これは宮崎駿監督作品「君たちはどう生きるか」について、時系列に沿って解析を試みる記事です。

独自解釈です。公的なものとは違う可能性が大いにありますので、ご了承願います。

「君たちはどう生きるか ネタバレ解説1」「ネタバレ解説2」「ネタバレ解説3」「ネタバレ解説4」「ネタバレ解説5」の続きです。

庭から塔へ

ヒミの家からは、桜の咲く庭園を通って「世界にまたがって建っている塔」へ。

「迷うと出られなくなる庭」はやはり漫画版ナウシカ終盤の庭を連想します。

これは、滅亡前の世界の生物が保存されている庭でした。

ビジュアル的には「カリオストロの城」最後のローマ遺跡のようでもあります。

 

塔はインコの兵隊によって警備されています。

インコの兵隊はやはり「不思議の国のアリス」のトランプの兵隊を連想させますね。リアルな軍というよりは、おとぎ話の中の「王様の兵隊」。

132と559の意味は?

地下通路を通って塔の中に入った眞人とヒミは、たくさんの扉が並ぶ「時の回廊」にやってきます。

扉にはそれぞれ異なるナンバーが割り当てられていますが、続き番号ではなく、規則性は見出せません。

眞人がやって来た世界につながる扉は「132」です。その右隣は「415」で、更に隣は「559」

「559」は最終的にヒミとキリコが帰っていく扉です。

 

正しい扉を見つけるために、ヒミは何らかの「計算」をしているようですが、その法則性を読み取るのは難しいですね…。

「132」の扉は1944年7月の世界に、「559」の扉はヒミ(ヒサコ)がやって来た1922 年頃の世界につながるはずですが、数字と年代の対応は難解です。

 

数字が語呂合わせだったり、まるっきり意味がなかったり…という可能性もありますが、ヒミが「計算している」ことから考えると。

例えば、132ヶ月と考えると11年になります。1944年は眞人が生まれて132ヶ月目。ヒミは眞人が生まれてからの年月を数えているのかもしれない。

(少女のヒミが眞人の年齢を知ってるのは変なようですが、ヒミは少女であると同時に火事で死んだヒサコでもあります。…というのは、後述)

(扉が眞人の年齢に応じているのは客観的にはおかしいですが、この世界は何度も書いているように眞人の主観的な世界です。そして、お母さんが息子を探す時に「年齢を数える」のは自然なことです。)

 

では559が何かというと、559ヶ月であればおよそ46年になりますね。

132が眞人の年齢なら、559はヒミの年齢…享年でしょうか?

ヒミが来た年ならもっと若い数字になるはずですが、しかしヒミはヒサコの死を踏まえた存在でもあるので、ヒサコを象徴する数字として享年が使われる可能性もあります。

ただ…ヒサコが46歳で死んだとすると、夏子は36歳くらいということになってしまうんですよね。それはちょっと、見た目と釣り合わない気が…。

それに、パンフレットに掲載されたキャラ設定表によると、勝一は37歳。ヒサコは10歳くらい年上だったことになっちゃいますね。

これも、絶対にあり得ないとまでは言えないけど、やっぱり不自然かな。

559を享年にするためにそこまで無理を通すのは厳しすぎる感じです。

 

では559は何かというと…うーん今のところお手上げ。アイデアのある方、ぜひコメントで知らせてください!

マルチバース?

あの塔はいろんな世界にまたがって建っている。

塔は時の回廊の扉から「いろんな時代」に通じている訳ですが、「いろんな世界」にも通じている?

少なくとも、上の世界(現実の世界)と、海の世界(大叔父が作った?インコ王国とペリカンとわらわらの世界)の2つはある訳ですが、この言い方からは、もっとたくさんの世界があるように伺えます。2つじゃ「いろんな世界」とは言わないでしょう。

 

「君たちはどう生きるか」の世界は、マルチバースなのでしょうか?

時代ではなく、次元を異にする世界はどんな世界?

「八百万の神が集うお湯屋がある世界」「火の悪魔や魔法使いが生きる世界」「文明が腐海に沈んだ世界」など?

