これは宮崎駿監督作品「君たちはどう生きるか」について、時系列に沿って解析を試みる記事です。
独自解釈です。公的なものとは違う可能性が大いにありますので、ご了承願います。
「君たちはどう生きるか ネタバレ解説1」、「ネタバレ解説2」、「ネタバレ解説3」、「ネタバレ解説4」、「ネタバレ解説5」、「ネタバレ解説6」の続きです。
長くなりましたが、これでラストです!
インコ王国
夢の中で大叔父と会っていた眞人は、インコの台所で縛られて目覚めます。
包丁を研ぐインコの料理人。どうやら眞人を料理して食べるつもりみたいです。
しかしどうも、インコの国のルールはよく分かりません。人間を見つけたら片っ端から食べちゃう野蛮なところと、王様がいる文明国のような面が、混然としています。
サギ男に助けられた眞人は、インコ王国の集会を見ます。
インコ大王は、ヒミをダシにして大叔父と取引をしようとしているようです。
集会の観衆たちは、「DUCH」と書かれたプラカードを持っています。
この「DUCH」もよく分からないのですが、「神曲」などの例に倣ってイタリア語で翻訳すると「公爵」と出ます。
ただ、「公爵」はイタリア語では正確には「DUCA」のようで、「DUCH」でもいいのかどうはよく分かりません。
他に、「DUCE(ドゥーチェ)」だと「イタリア語で国家指導者を指す称号の一つ」になります。
独裁者ムッソリーニがこの称号を使用したそうなので、インコ大王のイメージとは合います。インコなので馬鹿なので、単語を真似てるけど間違えて覚えてるという可能性もあります。
インコはパンフレットでは「大衆の戯画」とあります。
海の世界を眞人の目を通して見た現実世界の戯画化と見るなら、集団で熱狂しやすく、しかし基本的に愚かであるインコたちは「一般大衆のイメージ」と言えそうです。
インコであるというのは、「人まねしかできない」というところかな。知性がある訳ではなく、ただ人の真似をしているだけ。
しかし、このインコもペリカンと同様、「大叔父が持ち込んだものが増えた」んですよね。
大叔父は、何を思ってインコを持ち込んだのか…?
インコが人間の真似をした王国を築き、人を食ってることは大叔父にとって満足のいく結果なのか…?
ペリカンはまだしも、「わらわらの量をコントロールする=地上の人間の量をコントロールしたかった」のかな、と思えたけど、インコに関しては狙いがよく分からない。
大叔父を宮崎駿や高畑勲(のようなキャラクター)と捉えれば、インコを持ち込んだのはただ「面白かったから」と捉えるのが、いちばん納得のいく感じだったりはします。
新たな世界を一から創るというチャンスを得て、人間ではなく新たに文明を築くものを選べるという時に、インコだったら面白いんじゃないか?という単なる好奇心。
飛べるし。カラフルで可愛らしいし。喋るからまあ、賢いし。
人間の文明は戦争ばっかりでどうしようもないけど、インコで新たに始めれば、もうちょっとマシなものになるかもしれない…。
インコは結局、人間を模した王様を中心にする中央集権国家を作ってしまい、あんまり進歩のある感じにはならなかった。
でも、上の世界の人間が世界大戦をやってることを思えば、「まだマシ」なのかもしれないですね。だから、大叔父はインコの王国を許容している。
それに、愚かな育ち方をしたとはいえ、一つの文明に成長したものを「失敗だから」という理由で消し去るなんてこともできない訳で。
そこで創作論に戻せば、宮崎駿がこれまで創ってきた世界は結局のところ「インコの王国程度のものだ」という自虐なのかもしれない。
そんなことないよ!と言いたくなるけど、宮崎監督は自作への評価はいつも辛いので。自分からは不完全な点ばかりが見えて、「所詮はインコの王国だ」と言いたくなるのかもですね。
