これは「君たちはどう生きるか」の細かい部分について、時系列に沿って検討した記事です。

いろいろ書いてますが、あくまでも独自解釈です。公的なものでは全然ありませんので、ご了承ください。

映画全体のレビューはこちらです。こっち先に読んでいただく方がわかりやすいかもです。

どっちの記事も、完全にネタバレです。ネタバレせず映画を観る楽しさを最大限に追求し実現してくれた稀有な作品なので、映画を観てない人はこんな記事読まずに今すぐ映画館へ走ってほしいと思います。観た後で読んでください!

本記事は映画を観た人限定です。よろしくお願いします。

病院の火事

サイレンから始まる本作。

ただしこれは空襲警報ではなく、病院の火事を知らせるサイレンです。

これは「戦争の3年目」なので昭和18年ということになり、その年には東京への空襲はありません。

 

病院の火事を知り、眞人は父と共に階段を駆け上がります。

父も眞人も、急ぐ時には四つん這いになって階段を上がるんですね。細かいですが、親子の相似を感じさせる描写です。

 

逃げ惑う街の人々は不気味にデフォルメされた独特の表現になっていて、これは過去の宮崎アニメでも見なかった表現です。

眞人の心情を反映して、不安や恐怖が人々の姿に表されています。また、現実なのか、眞人の悪夢なのか曖昧な表現でもあります。

この火事の記憶は長らく眞人のトラウマとなるので、その感じが映像にも反映されています。

人は機械のように録画するのではなく、自身の心象風景として現実を記憶するものです。それを表現できるのが、実写には難しいアニメーションの真骨頂であると言えます。

時代背景について

「戦争の3年目に母さんが死んだ」

「4年目になって父と東京を離れた」

太平洋戦争の開戦は1941年(昭和16年)なので、3年目は1943年(昭和18年)

4年目は1944年(昭和19年)

劇中でサイパンが陥落したことが言われていて、これは1944年7月なので、劇中の主だった部分は1944年夏の出来事になります。

 

眞人の母ヒサコがなぜ病院にいたのか…については、詳しいことはまったく説明されません。

が、これまでの宮崎アニメ的にも、後述する宮崎家の実際から推測しても、おそらくは結核で長期入院していたのだと思われます。

 

戦車の描写は、毎年1月8日に代々木練兵場で天皇も臨席しての観兵式が行われ、そこで戦車の行進も行われているので、1944年1月8日ということになるのかもしれません。

「黒沼」は栃木県?

汽車に乗って、眞人と父が降り立つのは「黒沼」駅。

バスの行き先は「大沼町」となっています。

 

宮崎駿監督自身は1941年生まれで、1944年にはまだ3歳。眞人はだいぶ年上の設定です。

宮崎駿監督の父・勝次氏は、数千人の従業員を擁する宮崎航空興学の役員で、戦闘機の部品を作る工場を経営していました。

 

勝次氏は戦争中に栃木県鹿沼に工場を建てています。

宮崎駿監督は1944年に家族と共に鹿沼に疎開しています。

鹿沼に住んでいたのは「4歳〜5歳ぐらいまで」とのことで、それ以降は宇都宮に移り、小学四年生になって東京に戻っています。

宇都宮の古民家は現在も残っていて、ギャラリーとして使われているそうです。

映画に登場する「黒沼」や田園風景、お屋敷などは、栃木県の鹿沼や宇都宮がイメージの元になっていると言えるでしょう。

 

「黒沼駅」「大沼町」からつながる沼のイメージは、物語の中で異世界につながるイメージになっていきます。

異世界につながる塔は干上がった池の跡に建っていて、その土地の地面はぬかるんで沼のようです。

異世界に移行する際には、足元が溶けて、底なし沼に沈んでいくような表現になっています。

池や沼につきものの鳥であるアオサギも、沼のイメージからの派生かもしれないですね。

異世界では、キリコが「沼がしら」と戦ったと言っています。

 

異世界が沼のイメージに彩られているのは、「千と千尋の神隠し」も同じです。

ここでは、電車の駅に「沼原」「北沼」などの駅名があり、銭婆の住んでいるのは「沼の底」駅です。

「沼」という言葉、そこから派生するイメージは、宮﨑駿作品における異世界のキーワードになっているように思います。そこには幼い頃に関連した「鹿沼」の記憶が関係している…のかもしれません。

父・ショウイチと宮崎勝次氏

母の死後、たった1年でその妹と再婚し、ちゃっかり子供まで作っている、眞人の父・ショウイチ

戦闘機作りで儲けつつ、サイパン陥落を笑い飛ばし、勤労奉仕も馬鹿にして、学校なんか行かなくていいと言い放つ。

この時代にしてはアナーキーで、享楽的な人物として描かれています。

 

