「津久井地方は、絹の一大市場である八王子に出荷され、売買されていたが、八王子商人に安く買いたたかれるのをきらい、文化年間から直接江戸へ送るようになった。甲州街道を避けて津久井道を使うようになったため、津久井道は江戸に向かう絹の道(シルクロード)として栄えたが、横浜開港とともに国の重要輸出品として横浜へ運ばれるようになり、さびれていったというのが従来の定説だった。しかし、近年、その記録や形跡がないことから、津久井道はシルクロードではなかったとする説が有力になっている。」(稲田郷土史会機関紙「あゆたか」)
だとしたら、津久井道とはどんな機能を持った「道」だったのでしょうか。
そんな関心を抱いて、津久井道の唯一の宿場「登戸」界隈を歩くことにしました。JR登戸駅を下車し、小田急線の登戸駅のガードを潜り、レトロな細い繁華街を歩きます。この辺りは、川崎市の「登戸土地区画整理事業」の事業範囲に入っているため何年かすると消えて無くなってしまうエリアとされています。
駅前の細い路地を100メートルほど歩くと、「北向地蔵と馬頭観音」があります。川崎歴史ガイドによりますと、「特別の御利益があると信じられ、子育て地蔵として親しまれてきた北向地蔵。また、馬の保護神として、登戸を中心に広い地域の人々によってつくられた馬道観音。共に江戸時代のもの。」と記されています。
川崎歴史ガイドから、この道が「津久井道」と分かります。
「北向地蔵と馬頭観音」の斜向かいに「石屋と石屋河岸」があります。「多摩川の水運と津久井道の便で大いに繁盛した吉沢石材店は、江戸後期からの店。伊豆や真鶴の石材は渡し場のすぐ下流にあった淀みから荷揚げされた。その船着き場を石屋河岸と呼んだ。」とされています。津久井道と多摩川は、様々な物を運ぶために相互にうまく活用されていたことが分かります。
今も石材店は健在でした。右隅に見えるのが、南武線の踏切でその先に多摩川があります。
この写真からも分かる通り、区画整理のため空地が点在しています。逆に区画整理されたところには真新しい高層の建物が立ち並び始めています。
この登戸土地区画整理事業は、駅に至便なため、急速に市街化が進み、公共整備が追いつかず、環境悪化の課題が山積している地域を解決する手法として進められてきました。昭和63年から始められて、予定では平成38年で生まれ変わるとされています。約40年間かかる事業なんですね。その中心を通るのが「津久井道」です。この先、歴史の証人である史跡はどうなっていくのか心配です。
「登戸宿と柏屋」の歴史ガイドがあります。「登戸は小杉や溝ノ口に比べ、居酒屋や煮売屋などの多い盛り場的な賑わいの宿だったようで、旅人を泊めた柏屋は明治の末には、料理屋を兼ねるようになり、多摩川の行楽客にナマズ料理が喜ばれた」とされています。
柏屋は、天保元年(1830年)創業。今も街の宴会などにも使われているようです。
善立寺は、明治 5 年(1872 年)明治政府より「小学教則」が発布されると、翌 6 年(1873 年)には早くも「登戸学舎」として本堂で小学校教育をスタートさせたという、「小学校教育」発祥の場所です。また江戸時代後期に、二ケ領用水の水利権争いが 40 年にわたり続いたとされる記録「用悪水出入一件」( 古文書 ) が今でも残っており、また名主や年寄りと共にこの争いの調停に奔走した玉川屋敷井上弥兵衛が建立した妻の供養塔も入口に建てられています。
このお堂は、説明書きによりますと、「三十番神は、毎日日替わりで国家や国民を守る法華経の諸天善神である。江戸時代より病気をはじめとする処々の願いを毎日祈願するとご利益が叶うということで地元では登戸の番神さまとして今も多くの人々に信仰されています。」とあります。
まだ区画整理がされていない古い一角です。正面突き当りには、小田急線の向ヶ丘遊園駅があります。
津久井道に沿うこのあたりは登戸宿場町といわれ、江戸末期頃より製造業の戸数が多く、下駄づくり・干菓子づくり・紙漉き・馬鞍づくり・提灯づくり等、種類も豊富な職人の町でした。さらに左官職人が多い町としても知られ、登戸の左官屋といえば横浜、八王子、埼玉方面まで評判が伝わっていたといわれています。
向ヶ丘遊園駅の前にある「栗」のマークのお店。この時季にぴったりですね。
小田急線の向ヶ丘遊園駅です。昭和2年に小田急線が開通、当時の駅名は「稲田登戸駅」でしたが、向ヶ丘遊園の再整備に伴い、昭和30年に現在の駅名になりました。北口駅舎は、建設当時のままの姿であり、昭和のレトロな雰囲気のある屋根の形が懐かしさを醸し出しています。すでに向ヶ丘遊園は廃園となっています。駅自動放送に藤子・F・不二雄原作アニメ作品主題歌のオルゴール調接近メロディを採用しています。上りホームは『ドラえもん』主題歌「ドラえもんのうた」、下りホームは『キテレツ大百科』主題歌「はじめてのチュウ」です。
ここは、五ケ村堀、中田堀、逆さ堀の3つの取り入れ口がある。五ケ村堀は登戸、宿河原、長尾、堰、久地付近を灌漑。逆さ堀は、本流の水位が低くなると逆に流れ込んでくることからついた名前です。
二ケ領用水のたもとに建てられた庚申塔で江戸時代に建てられたものです。
説明書きには、「二ヶ領用水とは多摩川から中野島の上河原堰と宿河原の宿河原堰から取水している農業灌漑用水で、徳川家康が代官小泉次大夫に命じて 14年の歳月をかけて慶長 16 年(1611 年)に完成しました。江戸時代の稲毛領と川崎領に亘る総延長 32km で神奈川県最古の人工用水であり、平成 24 年度(2012 年)土木学会「選奨土木遺産」に認定されています。桜の名所としても知られ、毎年春には桜まつりが開かれ、多くの花見客で賑わいます。」と書かれています。
小泉橋は徳川家康の命により造られた多摩川水系最古の農業用水路「二ヶ領用水」に架けられた橋で、豪農小泉利左衛門により天保 15 年(1844 年 ) に木造の橋から石造りの橋に架け替えられました。現在は、区画整理に伴い、石造りの橋も架け替えられ、以前の面影はなくなりましたが、歴史的に重要なものでした。 府中街道と交わる榎戸と呼ばれたあたりは、津久井道につながる交通の要路として繁華な場所でした。
人口の用水「二ヶ領用水」は、臨海部までに至る川崎市全土に張り巡らされていました。
「二ヶ領用水」に架けられた橋、「小泉橋」のほとりに建てられた記念碑。新しく橋をかけ替えた際につくられています。
津久井道は、江戸から津久井を結ぶ道で、甲州街道や大山街道(矢倉沢往還)と並行した道です。主に津久井の鮎、愛甲の木材、相模原の薪、黒川の炭、柿生の禅寺丸柿、登戸の鮎といった地域の産物の輸送に利用されていた道のようです。なので、幕府が制度上設けている「街道」や「往還」とは異なる生活に密着した文字通りの「道」だったようです。「シルクロード」ではなく、少し残念なような。でも、地道な研究で歴史が解明されるのを垣間見たように感じました。
訪ねた津久井道の「登戸宿」はこちらです。