まあ、「俺が作った世界」をあんまりカッコよく描かれてもちょっと引くし、ある種の照れと冗談でもって、「宮崎駿の世界」を「愚かなインコの王国」にしたんじゃないでしょうか。
あえてマンガっぽいデフォルメされたデザインになってるのも、「所詮はマンガだ」という諧謔かもしれないですね。
インコ大王と大叔父
眞人とサギ男は不気味な生き物だらけの下水道を通り、壁を伝う木の根を登って、インコ大王を追いかけます。
この辺りの描写は「ナウシカ」や「ラピュタ」を思わせます。
眞人とサギ男を階段から落とし、インコ大王は大叔父の住む領域へ。
2羽の部下に眠るヒミを運ばせます。
この透明なカプセルのようなヒミのひつぎは、「白雪姫」のガラスのひつぎを思わせます。本作に見られる「白雪姫」モチーフの一つです。
熱帯のような庭園を飛ぶインコを見て、「天国だ」「ご先祖さまだ」とインコたち。
鍛冶屋のところにいたインコは普通に飛べていましたが、城の中の衛兵であるインコたちはもはや飛ぶ能力を失っているようですね。
ペリカンも「生まれる子は飛ぶことを忘れ始めた」と言っていました。この世界に順応して暮らす鳥たちは、次第に飛ぶことを忘れ人間に近づいていくようです。
飛ぶことへの憧れは、宮崎アニメの代名詞のようになっていました。
本作では、人間の真似をする鳥たちは、本来の美点である飛ぶことを失い、つまらない存在になっていきます。
「文明化」されることで、どんどん不自由になり、醜く滑稽な存在になっていく。これも一貫した文明の捉え方ですね。
インコ大王は大叔父に、眞人とヒミが禁忌を破った代償を求めます。
大叔父は「眞人に私のあとを継がせたいのだ」と言って、「時間をくれ」と言います。
インコ大王はこの機に乗じてインコ王国の地位向上を図りたいようですが、しかし大叔父への具体的な要求がないので、どうしたいのかはよく分かりません。
インコ大王は「世界を守らねばならん。このままでは滅びるぞ」と言っています。
「世界を守る」「このままでは滅びる」という使命感によって、逆に世界を滅ぼしてしまう。勇ましいことを言い出すと、だいたい自滅する。現実世界の写し絵ですね。
目覚めたヒミに大叔父は「眞人はいい少年だ。帰さねばならないようだね」「ヒミもお帰り」と話します。
眞人を「帰さねばならない」のと、「後継者にしたい」というのは矛盾するようです。
13個の積み木
眞人とサギ男は夢で見た台形の通路を通り、再び大叔父の領域へ。
インコ大王はその後をつけていきます。
なんでわざわざ一回戻って尾行し直すのか?と思うけど、インコ大王だけでは「石のある場所」までは辿り着けないのでしょう。
花の咲く庭で、眞人はヒミと再会します。
眞人はヒミが母親だと気づいているし、ヒミも眞人が息子だと気づいている。でも、お互いにそのことは口にしない。
秘密を共有することで、かえって親密さを確かめ合うような、そんな関係になっています。
花が閉じていき、サギ男は「夜が来る」と言っています。
大叔父の丘へは流れ星の降る夜を通っていくのですが、その先はまた昼になっています。
足元の石が「石の積み木」であることに気づいて、眞人は一つを拾います。
「触らない方がいい。まだ何か残っているから」とヒミが言うのですが、眞人は従わず拾った石をポケットに入れてしまいます。
これもよく分からないですね。なぜ拾ったのか。しかもヒミの忠告を無視してまで。
浮かぶ石の下で大叔父は「悪意に染まっていない石」を見せます。
「遥かに遠い時と場所を旅して見つけてきた」
「全部で13個ある」
「3日に1つずつ積みなさい。君の塔を築け」
大叔父は時の回廊の扉を通って、様々な時代、様々な世界を巡って、石を探してきた。
大叔父が石を積んで海の世界を築いたように、眞人も13個の石を積むことで、独自の世界を築くことができる。