 

後に大叔父が「遥かな時と場所を探して」13個の石を探してきた、と言っています。

それぞれ、別の「宮崎駿の作品世界」を旅して、一つずつの石を持ってきた、という解釈もできますね。

石とは何か

扉から戻った眞人とヒミは、石の階段を進んでいきます。

塔の中枢部分はそれは石をくりぬいて作った構造物で、これがつまり宇宙から落ちてきた隕石なのだろうと思われます。

石は電気?を帯びていて、意思を持っているようです。「私たちが来たのを喜んでいない」とヒミは言います。

 

「石」は最終的に大叔父(=宮崎駿)の頭上に浮かぶ「世界を創造する力をもたらすもの」として登場してきます。「石」は宮崎駿を当人たらしめてきた、クリエイティビティの象徴です。

海の世界をつくり、インコの王国を作った「石」ですが、「石」は同時に気難しいんですね。

石は「悪意」を溜め込むようにも働き、怒りを込めて部外者を排除しようとします。

創造性は往々にして、そんなふうに独りよがりであり、気難しく排他的なものである…ということでしょう。

墓と産屋

石で作られた産屋の中に一人閉じこもって、夏子は出産を待っています。

「産屋」「出産の穢れを忌み、産婦を隔離するために別に建てる家屋」のこと。出産のための場所でありつつ、出産を穢れとみなして隔離する差別的な概念でもあるんですね。

 

産屋は女性が出産する場所であり、穢れを隔離する場所でもあるのだから、みだりに立ち入ることはタブーです。

禁忌を犯せば、それなりの報いを求められることになります。

 

夏子の寝床の上には紙でできた多数の飾りがぶら下がっています。

これは注連縄や祓串につけて垂らす紙垂(しで)であろうと思われます。要は、魔除けです。

眞人を排除するために、紙垂は一斉に眞人に張り付いていきます。その様子は「千と千尋の神隠し」に登場した紙の式神を思わせます。

 

「あなたなぜこんなところへ来たの。帰りなさい、早く」

「あなたなんか大嫌い! 出て行って!」

 

夏子は亡くなった姉を慕っていました。姉を愛するからこそ、姉が愛した勝一を受け入れ、姉が愛した眞人も愛していました。

しかし、眞人は夏子を受け入れようとはしませんでした。それは母を愛するがゆえであって、眞人にとっては仕方のないことではありましたが、夏子にとっては自分を存在から否定される強烈な悪意でした。

 

新しい生活を受け入れるのが嫌で、自分を傷つけ大量の血を流した眞人。

「お姉さんに申し訳が立たない」という夏子の思いは、本音だったでしょう。

このまま自分がいては、姉が愛した眞人が傷ついていく。そう思った夏子は人知れず一人で子供を産むことを決意して家を出ます。

夏子が「海の世界」についてどれほど知っていたのかは不明です。戻ってきたヒサコは記憶を失っていたはずなので、話して聞かされたことはなかったはずです。ただ、大叔父の血を引く夏子は我知らず塔に引き寄せられ、「塔のあるじの声に呼ばれて」異世界の産屋に辿り着くことになります。

 

というか、夏子のこの行動は「自死」のメタファーでしょう。夏子は死ぬつもりで、家を出ている。

産屋は石舞台のような形をしていて、「我を学ぶ者は死す」の墓とよく似ています。命が産まれる場所である産屋は、同時に墓でもある。

死への衝動に駆られた夏子を、とりあえず死なないよう隔離しているのが産屋でしょうか。

 

眞人を傷つけないために家を出てきた夏子だから、眞人が来てしまっては元も子もない。しかも、こんな死の澱んだ場所に。

だから、まったく本心でない「あなたなんか大嫌い」と言ってまで、追い返そうとするのでしょう。

眞人はそれに気づいた…思いとはまるっきり反対のことを言ってまで、眞人を守ろうとする夏子の愛情に気づいた…からこそ、夏子を「お母さん」と呼ぶことができたのだと思います。

 

「大嫌い」という、正反対の意味の言葉を聞くことで、相手の深い愛情に気づく。

これは子供にはできない「気づき」ですね。これはだから、本作でもっとも大きな眞人の成長であると言えるでしょう。

「お産と死」について

ここでは、産屋と墓がほとんど同じものとして描写されています。産屋の石は悪意に満ちていて、墓の石と同じものです。

お産のイメージと死のイメージが強く結びついていて、夏子はその中に囚われています。

 

これは、夏子の母の死のトラウマを引きずったものではないでしょうか?

