格言とその意味 -7ページ目

格言とその意味

廣池千九郎先生の格言とその意味をUPしていきます。



 すべて伝統もしくは準伝統の上位に立つものは比較的品性の高きはずでありますから、かかる人々は、その下のものに向かって、みだりに自分とかもしくは自 分の団体とかに対して、犠牲を捧《ささ》げよというようなことはいわぬのであります〈全部かくのごとくありとは考えられねど〉。
しこうして、下のものに対 してはこれを愛して、精神的はもちろん、物質的にも好遇《よくもてなす》するのであります。
然《しか》るときに、下のものはその自己の利己心から割り出し て、いたずらにこれを喜んでおるものが多いのであります。これ実に愚なることであります。
 およそ下のものが上のものに接触したときには、よくその教訓を承《うけたまわ》りてこれを体得し且つこれを実行することに努力し、しこうしてその上のも のを精神的に尊敬するはもちろん、物質的にも謝恩を心掛けねばならぬのであります。
これは上たる人の教訓中にはあるべきはずのことではないのであって、上 たる人の明言せぬことであるから、これを言外の真理と称するのであります。
万一、上たる人が露骨に自己に対する物質上のことなどをその下たるものに向かっ て要求するようなことがあったならば、それは上たる人に瑕瑾《かきん・きず》が出来たというべきでありましょう。
ただ、上たる人は、第三者の地位にある場 合には、上に立つ人の義務と下におる人の義務とを教訓しもしくは説明することはあれど、当事者として下に臨む場合には、全くその精神及び態度が第三者の場 合と異ならねばならぬのであります。
かくて下におる人は、よく先輩の教訓を体得し、至誠且つ慈悲の心となるべきであります。
然《しか》るときには自発的に 伝統もしくは準伝統に対する報恩の真の方法を発見することが出来るのであります。
これを言外の真理と称するのであります。
われわれはかかる言外の真理を理 解して、直接もしくは間接に人心の開発もしくは救済に努力することによりて、はじめて真に幸福を享受し得るに至るのであります


               広池千九郎WEBSITE格言の間より



 自分が苦労して自分がその結果を享受しようということは全く利己主義であります。
現代においては国民もしくは人類を指導せねばならぬ地位もしくは職業に ある人々が、いずれもみな自己もしくは自己の団体の利益にならぬことには、一厘《いちりん》の金も出さず、一臂《いっぴ》の力をも貸さぬのであります。
か の慈善事業・公共事業のごときも真の道徳心から出《い》ずるものは甚だ少ないのであります。
これ何人《なんぴと》にも徳を積むということが出来ぬ訳であり ます。
いま最高道徳は、自己の苦労して出来た結果をもって、一般の人々を幸福にしようとするのでありますから、徳を積むことが出来るのであります。

               広池千九郎WEBSITE格言の間より




 従来、自分の名誉もしくは利益に対して、神に祈願するとかもしくは自分の上の人に或《あ》ることを依頼するとかいうことは、一般に当然のこととしてあっ て、少しも怪《あや》しまれなかったのであります。
しかしながら、これ全く利己主義的精神の発露であって卑しむべきことであります。
されば、最高道徳にお いては、まず伝統を尊重して、これに報恩し、且つ最高道徳的に自己の家業もしくは職務に努力し、しこうして伝統に対してはもちろん、準伝統及びその他に対 しても、まずその相手方の名誉もしくは利益の増進につきて、自分の力の及ぶだけ犠牲的努力を払うのであります。
これがすなわち義務の先行であり、徳の貯蓄 であるのです。
かくてこれを累積すれば、神も、人間も、その至誠を受け取ってくださりまして、末ついにいかなる事でも成就せぬということはありませぬ。
し こうして自分の後日の幸福は予想以上に大きくなるのであります。


               広池千九郎WEBSITE格言の間より




 不道徳者は不忠誠且つ不努力にして要求するのです。
しこうして普通道徳者は忠誠且つ努力してその報酬を要求するのです。いま最高道徳は忠誠且つ努力して その報酬を要求せぬのであります。
これすなわち前条の絶対服従の理想を活用せしものであって、これもまた被治者側よりいえば、伝統及び準伝統に奉仕する場 合に限るのでありますが、他の場合にもなるべくこの精神を敷衍《ふえん》して事に当たるのであります。
次に治者側よりいえば、治者はすべて被治者に対して その幸福の実現に努力し、つとめて被治者の満足を得るようにせねばならぬということを含んでおるのであります。

 なおこの不要求の原理はただ名誉とか、利益とか、物質的なことを要求せぬのみのことでなくして、すべて自己の努力をば十分に伝統に捧《ささ》げな がら、自分の意見とか、主張とかいうものをばいっさい用いず、最高道徳の法則に従いつつ、ただ黙して努力を重ぬることを意味するのです。かかる精神及び行 為の累積の結果が偉大なことになるのであります。

               広池千九郎WEBSITE格言の間より



 順応〈あるいは適応〉は進化論及び社会学の術語であり、同化は生理学の 術語でありまして、この両語は事物の完成に必要なるところの物質的及び精神的作用を表す語であります。
しこうしてこの順応・同化の二つの作用の完全なる形 式が絶対服従であるのです。
しかしながら、最高道徳にいわゆる順応・同化及び絶対服従は慈悲の心に基づいて起こるところのものであるので、普通道徳にて自 利のために行う順応・同化及び服従は牛馬にても常に行いつつある道徳であります。

 かくてこの絶対服従の理想は被治者側よりいえば、伝統(ortholinon《オーソリノン》)ならびに準伝統に奉仕する場合に限るのであって、何人 《なんぴと》に対してもかくのごとくせよというのではないのです。
次に治者側よりいえば、被治者側に対して同様の精神を持たねばならぬのであります。
すべ て最高道徳においては、治者・被治者・富者・貧者の関係をいえば、その義務実行の方法は異なれど、その義務実行の精神は相互的であるのです。
しかしなが ら、その相手方が最高道徳を知らざる場合には、自己の力の及ぶだけの至誠を尽くして止《や》むのであります。しこうして最高道徳はその実行の根本原理なら びに根本精神を表現する方法としては、この絶対服従を理想とするのであります。
ただしこの絶対服従の原理は、現代人の頭脳にはすこぶる奇異の感動を与うる ものなるをもって、その詳《つまびらか》なることは第一巻第十四章第七項及び第九項に述べたれば、必ずこれを参照せられんことを乞《こ》う。


               広池千九郎WEBSITE格言の間より