格言とその意味

従来、愚人・悪人もしくは尋常人を救済する教えは種々あれど、国家もしくは社会において、第一流の地位にある人々を開発しもしくは救済する教えは極めて稀
《ま》れであります。
故に現代社会に地位の高き御方々もしくは富める御方々に対しては、学者も、教育家も、宗教家も、これに向かって新たなる生活の方法を
授け得るものがないのであります。
今回の最高道徳は、いかに現代において人格の高いといわるる人にても、いかなる深遠な学力を有する人にても、いかに偉大
な事業を成し遂げた人にても、これに対して新たにその人の精神を開発しもしくは救済することが出来るのであります〈第一巻第十五章第十七項参照〉。 広池千九郎WEBSITE格言の間より
聖人の教えにおいては、既記のごとく、上におるものは教訓を垂れ、下におるものは物質をもってこれを謝恩する法則であります。
しかるに現代の人はこの法則
を知らずして、学問もしくは知識に関する講義もしくは談話には謝礼をなせど、道徳もしくは信仰に関する講義もしくは談話に対しては、極めてこれを軽視して
謝恩の念を起こさぬのであります。
すなわち本末を転倒しておるのであります。
人間ひとたびこの原理を理解することが出来たならば、その人は幸福に向かう門
戸《もんこ》に入り得たのであります。 広池千九郎WEBSITE格言の間より
一時に多大の金銭もしくは物品を出して、人心の開発もしくは救済の事業に供することはもとより大善事であります。
次に最高道徳の心をもって、種々の社会事
業もしくは国家事業に尽くすことも、また大善事であります。
しかしながら、すべて人間は平素において徳を積んでおくということが、その幸福を全うする原理
であります。
ここをもって、平素において道徳の心掛けなき人が、急に自分の必要のあった場合に、多大の金を出して、その成功を神仏に祈るとか、もしくは他
人の力を借らんとするがごときは、真の至誠ということは出来ませぬ。
真の至誠とは、平素において積徳を心掛くることであります。 広池千九郎WEBSITE格言の間より
微善を累積してついに積善の家を形造ることは、最高道徳において尊いことと認むるのであります。
しかるに、学力・金力もしくは権力等の大なる人がこの最高
道徳を聴いて大いに感動せられ、その偉大なるその人の所有の力を傾注《けいちゅう》して最高道徳の普及を図るに至らば、その人はたちまち一躍《いちやく》
して聖人になったのであります。
然《しか》るときにはその人の徳はその人のあらゆる運命の上に現れて、その人及びその人の子孫を幸福にするのであります。 広池千九郎WEBSITE格言の間より
いかなる悪人でも、ときどき善事をなすことはあります。
たとえば、強盗もしくは殺人をなす悪人でも、その道徳的本能によりて、赤子の水に溺《おぼ》れん
とするを見れば、これを救い、老人の重荷を負うものを見れば、これを助くるごときことはあります。
しかしながら、かかる悪人はその精神の中において常に正
義に反することを考えておりますから、たとい毎日殺人もしくは強盗をせずとも、やはり悪人であります。
それ故に、右と反対に、常に真の正義及び犠牲の精神
を持続して、日夜軽微の善事を累積するものあらば、それはすなわち最高道徳になるのであります。
神と聖人とはかくのごとき人々の社会に増加せんことを希望
してやまないのであります。
広池千九郎WEBSITE格言の間より

