港町駅近くに「川崎競馬場」があります。最近、大規模な改修が行われて、競馬場に「マーケットスクエア川崎イースト」というショッピングモールが誕生しました。
中には、「しまむら」や「ニトリ」、「ダイソー」「はま寿司」などが入っています。
大正の初め、この競馬場のあった場所に、東洋一の紡績工場「富士瓦斯紡績」がありました。
この工場には、女工約2千人が働いていましたが、一番多かったのが沖縄出身者だったそうです。第一次大戦後の恐慌の際に砂糖の相場が暴落し、また、サトウキビの不作もあって、沖縄全土が飢餓状態となりました。いわゆる「ソテツ地獄」(毒抜きが不十分なソテツを食べ死に至る)です。借金を返済するため女工となった沖縄の女性たちは12時間労働という過酷な労働環境の中で働いていたのです。
当時の富士瓦斯紡績川崎工場の様子です。(写真は借りています)

現在の「川崎競馬場」の辺りです。

大正12年9月1日には関東大震災が起こりました。「富士瓦斯紡績」で働いていた沖縄出身の女工たち154人が建物の下敷きとなり亡くなっています。その富士瓦斯紡績の跡地に、今「川崎競馬場」が建てられています。
こうした女性を頼りに沖縄から多くの親類縁者が川崎に移住し、当時、川崎や鶴見の臨海部の埋め立て地につくられた大工場の労働力となっていきました。そうした人々の間から故郷を偲ぶ沖縄芸能の活動が始められていきました。

こうした女性を頼りに沖縄から多くの親類縁者が川崎に移住し、当時、川崎や鶴見の臨海部の埋め立て地につくられた大工場の労働力となっていきました。そうした人々の間から故郷を偲ぶ沖縄芸能の活動が始められていきました。
こうした経過で大正13年に「川崎沖縄県人会」が発足し、沖縄芸能活動が活発になっていきます。現在、この沖縄の伝統芸能は、神奈川県及び川崎市の無形民俗文化財に指定されています。
写真の左側の建物入口は「川崎沖縄県人会館」です。右側の建物は、川崎沖縄県人会が運営している「はいさい保育園」です。
「川崎沖縄県人会館」では、様々な沖縄芸能の保存に向けた活動を行っています。また、入管法の改正で南米から日系2世・3世が親族を頼りに鶴見や川崎に訪れ、南米料理のお店を始めています。
これは、「石敢當」の碑(122cm)です。この碑は、1960年の宮古台風被害災害に対し、川崎市議会が中心となり、川崎全市で募金活動が行われ、その御礼として当時の琉球政府から贈られたものなのです。
碑の裏には、石敢當の由来が書かれています。
現在では、沖縄と川崎の文化交流が盛んに行われていて、毎年5月には、川崎駅前にある映画街「ラ・チッタデッラ」で「はいさいFESTA」(大沖縄文化祭)が開催されています。
「はいさいFESTA」の様子です。(写真はお借りしています)
おしまい

「川崎沖縄県人会館」では、様々な沖縄芸能の保存に向けた活動を行っています。また、入管法の改正で南米から日系2世・3世が親族を頼りに鶴見や川崎に訪れ、南米料理のお店を始めています。

川崎駅前の写真です。右側に大きな石造の碑が見えます。

これは、「石敢當」の碑(122cm)です。この碑は、1960年の宮古台風被害災害に対し、川崎市議会が中心となり、川崎全市で募金活動が行われ、その御礼として当時の琉球政府から贈られたものなのです。

碑の裏には、石敢當の由来が書かれています。

現在では、沖縄と川崎の文化交流が盛んに行われていて、毎年5月には、川崎駅前にある映画街「ラ・チッタデッラ」で「はいさいFESTA」(大沖縄文化祭)が開催されています。

「はいさいFESTA」の様子です。(写真はお借りしています)