上で夏子とヒサコの年齢を検討しましたが、前回の年表通り夏子を二十代と見積もっても、やはり夏子の誕生とその母の死は接近する感じです。

もしかしたら、ヒサコと夏子の母は夏子のお産に伴って亡くなったのかもしれません。そういうことは、昔であれば珍しいことではなかったでしょう。

ヒサコは母の死のショックで海の世界にやって来たのかもしれないですね。

 

出産は、ヒサコと夏子の姉妹にとって愛する母の死とつながるものになってしまっている。

だから二人とも「つわりがきつい」し、夏子はどんどんネガティブになって、自らを追放し、墓/産屋に立てこもってしまう。

ワラワラでもあったように、死と誕生は表裏一体。この世界に満ちているそのイメージは、実はヒサコと夏子の母の死から始まっていたものなのかも。

 

ここで「失われたものたちの本」を思い出すと、ここでは主人公のデイビッドが新しい母の息子である「弟」を受け入れられず、「弟」を悪に売り渡すかどうかを試される物語でした。

「君たちはどう生きるか」ではそれは眞人と「まだ生まれていない子供」に関する葛藤なのですが、少女時代のヒサコと生まれたばかりの夏子の間にも、葛藤があったかもしれません。

愛する母の死を招いた妹の存在を受け入れられない葛藤が、ヒサコにもあったのかも。海の世界でヒミになって、ワラワラが上の世界の生につながっている…死が生につながるものでもある…ことに気づいて、ヒサコは成長し、夏子を受け入れる。

そんな、ヒサコを主人公とするもう一つの物語も想像することができます。

ヒミと夏子

「そこへ伏したる我が妹を、息子となる者の元へ帰したまえ」とヒミ。

ここでのヒミは、夏子が自分の妹であることも、眞人が自分の息子であって、夏子が新しい母になろうとしていることも、知っています。

眞人と初めて会った時には、何も知らないふうだったのに。

 

眞人と同年代に見えるヒミが、眞人の母親であると自覚するするのも、自分よりずっと年上に見える夏子を妹と疑いなく認めるのも、通常の道理からは外れています。

この世界におけるヒミはただ10歳頃のヒサコそのままの存在ではなく、「火事で死んだヒサコが10歳頃の姿で転生したもの」であるように思えます。

後の発言からも、ヒミは自分が火事で死ぬ(死んだ?)ことを知っており、それを​避けられない運命として受け入れています。

 

「君たちはどう生きるか」が難しいと言われるのは、こういうところなんだろうなと思います。

登場人物が知っている範囲が、その時々で変わる。

現実世界では、誰もが常識の通り、その人が本来知っているであろうことを知っているように描写されています。

しかし海の世界では、当たり前の原理で行動しているのは眞人だけです。

キリコも、ヒミも、大叔父も、場面ごとに知っていることが変わっていきます。

 

だからやはり、海の世界は眞人の主観的な世界なんですね。

眞人の主観を通した、内面世界。個人的な精神世界。

キリコもヒミも大叔父も「眞人から見た」登場人物であり、客観的な存在ではない。眞人と同等の人格ではないのです。

何度も書いてるように、眞人の見ている夢の世界です。ヒミは眞人の見ている夢だから、眞人が知っていることは知っていて当然です。

 

しかし同時に、ここは石の力によって現実感を与えられた夢の世界です。そこでは夢は個人的な体験にとどまらず、大叔父やヒミ、キリコ、そして夏子と共有するものになっています。

ヒミは眞人の夢の中の存在だけれども、同時に少女時代の母であり、火事で死んだ(死ぬ)母でもあります。

夏子は自らを追放する形で現実世界を離れ、自らの「暗い夢」の中に囚われたのだと言えます。石の力で眞人の夢と夏子の夢がつながり、「会いに行く」ことができます。

だから、眞人とサギ男は普通の方法では夏子のいるところに辿り着くことはできないのですね。ヒミを介して、夢の垣根を越えなければならない。

「クルミわり人形」とつじつまからの解放

近年の宮崎駿監督の大きな発想の転換は、2014年にジブリ美術館で行われた企画展「クルミわり人形とネズミの王さま展」にあると思います。

これはチャイコフスキーのバレエで有名な「クルミわり人形」と、ホフマンの原作「クルミわりとネズミの王さま」を、宮崎駿の魅力的な絵で絵解きする展示になっていました。

 