ここは、観ていて素直に真っ先に思ったのは、石を積んで世界を創ることは作品作りのメタファーなのだろう…ということでした。
1つの映画を作るというのは、それはもう1つの世界を作るようなものだから。
13は、宮崎駿の監督長編作品の数。
映画作品が「ルパン三世/カリオストロの城」から「君たちはどう生きるか」までで12本。
それにテレビだけど完全な「単独監督長編作品」と言える「未来少年コナン」を加えて13本。
「ON YOUR MARK」を加える説もありますが、短編を入れると「毛虫のボロ」などのジブリ美術館上映作品が大量に増えてしまうので、違うかなと。
あるいは「13個目は次に作られる作品」という可能性もあります。
本作最大の謎は、宮崎駿作品史上初めてラストに「おわり」がないこと。
だから、「君たちはどう生きるか」は実はまだ終わっていないのかもしれない。
宮崎駿監督の第13作は「続・君たちはどう生きるか」で、それでようやく「おわり」になる。宮崎駿監督は今度こそ本当に引退する。
…というようなことも、考えられるんですよね。
13個の物語の「原石」を積み上げて、「君の塔」すなわち自分だけの物語の世界を創造する…と考えれば、これは宮崎駿の人生の「仕事」を象徴するものです。
しかし、眞人は断ってしまうんですよね。「石を積む」ことは拒否する。
だから、宮崎駿監督の「仕事」にはつながらなくなるのだけど。
でも映画に「後編」があるとしたら、まさにそこが描かれるのかもしれないですね。「石を積む」のではなく、自分なりのやり方で「塔を創る」ことが描かれるのかもしれない。
そこで、「持って帰った石」が生きることになったりして…
(あ、ヤバい、どんどん続編決定みたいな思考になってきた)
悪意の印
眞人は傷を見せ、「この傷は自分でつけました。僕の悪意の印です」だから「悪意に染まっていない石」には触れられないと告げます。
ずっと自分がつけた傷について話すことができなかった眞人の、これが本作における「成長」であり、「物語的な達成」ですね。
自分の悪意に、向き合う。直視する。
眞人が自傷行為を行ったのは、(いろいろ複合しているけれど、主に)「自分がいかに傷ついているかのアピール」でした。
母を失った悲しみもそこそこに、新たな母を押し付けようとする周囲への反発。母を愛するがゆえの、夏子への反発。
「こんなに傷ついている!」と周囲に分からせるために、本当に傷をつけ血を流してみせる行為。
自分を被害者の立場に置いている限り、この行為を「悪意」だと自覚することはできません。どこまでも「自分は傷つけられた被害者」であり、悪いのは「傷つけた周囲の人々」であるという思い込みから脱却できない。
でもそれだと、周囲を傷つけ、新たに傷つく人を生んでいく、傷の連鎖は止められない。
眞人が傷ついていることも、もちろん嘘ではないのだけれど。
でも、それをことさらに強調し、周囲の誰かを傷つけることを許容するなら、それは結局のところ悪意に過ぎないということ。
そして、悪意によっては「塔を築く」ことはできない。何も生み出せない。
「自分が弱者であることを強調して、マウントを取ろうとする行為」が、現代の世の中には目立っていると思うのです。
いわゆる「親ガチャ」の発想とか、「誰かが傷つく」ことを過剰に回避した行き過ぎたポリコレ、懲罰的なキャンセルカルチャーなどもその発想からつながっているように思うのですが。
「気持ちは分かる」けど。本作でも、眞人の「気持ちは分かる」ことをきちんと描いているように。
でも本当に、それって何にもつながらない。何も生み出さない。周囲には傷を増やしていくし、自分自身も前へ進めない。
「君たちはそういうふうに生きるべきではない」というのが、本作を通して伝えたい結構大きなポイントではないかな、と思います。
殺し合い奪い合う愚かな世界
「殺し合い奪い合う愚かな世界に戻ると言うのか」「じきに火の海になる世界だ」と大叔父。
