱いて、津久井道の唯一の宿場「登戸」界隈を歩くことにしました。JR登戸駅を下車し、小田急線の登戸駅のガードを潜り、レトロな細い繁華街を歩きます。この辺りは、川崎市の「登戸土地区画整理事業」の事業範囲に入っているため何年かすると消えて無くなってしまうエリアとされています。
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駅前の細い路地を100メートルほど歩くと、「北向地蔵と馬頭観音」があります。川崎歴史ガイドによりますと、「特別の御利益があると信じられ、子育て地蔵として親しまれてきた北向地蔵。また、馬の保護神として、登戸を中心に広い地域の人々によってつくられた馬道観音。共に江戸時代のもの。」と記されています。
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川崎歴史ガイドから、この道が「津久井道」と分かります。
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「北向地蔵と馬頭観音」の斜向かいに「石屋と石屋河岸」があります。「多摩川の水運と津久井道の便で大いに繁盛した吉沢石材店は、江戸後期からの店。伊豆や真鶴の石材は渡し場のすぐ下流にあった淀みから荷揚げされた。その船着き場を石屋河岸と呼んだ。」とされています。津久井道と多摩川は、様々な物を運ぶために相互にうまく活用されていたことが分かります。

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今も石材店は健在でした。右隅に見えるのが、南武線の踏切でその先に多摩川があります。
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この写真からも分かる通り、区画整理のため空地が点在しています。逆に区画整理されたところには真新しい高層の建物が立ち並び始めています。
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この登戸土地区画整理事業は、駅に至便なため、急速に市街化が進み、公共整備が追いつかず、環境悪化の課題が山積している地域を解決する手法として進められてきました。昭和63年から始められて、予定では平成38年で生まれ変わるとされています。約40年間かかる事業なんですね。その中心を通るのが「津久井道」です。この先、歴史の証人である史跡はどうなっていくのか心配です。
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「登戸宿と柏屋」の歴史ガイドがあります。「登戸は小杉や溝ノ口に比べ、居酒屋や煮売屋などの多い盛り場的な賑わいの宿だったようで、旅人を泊めた柏屋は明治の末には、料理屋を兼ねるようになり、多摩川の行楽客にナマズ料理が喜ばれた」とされています。
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柏屋は、天保元年(1830年)創業。今も街の宴会などにも使われているようです。
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善立寺は、明治 5 年(1872 年)明治政府より「小学教則」が発布されると、翌 6 年(1873 年)には早くも「登戸学舎」として本堂で小学校教育をスタートさせたという、「小学校教育」発祥の場所です。また江戸時代後期に、二ケ領用水の水利権争いが 40 年にわたり続いたとされる記録「用悪水出入一件」( 古文書 ) が今でも残っており、また名主や年寄りと共にこの争いの調停に奔走した玉川屋敷井上弥兵衛が建立した妻の供養塔も入口に建てられています。
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本堂です。
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このお堂は、説明書きによりますと、「三十番神は、毎日日替わりで国家や国民を守る法華経の諸天善神である。江戸時代より病気をはじめとする処々の願いを毎日祈願するとご利益が叶うということで地元では登戸の番神さまとして今も多くの人々に信仰されています。」とあります。
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まだ区画整理がされていない古い一角です。正面突き当りには、小田急線の向ヶ丘遊園駅があります。 
津久井道に沿うこのあたりは登戸宿場町といわれ、江戸末期頃より製造業の戸数が多く、下駄づくり・干菓子づくり・紙漉き・馬鞍づくり・提灯づくり等、種類も豊富な職人の町でした。さらに左官職人が多い町としても知られ、登戸の左官屋といえば横浜、八王子、埼玉方面まで評判が伝わっていたといわれています。
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向ヶ丘遊園駅の前にある「栗」のマークのお店。この時季にぴったりですね。
