鎌倉幕府の首都としての鎌倉は、都市として繁栄していきますが、港の機能に問題がありました。鎌倉の海岸は遠浅で、七里ガ浜の東端に設けられた和賀江の港も決して良港ではありませんでした。そこで注目されたのが三浦半島の東岸、金沢の六浦です。北条泰時はこの地との連絡を容易にするために朝比奈の切通しを開き、それ以後、六浦は鎌倉の外港として繁栄していきます。
今回から、六浦の瀬戸の入江から、朝比奈切通しを通り、鶴岡八幡宮に至る金沢街道(六浦道)を歩きます。
京急金沢八景駅を出ると、こんもりとした森に覆われた瀬戸神社が見えます。
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社伝では、1180年(治承4年)鎌倉に入った源頼朝が信仰していた三嶋神社を勧請したとされています。ちょうど七五三のお参りに来た家族が記念撮影をしていました。
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瀬戸神社の境内に横たわる大木「蛇混柏」(ビャクシン)は、延宝8年(1680年)の台風で倒れて以来、今日まで朽ちることなく残っているもので、江戸名所図絵には既に倒れた状態で描かれています。
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瀬戸神社の前に琵琶島があります。1180年(治承4年)鎌倉に入った源頼朝が信仰していた三嶋神社を勧請した際に、夫人の北条政子が夫にならって、日頃信仰する琵琶湖の竹生島弁財天を勧請して瀬戸神社の海中に島を築いて創建したと伝えられています。島の形が琵琶に似ていることから琵琶島とも呼ばれています。周囲は60mに満たない小島で、現在は陸から伸びた参道と小橋で結ばれています。当時の風光明媚な海岸の風景が偲ばれます。
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参道に入ると、「福石」と呼ばれる大きな石があります。この石の前で物を拾うと福を授かるということから「福石」と呼ばれています。源頼朝が琵琶島の弁財天を参拝する折に、この石に服を掛け、海水に入ったので「服石」とも呼ばれたともいわれています。
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琵琶島の弁財天は沖に突き出ているため、地元では釣りのポイントになっています。釣り人が腰かけている木は、瀬戸神社の境内にあった「蛇混柏」(ビャクシン)と同様のものです。既に枯れ木のようですが、朽ちることなく残っています。
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金沢シーサイドラインから撮った平潟湾に浮かぶ琵琶島。
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瀬戸の入江を離れ、金沢街道(六浦道)を歩きます。最初に見えてくるのが「泥牛庵」(でいぎゅうあん)という臨済宗のお寺です。階段の上には立派な茅葺きの山門があります。円覚寺の伝宗庵の南山士雲によって創建されたといわれています。室町時代後期に廃絶していく鎌倉寺社同様に、泥牛庵も衰微したようです。承応2年(1656年)に復興されています。
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現在の金沢街道は、国道16号線をしばらく歩き、「六浦」の信号で右折し「環状4号」を通るルートです。
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環状4号をしばらく歩き、最初に見えてくるお寺が日蓮宗の「六浦山上行寺」です。
初めは、真言宗で金勝寺といいました。日蓮宗に改めたのは、日荷上人でした。日荷上人は、もと六浦平次郎といい回船問屋を営み、六浦湊を支配する商人でしたが、帰依し、出家して日荷上人と呼ばれました。境内には、日荷上人が植えたという樹齢600年の榧の木があります。これは日荷上人が身延山から持ち帰ったものといわれています。
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しばらく交通量の多い環状4号を歩くと、「小泉又次郎誕生地」という石碑が道路沿いに建っています。小泉又次郎は、元総理大臣小泉純一郎の祖父にあたり、横須賀市長、逓信大臣、衆議院副議長を歴任した方です。義侠心のある大衆政治家で、入れ墨があったことから「いれずみの又さん」との異名があったそうです。
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「鼻欠地蔵」と呼ばれる摩崖仏です。ここは武蔵の国との国境で、西は相州、東は武州の堺にあたっていました。そこで「堺の地蔵」、また鼻が欠けているところから「鼻欠地蔵」とも呼ばれていました。今は風化が進み、地蔵の顔や姿は説明を受けないとわからない程になっています。イメージ 13

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この辺りから環状4号の勾配が上がってきます。前方に見える山の懐に大きな門構えのお屋敷がみえてきます。
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この大きな門構えのお屋敷を通り過ぎると「朝比奈切通」の看板が見えてきます。ここを左に折れ200m先に今回の目的の一つである金沢街道(六浦道)の旧道の切通しがあります。この先は次回、ご紹介いたします。(続く)
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今回ご紹介したルートはこちらです。