この辺、エヴァのゲンドウっぽいですね。人と人とが分かり合えない現実世界を捨てて、争いのない新世界を創ろうとする。人類補完計画。
大叔父の発言は、眞人を「帰さねばならない」というのと矛盾するようではあります。
海の世界はいろんな時間が入り混じった世界で、この世界の「現在」がいつかは分からないのですが。
大叔父は日本が「火の海になる」ことは知っているようです。ということは、眞人が来た1944年より少し先までは知っている。
でも、その後の復興は知らない…のかな。
あるいは、現在に至る社会情勢を含めて「殺し合い奪い合う愚かな世界」と言っているのかも。作り手の思いとしては、そこまで含まれていそうです。
人間世界は戦争で悲惨な殺し合いをしているのだけど、海の世界もインコは人食いだし、ペリカンはワラワラを食ってヒミに焼かれるという、「地獄」と形容されるところになっちゃってますね。
だから、大叔父にしても「成功している」訳ではない。
ただ、何とかして「より良い世界」を作りたいと願ってはいるのですが。
友達を作る
「友達を作ります。ヒミやキリコさんやアオサギのような」と眞人。
自分だけの世界で理想の世界作りに耽溺するのではなく、世界を生きて人と関わっていく、という表明です。
これも「エヴァンゲリオン」旧劇場版の結末、「オタクを否定して外に出ることを促す」に近いものを感じます。
「友達を作る」って、割と凡庸な…というか、優等生的な結末ではありますね。
「子供達に真っ当な物言いを届ける」ことが大きな狙いになっているので、当然のことかもしれないですが。
ちょっと思うのは、この結末の性急さも宮崎駿らしいというか。
割と結末は取ってつけたようであることが多いんですよね、これまでも。
「崖の上のポニョ」でそれまでの死の雰囲気を吹っ飛ばして唐突なハッピーエンドとか。
「ハウルの動く城」の「この馬鹿げた戦争を終わらせましょう」とか。
結末は割と「物語を終わらせる方便」みたいなところがあって、それ自体に強いこだわりがある訳ではない…と感じることが多いです。本当はどうだか、分からないけど。
エヴァとの関連で考えるなら、アニメ(というか他の表現を含む創作物全般)は、時として辛い現実からの逃避として働く場合がある。
それは創作物の効能ではあるのだけど、行き過ぎると問題がある。現実に向き合おうとしない引きこもり…のような。
だから、創作者(特にアニメの)は、常にそのジレンマに直面することになる。多くの人を楽しませ救いにもなり得る創作物を作りたいという思いと、でもそれが行き過ぎると問題になる…というジレンマに。
「となりのトトロ」の DVDを何十回も見せたという親に苦言を呈し、そんなことするくらいなら外に出ろ!と言いたいのも宮崎駿なんですよね。自分自身はスタジオにこもって絵を描いてるのだけど。
石の消滅と世界の崩壊
「何という裏切りだ!閣下はこんな石ころに世界の運命を委ねるおつもりか!」とインコ大王が暴走して、積み木を叩き割ってしまいます。
結果、浮かぶ石は四散。海の世界は崩壊を始めます。
世界の崩壊はやはり観念的なイメージで、思い出したのは「うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー」のバクが夢の世界を壊すシーンですね。
夢の世界の崩壊というイメージは共通するものがあります。
インコ大王は愚鈍な行動ですべてぶち壊すのですが、しかし眞人が積み木を積まないということは、大叔父によれば「もってもあと一日」とのことだったから、どのみち海の世界は滅びていたのかもしれない。インコ大王がキレるのも無理はない感じもあります。
インコ王国の崩壊はともかくとして、気になるのはワラワラの動向です。上の世界に命をもたらすはずのワラワラたちはどうなったのでしょう?