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小田急線の向ヶ丘遊園駅です。昭和2年に小田急線が開通、当時の駅名は「稲田登戸駅」でしたが、向ヶ丘遊園の再整備に伴い、昭和30年に現在の駅名になりました。北口駅舎は、建設当時のままの姿であり、昭和のレトロな雰囲気のある屋根の形が懐かしさを醸し出しています。すでに向ヶ丘遊園は廃園となっています。駅自動放送に藤子・F・不二雄原作アニメ作品主題歌のオルゴール調接近メロディを採用しています。上りホームは『ドラえもん』主題歌「ドラえもんのうた」、下りホームは『キテレツ大百科』主題歌「はじめてのチュウ」です。
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ここは、五ケ村堀、中田堀、逆さ堀の3つの取り入れ口がある。五ケ村堀は登戸、宿河原、長尾、堰、久地付近を灌漑。逆さ堀は、本流の水位が低くなると逆に流れ込んでくることからついた名前です。
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二ケ領用水のたもとに建てられた庚申塔で江戸時代に建てられたものです。
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説明書きには、「二ヶ領用水とは多摩川から中野島の上河原堰と宿河原の宿河原堰から取水している農業灌漑用水で、徳川家康が代官小泉次大夫に命じて 14年の歳月をかけて慶長 16 年(1611 年)に完成しました。江戸時代の稲毛領と川崎領に亘る総延長 32km で神奈川県最古の人工用水であり、平成 24 年度(2012 年)土木学会「選奨土木遺産」に認定されています。桜の名所としても知られ、毎年春には桜まつりが開かれ、多くの花見客で賑わいます。」と書かれています。
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小泉橋は徳川家康の命により造られた多摩川水系最古の農業用水路「二ヶ領用水」に架けられた橋で、豪農小泉利左衛門により天保 15 年(1844 年 ) に木造の橋から石造りの橋に架け替えられました。現在は、区画整理に伴い、石造りの橋も架け替えられ、以前の面影はなくなりましたが、歴史的に重要なものでした。 府中街道と交わる榎戸と呼ばれたあたりは、津久井道につながる交通の要路として繁華な場所でした。
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人口の用水「二ヶ領用水」は、臨海部までに至る川崎市全土に張り巡らされていました。
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「二ヶ領用水」に架けられた橋、「小泉橋」のほとりに建てられた記念碑。新しく橋をかけ替えた際につくられています。
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津久井道は、江戸から津久井を結ぶ道で、甲州街道や大山街道(矢倉沢往還)と並行した道です。主に津久井の鮎、愛甲の木材、相模原の薪、黒川の炭、柿生の禅寺丸柿、登戸の鮎といった地域の産物の輸送に利用されていた道のようです。なので、幕府が制度上設けている「街道」や「往還」とは異なる生活に密着した文字通りの「道」だったようです。「シルクロード」ではなく、少し残念なような。でも、地道な研究で歴史が解明されるのを垣間見たように感じました。
訪ねた津久井道の「登戸宿」はこちらです。

港町駅近くに「川崎競馬場」があります。最近、大規模な改修が行われて、競馬場に「マーケットスクエア川崎イースト」というショッピングモールが誕生しました。
中には、「しまむら」や「ニトリ」、「ダイソー」「はま寿司」などが入っています。
大正の初め、この競馬場のあった場所に、東洋一の紡績工場「富士瓦斯紡績」がありました。
この工場には、女工約2千人が働いていましたが、一番多かったのが沖縄出身者だったそうです。第一次大戦後の恐慌の際に砂糖の相場が暴落し、また、サトウキビの不作もあって、沖縄全土が飢餓状態となりました。いわゆる「ソテツ地獄」(毒抜きが不十分なソテツを食べ死に至る)です。借金を返済するため女工となった沖縄の女性たちは12時間労働という過酷な労働環境の中で働いていたのです。
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当時の富士瓦斯紡績川崎工場の様子です。(写真は借りています)
現在の「川崎競馬場」の辺りです。
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大正12年9月1日には関東大震災が起こりました。「富士瓦斯紡績」で働いていた沖縄出身の女工たち154人が建物の下敷きとなり亡くなっています。その富士瓦斯紡績の跡地に、今「川崎競馬場」が建てられています。
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こうした女性を頼りに沖縄から多くの親類縁者が川崎に移住し、当時、川崎や鶴見の臨海部の埋め立て地につくられた大工場の労働力となっていきました。そうした人々の間から故郷を偲ぶ沖縄芸能の活動が始められていきました。
こうした経過で大正13年に「川崎沖縄県人会」が発足し、沖縄芸能活動が活発になっていきます。現在、この沖縄の伝統芸能は、神奈川県及び川崎市の無形民俗文化財に指定されています。
写真の左側の建物入口は「川崎沖縄県人会館」です。右側の建物は、川崎沖縄県人会が運営している「はいさい保育園」です。
