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格言とその意味

廣池千九郎先生の格言とその意味をUPしていきます。



 最高道徳を他人に説く動機は、真の慈悲心をもってその人を開発し且つ救済したいというにあるのです。
単に知的に自分の知識を示すためとか、単に最高道徳の 意味を説明するためとか、あるいはまた、相手方のなすことが自分の感情もしくは利害に反するためにこれを諭《さと》すためとかいうような精神にて話をなす ことは、道徳的に見れば、ほとんどこれを無益の努力とするのであります。
すなわち最高道徳にてはその相手方に最高道徳を説く動機及び目的に重きを置くので あります。
故に、万一、慈悲の精神すなわち先方の心を救済せんとする動機に基づかず、知識や感情によりて単に最高道徳を説明するにとどまることあらば、そ の行動は全く最高道徳の精神に背《そむ》くことになりますから、事実上、その話は先方に徹底せず、その努力の究極の結果は全く無効に帰するのであります。
すなわち講話・談話もしくは説明ということは知的事業に属するので、慈悲の心に基づくところの人心救済が最高道徳になるのであります。
故に知的努力の結果 は甚だ小なるものであり、人心を救済したしと思うてなすところの努力の結果は非常に大きいのであります。



               広池千九郎WEBSITE格言の間より



 従来の道徳とか信仰とかいうものは、ただ、知的に道徳もしくは信仰の話を知って、これを他人に対して説いて聴かせるのが主であったのです。
ことに信仰と いえば、ただ礼拝・祈祷《きとう》もしくは説教が主となっておるので、自らその道徳を実行するということが乏しかったのであります。
今回の最高道徳は、た だ、知的にその原理を知るとか、空《むな》しくこれを他人に説明するとかいうだけでなくして、これを聴くと同時に、幾分にても直ちに自らこれを実行すると いうことになっておるのであります。

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 すべて人間は、自分より上のもののない場合には、傲慢《ごうまん》且つ放縦の生活をなすものであります。
故に中国聖人の教えにては、天子といえども、その 上に天帝・祖先及び父母ありて、これを尊敬せざるものあらば君主の資格なしとなっておるのであります。故に一般人は、その各自の伝統と準伝統とに対して、 真に心の底よりこれに服従するのが当然の義務にして、この義務を行い、はじめてその各自の幸福が出来るのであります。

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 最高道徳にては、宇宙の本体を拝むと同時に、諸民族の間に崇拝されておるところの神々・聖人の霊・祖先・父母及びその他国家もしくは社会に功労ありし人の 霊をも拝むのであります。
故に、いずれの国、いずれの民族の間に行くも、従来の道徳もしくは宗教のごとく、他と衝突することはないのであります〈第一巻第 十四章第八項参照〉。

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 昔の封建時代においては、尊卑の区別を立てて、あまりに階級制度及びこれに付帯する虚礼を偏重したのであります。
しこうして今日は、これに反して、秩序を 無視して自由と平等とを尊重する弊があります。
いま、最高道徳においては、極めて合理的なる秩序を尊重し、しこうしてその秩序の範囲内において、各人に適 当なる自由を与うるのであります。
故に最高道徳的に努力を累積する人は、しだいに社会階級が高くなって、おのずからその自由の分量が増加するのであります から、極めて楽しきことであります〈第一巻第十四章第七項参照〉。

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