崩壊シーンで描写されるのは塔だけで、ワラワラがいた海の領域は描写されていないので、その辺りがどうなったのかは不明です。
ワラワラが海の世界と共に滅びてしまうなら、以降は上の世界で子供が生まれなくなってしまいます。
それが少子化だ!という解釈もできなくはないですが。
崩壊と共に多くのワラワラが上の世界に逃れたのが「ベビーブーム」で、それ以降はワラワラがいないので少子化になっていく…なんて解釈もできなくはないです。
それはそれで面白くもありますが、しかし「大叔父が海の世界を作る前」も太古から人間は生まれてきた訳なので、「大叔父がワラワラのシステムを作った」という訳ではない…のではないかな。
海の世界が崩壊したら、ワラワラはまた別の世界へ引っ越していく。「となりのトトロ」で、空き家じゃなくなったサツキたちの家からススワタリが引っ越して行ったように。
帰りのドアへ
眞人とサギ男、それに夏子は132のドアへ。
ヒミとキリコは559のドアへ向かいます。
「私のドアは別だ。眞人のお母さんになるんだからな」
「素敵じゃないか。眞人を産むなんて」
「火は平気だ。お前いい子だな」
少女の年齢で「眞人のお母さんになる」と確信していると思うと、なんだか気持ち悪いような印象になってしまいます。眞人を産むために、火事で死ぬのも厭わない…とまでなると尚更です。
ここでのヒミは、やはり見た目のままの「少女の頃の母」ではないんですね。
火事による死を「もう回避できない確定した事実」として経験済みの、「自分の死を自覚し、受け入れた存在」になっている。
生身の人間ではない。幽霊でもないけれど、何か「死んだ母」という概念的な存在というか。
559のドアへ帰っていくのは、「ヒサコの体を返しにいく」ようなイメージですね。
次へ命をつなぐために、自分の命を燃やすことを肯定する。
「ヒサコと夏子の母の死」が上に書いたようなことだったのであれば、これはヒミにとっても、母の死を肯定し受け入れることでもある訳です。
それは女性だからという訳でもなくて、すべての生命は基本的にそういうものだとも言える。
すべての生命は、死によって命を次へつなぐ。
死があって初めて、生がある。死と生はつながっているもの。
ワラワラに象徴される死生観です。
石を持ち帰る
崩れおちる塔から脱出した眞人、サギ男、夏子。
インコたちとペリカンも続々と脱出。インコは元の鳥に戻っていきます。
インコは常に辺りを白い糞で汚していくのですが、やけに鳥の糞描写にこだわってるのも本作の特徴です。
「おい眞人、お前あっちのこと覚えてるのか」
「まずいよ、忘れろ」
(眞人が持ち帰った石を見て)「ま、大して力のある石じゃない。だんだん忘れるさ」
「あばよ、友達」
すべての人は、こっちの世界に戻った時点であっちの世界のことは忘れてしまう。
(多くの場合に、夢を忘れてしまうように)
しかし、あっちの世界の石を持ち帰ると、忘れないでいられるらしい。「だんだん忘れる」が、それはどんな記憶であっても同じでしょう。
サギ男は、このルールの適用は受けないらしい。
この「忘れる」というのが、世界の広がりを持たせていると思います。
つまり、誰しも子供の頃には、こんな不思議な冒険をしたことがあるのかもしれない。
誰しも、忘れているだけで。
子供のためのお話に出てくる冒険は、実は本当なのかもしれない…
石を持ち帰るというのは、そんな中ではやはり逸脱で、かなり掟破りの行為と言えます。
魔法世界というのは、いろいろと細かなルールが決められているもの…というのがお約束ではあるのだけど、でもただそれに忠実に従うだけというのもつまらない。
あえて、自分らしい「反逆」を一つ加える…というところが、宮崎駿らしさであるような気もします。そんな簡単にルールに従ってたまるか!という。
僕が愛したあの人は 誰も知らないところへ行った
あの日のままの優しい顔で 今もどこか遠く
雨を受け歌い出す 人目も構わず
この道が続くのは 続けと願ったから
また出会う夢を見る いつまでも
一欠片握り込んだ 秘密を忘れぬように
最後まで思い馳せる 地球儀を回すように
〜米津玄師「地球儀」
今は誰も知らないところへ行ってしまった「僕が愛したあの人」との間に共有した秘密を忘れないように、「一欠片」握り込んだ。
たとえ世界のルールがどうであれ、「あの人」を覚えておくのだという、強い意志。
この「母への強い思い」が、本作の「太い幹」ということになるのでしょうね。
「地球儀」と「小岩井農場」
米津玄師の「地球儀」の歌詞は、宮沢賢治の長編詩「小岩井農場」の影響を受けているということを、米津本人が語っています。
「小岩井農場」は、岩手県の小岩井農場を訪れた宮沢賢治が自然の中の道を歩く間に心に浮かんだ心象風景を書き留めた詩です。とりとめなく、風景の描写と心に浮かんだ思索が入り混じって描写されていきます。
何よりもこの「心象風景のとりとめないスケッチ」であることが、「君たちはどう生きるか」と「小岩井農場」との共通点になっていると思います。
その点で、米津玄師はやっぱり鋭いと思う。映画の本質を見極めています。
小さな自分の 正しい願いから始まるもの
ひとつ寂しさを抱え 僕は道を曲がる
というフレーズが特に引用部分。
様々な哲学的・文学的な幻視を感じつつも、仏教に根差した「正しい願い」から現実に即して奮い立つのが宮沢賢治の流儀です。
そして、「さびしさと悲しさを焚いて人は透明な軌道を進む」。
ファンタジーの世界から現実への帰還を描き、母を失った寂しさを胸に前へ進む「君たちはどう生きるか」の結末と、確かに共通点を感じます。
「おわり」ではない?
