言外の真理を悟りてこれを行なう | 格言とその意味

格言とその意味

廣池千九郎先生の格言とその意味をUPしていきます。



 すべて伝統もしくは準伝統の上位に立つものは比較的品性の高きはずでありますから、かかる人々は、その下のものに向かって、みだりに自分とかもしくは自 分の団体とかに対して、犠牲を捧《ささ》げよというようなことはいわぬのであります〈全部かくのごとくありとは考えられねど〉。
しこうして、下のものに対 してはこれを愛して、精神的はもちろん、物質的にも好遇《よくもてなす》するのであります。
然《しか》るときに、下のものはその自己の利己心から割り出し て、いたずらにこれを喜んでおるものが多いのであります。これ実に愚なることであります。
 およそ下のものが上のものに接触したときには、よくその教訓を承《うけたまわ》りてこれを体得し且つこれを実行することに努力し、しこうしてその上のも のを精神的に尊敬するはもちろん、物質的にも謝恩を心掛けねばならぬのであります。
これは上たる人の教訓中にはあるべきはずのことではないのであって、上 たる人の明言せぬことであるから、これを言外の真理と称するのであります。
万一、上たる人が露骨に自己に対する物質上のことなどをその下たるものに向かっ て要求するようなことがあったならば、それは上たる人に瑕瑾《かきん・きず》が出来たというべきでありましょう。
ただ、上たる人は、第三者の地位にある場 合には、上に立つ人の義務と下におる人の義務とを教訓しもしくは説明することはあれど、当事者として下に臨む場合には、全くその精神及び態度が第三者の場 合と異ならねばならぬのであります。
かくて下におる人は、よく先輩の教訓を体得し、至誠且つ慈悲の心となるべきであります。
然《しか》るときには自発的に 伝統もしくは準伝統に対する報恩の真の方法を発見することが出来るのであります。
これを言外の真理と称するのであります。
われわれはかかる言外の真理を理 解して、直接もしくは間接に人心の開発もしくは救済に努力することによりて、はじめて真に幸福を享受し得るに至るのであります


               広池千九郎WEBSITE格言の間より