その中で、宮崎駿監督はホフマンの原作本を「意味が分からない。読みにくい」としきりに書いています。

なんだこれはと頭を抱えて、でもふと気づくと、悩んでいるのは自分だけで、周りの子供の読者たち(とくに女の子の読者たち)は何の迷いもなく、素直に物語を楽しんでいる。

そこから、「つじつまなんかどうでもいい」ということに気づかされている。

 

「クルミわり人形とネズミの王さま展」パンフレットより

 

この「発見」は、本作における大きな転換と言えるんじゃないでしょうか。

つじつまを合わせない。むしろ積極的に、つじつまを合わせない方向に進んでいく。

「物語に太い幹が通っていれば」それでいい、という境地に至っている。

大叔父

石によって眠らされた眞人は、夢の中で大叔父のいる場所を訪ねます。

これはまさに、夢の中で見る夢。大叔父に会うためには、また別の夢の中に入らなくてはならない。

 

石に穿たれた台形の通路。電気を発する石。

アーチが並ぶ壁に挟まれたがらんとした空間。

どこか「駅の待合室」を思わせるこの広い空間は、「千と千尋の神隠し」にも似た雰囲気の場所が出ていました。

これは、宮崎駿の夢の中の原風景なのではないでしょうか。

 

大叔父は、テーブルの上に積まれた微妙なバランスを保つ積み木を調整しています。

「これで世界は一日は大丈夫だ」

たった一日しか持たないのですか?」

 

大叔父は積み木を積むことで「世界のバランスをとっている」のですが、この「世界」というのはどこまでを指しているのでしょう。

積み木が崩れることで壊れるのは海の世界で、現実の世界に影響はないので、積み木が影響するのは石の力で大叔父が作った海の世界だけであるように思えます。

物語の第一義的には、ここで言及しているのは海の世界だけであるようです。

それで矛盾はないのですが、ただ、眞人が大叔父の仕事を継承してこの世界を守り続けなければならない理由は、かなり薄いものになる気がします。

インコとペリカンしかいない世界を、なぜ眞人が(現実世界の生活を捨てて)守らなければならないのか?というのはかなり疑問に感じます。

(ワラワラのシステムまで含めれば、この世界の重要度は増すのですが、その場合崩壊後にワラワラはどうなったのか?が疑問になります。)

 

あるいは、海の世界だけではなく、現実の世界も含まれるという解釈もあります。

異世界のバランスを保つことが現実世界のバランスにもつながっていて、むしろそれが大叔父が世界を作った理由である、という解釈です。

現実世界が世界大戦で崩れそうになっているのを、大叔父が積み木のバランスをとることでギリギリ保たせている…のかもしれません。

 

積み木は崩れてしまいましたが、現実世界の均衡はまだ「一日は大丈夫」の中にあるのかもしれない。

この世界の一日は、現実世界のどれくらいの時間に相当するのでしょう。

1900年頃にこの世界に来た大叔父が過ごした時間は、不死身になったのでない限り、それから経過している実時間である40年余りよりも短いものであるはずです。

ということは、この世界での一日は現実世界ではもっと長い時間に当たるはず。

 

アーチを抜けると、風が吹く草原に出ます。海を見下ろすその場所は、満天の星が降る夜であり、青空の下に花が咲き誇る昼でもあります。

風、草原、見渡す海、といった風景も、「魔女の宅急便」などこれまでの宮崎駿の作品と共通するイメージになっています。

浮かぶ石は、ベルギーの画家ルネ・マグリットの絵を思い出させます。

仕事を継ぐことについて

「眞人、私の仕事を継いでくれぬか?」と大叔父。「仕事を継ぐものは私の血を引くものでなくてはならない」

継承というテーマは、作品ごとに引退を表明する宮崎駿と、その後に残されるスタジオジブリの現状を思うと、かなり生々しいものがあります。

​本作が公開してしばらく経った9月21日に、スタジオジブリが日本テレビの子会社になることが発表されました。

 