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「川崎沖縄県人会館」では、様々な沖縄芸能の保存に向けた活動を行っています。また、入管法の改正で南米から日系2世・3世が親族を頼りに鶴見や川崎に訪れ、南米料理のお店を始めています。
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川崎駅前の写真です。右側に大きな石造の碑が見えます。
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これは、「石敢當」の碑(122cm)です。この碑は、1960年の宮古台風被害災害に対し、川崎市議会が中心となり、川崎全市で募金活動が行われ、その御礼として当時の琉球政府から贈られたものなのです。
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碑の裏には、石敢當の由来が書かれています。
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現在では、沖縄と川崎の文化交流が盛んに行われていて、毎年5月には、川崎駅前にある映画街「ラ・チッタデッラ」で「はいさいFESTA」(大沖縄文化祭)が開催されています。
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「はいさいFESTA」の様子です。(写真はお借りしています)
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おしまい

美空ひばりさんの「港町十三番地」の題材となった川崎の港町駅のすぐ近くに「医王寺」というお寺があります。医王寺は、延暦24年(805年)、橘樹郡久根崎に開山したという古刹です。戦国時代には、当地領主の間宮豊前守信盛の祈願所ともなっていたところです。
その医王寺には、二つの伝説があります。
(大師道の久根崎の交差点に建つ医王寺の「川崎歴史ガイド」)
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質素な木造山門が歴史を物語っています。
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本堂は、1765年に再建されました。
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一つ目の伝説は、「背中の赤い蟹」です。境内に鉄製のノートに見立てた説明書きに謂れが書かれています。伝説の内容とは次のようなものです。
「医王寺の鐘は朝と夕に撞かれたが、その音を怖がって白鷲が寄り付かないために、境内に棲む魚や蟹は捕らえられることもなく暮らすことができていた。ある時、近隣から火の手が上がり、やがて医王寺にも延焼した。山門を焼き、やがて火が鐘楼に迫ってきた時、池から何百もの蟹が現れて鐘楼に上がると泡を出して火を消し止めようとした。火は猛威を振るい多くの蟹が焼けて死んでいったが、一向に蟹の数は減らなかった。そして翌朝、鎮火した後の境内には、鐘楼だけが焼けずに残っており、その周りには焼けた蟹の死骸が大量にあったという。寺では、命がけで鐘楼を守った蟹の徳を後世に伝えるべく塚を建てた。そして、それ以降、医王寺の池に棲む蟹は、火で焙られたかのように背中が赤いものばかりになったという。」(出典:神奈川県の民話と伝説 萩坂昇)
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山門を入ると、七福神に囲われた池があります。
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そして、その隣には伝説の「鐘楼」と「蟹塚」がありました。
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「蟹塚」は最近、再建されたようです。
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よく見ると、白い泡を出す蟹の背中は赤くなっていました。
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二つ目の伝説は、「塩でとけた地蔵さま」です。
「今のように良い薬もなく、医者もいなかった昔。久根崎のあたりで、できものが流行って子供が苦しんでいた。親たちは、海辺の塩浜の塩田から塩を買ってきて、地蔵にお浄めの塩をこすって、子供の身代わりになって下されと願掛けをした。するとご利益があって、子供のおできは治ったが、地蔵様は、塩でとけたような姿になったと伝えられる。」(出典:神奈川県の民話と伝説 萩坂昇)
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医王寺本堂に向かって左側の祠に「塩どけ地蔵」が安置されています。骨と皮だけのようになっていますが、今も袋につめた塩が供えられ、8月24日には、盛大な地蔵盆が行われています。昔は弘法大師道の筋に建っていましたが、工場の進出で交通量が増えたため安全なこの医王寺に移されました。
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おしまい