扉を閉めるシーンで映画が終わるのは、定石に沿ったとても丁寧な演出だと感じました。
ただ、本作は「大団円」感は薄い。
「未来少年コナン」のあの伝説的「大団円」感をはじめとして、常にものすごい納得いく「終わった感」を醸し出してきた宮崎駿監督作品の歴史を見ると、本作のあっさりした終わり方は妙に居心地の悪いものを感じます。
何か、終わってないような。
そして、宮崎駿監督作品の長い歴史上で初めて、本作には「おわり」もしくは「おしまい」の文字がない。
ファンタジーから現実への帰還という本作の着地点からも、「おわり」があることがふさわしいと思えるのに。あえて今回に限って、ない。
あんなに頑なに、映画の最後に「おわり」を入れてきたのに。誰もが「最後の作品」だと思う映画に、なぜ「おわり」がないのでしょう。
解釈は3つ。
1つは、自伝的作品だからこそ、主人公の人生はここで終わりじゃない、むしろ始まりであって、ここから長く続いていく…という意味を込めて、「おわり」という文字を被せることを避けた。
一定の説得力はありますけどね。ただ、それをいうならこれまでの映画の主人公たちも、彼らの人生としてはそこで「おわり」じゃない、そこから始まるものだったのは、同じじゃないでしょうか。
もう1つは、「最後の作品」だからこそ、あえて「おわり」を入れなかったというもの。
自分の人生最後の作品を、あえて明確に完結させず、開かれたものにしておきたかった。そこで終わって閉じてしまうのではなく、そこから永続的に続いていくような…。
ちょっと感傷的すぎるかな。それに、これが最後とも限らない雰囲気も…。
最後の1つは、既に上に書きましたけど。
ただ単に、本当に「終わってない」というもの。本作は実は「前編」であって、あれはラストシーンではない。ただの中入りに過ぎない。
この続きを描く映画がもう1本あって、「おわり」はその最後につけられるのだ…という解釈ですね。
なんか、これがいちばん素直な気がしてきたな…。
実はもう後編できてるとか? 7年もかかったのはそういうことで…。情報シャットダウンは実はまだ続いていて…。
まあ、素直な後編ではない、という場合もあります。眞人の物語を続けるのではなく、物語としてはまったく別のものだけど、何らかのテーマ的な部分で「対になる」作品をもう一つ、用意しているとか。
どうしても2本の映画を使わなければ描けないテーマがあって、その2本で1セットだと考えるから、今回は「おわり」を入れなかった。
入れるなら「つづく」だっただろうけど、それだと完全にネタバレになりますからね。
どちらにせよ、「もう1本」の構想は既に出来上がっていて、だから積み木の石の数は12ではなく、13個だった。
いや、すいません。単なる憶測というか、願望です。
やっぱり、もう1本観たい。続編でもそうじゃなくてもいいから、13本目を切望します!