映画では、眞人は継承を断り、積み木は崩されて、石は散り散りになって消え去りました。

現実では、スタジオジブリは誰にも継承されず、大企業の傘下に入ることになりました。「血を引く息子」である宮崎吾朗氏は継承を固辞したようです。

 

まあ、その辺りの生々しい経緯が、そのまんま映画で描きたかったことという訳ではないと思います。それではあまりにも、安っぽすぎる。

しかし、本作を宮崎駿の自伝的作品として描く以上、「歳をとって引退すること」「それまでやって来た仕事を、誰かに引き継ぐのかそれとも畳むのか、落とし前をつけること」には直面せざるを得ないのでしょう。

 

そして、「作品づくりの面で後継者と言える存在には、結局出会えなかった」というのが、宮崎駿の本音なのだろうというのは、もうここ何年もの言動を見ていると分かりますね。「育てられなかった」という言い方もできるけど。

日テレへの売却はあくまでも社員を経済的に困らせないためのビジネス的な対処であり、自分のような(あるいは自分を超える)クリエイターが仕事を引き継ぐということは、もうとっくの昔に諦めている感があります。

(まあ、それは正直しょうがないと思うけど。手塚治虫や宮崎駿の後継者になれる人なんて、誰もいるはずがないわけで。彼らは「天才」なのだから。)

大叔父は誰なのか?

ここまで、大叔父を宮崎駿が投影されたものとして解釈している訳ですが。

しかし、自伝的という点では、宮崎駿が投影されているのは眞人です。視点人物だし、夢の主だし。

大叔父は眞人の運命を翻弄する側の人物で、そういう意味では「父親のメタファー」のようでもあります。

ただ、父親なら劇中にははっきりと実際の父親を投影した勝一がいるし、宮崎駿の父勝次氏は割と軟派なキャラクターで、大叔父と共通するイメージはないようです。

 

 

高畑勲が大叔父という説もあります。

ビジネスを度外視した立場で黙々と自分の世界を創造する知識人…というイメージは確かに、共通するところがあります。

ただ、高畑勲と宮崎駿なら賢者と少年というよりは、「同志」とか同じ釜の飯を食った「仲間」のイメージです。

 

やはり、宮崎駿監督の過去作のイメージを散りばめた作品のラスボスとして登場する、「世界を創造する、引退間近で継承者を探している男」は宮崎駿監督に見えます。

大叔父に父親や高畑勲のイメージも、まぶされているのだろうけど、それでもやはり基本的にはこれは「宮崎駿」なのだろうと思えます。

自分を投影した作品においては、登場人物のすべては多かれ少なかれ、自分を投影したものであるのでしょう。眞人だけでなくヒミも「HM」であるように。

一つ積み木を足す

「君は積み木に一つ足すことができる」と大叔父は言います。「それによって、世界をもっと穏やかなものにすることができる」

なんか突然異様にわかりやすい図解を使って、「積み木を一つ足す」ことが示されています。この映画の他の分かりにくさを思うと、不思議なくらいの「説明的」シーンです。

 

ここでの「後を継ぐ」は、大叔父の仕事に「一つ積み木を足す」という意味にとどまっています。

この場合、大叔父の作った「海の世界」を基本として、眞人が新たに要素を一つ足すことで、より良い世界にアレンジする…というようなイメージかと思われます。

ペリカンがもうちょっと幸せに過ごせるようにするとか、ワラワラが食われないようにするとか、眞人ならそんなアレンジをするでしょうか。

 

しかし、後で出会った時には、「大叔父が積んだ積み木に一つ足す」ではなく、「それとは別にまったく新しい13個の積み木を、3日に1個ずつ積む」という話に変わっています。

これは、大叔父の世界にアレンジを加えるのではなく、眞人がまったく別のオリジナルの世界を新たに創造することを意味します。

その場合ワラワラのシステムがどうなるのかは不明ですが、新たな世界が創造された時点で、ワラワラのシステムもそこに生じる(移る?)のではないかと思われます。

 

眞人は「それは木ではありません。墓と同じ石です。悪意があります」と見抜き、大叔父は「その通りだ」と言います。「それがわかる君にこそ継いでほしいのだ」

眞人が見抜いたからこそ、大叔父は「一個足す」ではなく、眞人にまったく新しい世界を創造させることを決めたのかもしれません。

 

その7に続きます。次で終わるかな?