このキャラクターは、かなりはっきりと宮﨑駿監督の父・勝次氏が投影されています。名前もほぼそのままですね。勝次と勝一。

戦闘機の部品を作る工場を経営する宮崎家は、戦争によって大いに儲かったわけですが、勝次氏は軍需産業で儲けることに特に疑問を感じることもなかったようです。

 

「戦争に行きたくないと公言し、しかも、戦争で儲けた男。矛盾が平気で同居している。おやじは、そういう男でした」

「軍需産業の一翼を担ったことについても、不良品をつくったことについても、戦後になって罪の意識は何もなかったですね。要するに、戦争なんてバカがやることだ。でも、どうせやるなら金儲けしちゃえ、と。大義名分とか、国家の運命なんかにはまったく関心がない。一家がどう生きていくか、それだけだった」

「若いころから、おやじを反面教師だと思っていました。でも、どうも僕は似ていますね。おやじのアナーキーな気分や、矛盾を抱えて平気なところなんか、受け継いでいる」

(徳間書店「出発点1979〜1996」より)

 

「父が死んでしばらくして、小津安二郎の『青春の夢いまいづこ』という映画を見て呆然としました。主人公の青年が父とそっくりなんです。(中略)アナーキーで、享楽的で、権威は大嫌い。デカダンスな昭和のモダン・ボーイです」

「親父なんか二回も結婚しているのですからね。両方とも大恋愛結婚だったというし」

(文春文庫「腰ぬけ愛国談義」より)

二人の母について

宮崎駿監督の母・美子氏は、山梨県の旧家の生まれ。武田信玄の家来を祖先とする一家だそうです。

お屋敷のモデルには、この山梨の家も影響していそうです。

 

美子氏は上京して勝次氏と出会い、恋愛結婚します。

なのですが、実は勝次氏にはそれ以前に最初の奥さんがいました。大恋愛の末に学生結婚したものの、すぐに結核で亡くなってしまったそうです。

その最初の奥さんの死から1年も経たずに美子氏と恋愛結婚することになったので、周囲も驚いたとか。

この女性は宮崎駿監督が産まれる前に亡くなっているので、映画と違って母親という意識はなかっただろうと思いますが。

 

美子氏は1947年に結核にかかり、9年もの長い間、病床に伏すことになりました。勝次氏はその間も女遊びをやめなかったそうですが。

6歳から15歳という多感な時期に母と触れ合うことができないという体験は、宮崎駿監督にとって大きなものだっただろうと思います。

その体験は「風立ちぬ」「トトロ」、そして本作にも強く現れています。

美子氏はその後無事に回復して、1983年に71歳で亡くなっています。

ナツコ

母の死の悲しみがまだ癒えないうちに、眞人は新しく母となる人に引き会わされることになります。

ヒサコの妹であるナツコは、母にそっくり。

更に、そのお腹に「弟か妹」がいると聞き、眞人はショックを受けます。

 

 

まあ、いくらなんでも早すぎるので、眞人の不満はよくわかるのですが。

しかし、「姉が亡くなったら妹を嫁にとる」というのは、この時代には当たり前のようにあったことなのだろうなと思います。

結婚には、特に上流階級の場合には、相手の家の「面倒を見る」という側面も大きかったわけなので。

 

「お屋敷」はヒサコ・ナツコ姉妹の実家と思われ、異様に豪華なのですが、ナツコ以外には使用人しか見当たらない。

元は名家だったにせよ、構成員を失って没落しつつあるように思われます。

だから家を存続するためには、ショウイチの財力に頼らざるを得ないのでしょう。

 

そういった事情から、また姉の思いを引き継ぐという意味でも、ナツコは自分の意思は棚上げにしても、役割に徹しているわけですが。

でも、まだ子供である眞人はそんなことは理解しない。

礼を守りつつも、最低限の口しか聞かず、笑わず、目も合わせない。そんな眞人の態度が、ナツコを傷つけていることは間違いありません。

特に、「弟か妹」について聞いた時の眞人の表情は、あからさまに不快を呈していますね。

 

ナツコはオレンジ色の着物を着ています。これは矢羽の模様ですね。

眞人の夢の中で、矢を放ってアオサギを追い払っていたナツコ。

ナツコの着物の矢羽模様にも、アオサギ避けの魔力が秘められているのではないかと思われます。

「失われたものたちの本」

…と、宮崎駿自身を大きく反映しつつも、本作の基本的な構造には明確な参照元があります。

アイルランド出身の作家ジョン・コナリーの、2006年発表のファンタジー小説「失われたものたちの本」です。

 

この小説は、第二次大戦中のロンドンが舞台。

母を病気で亡くした12歳の少年デイヴィッドが主人公。

彼の父は、母の看護士だった女性と再婚してしまい、デイヴィッドは反発します。

そんな現実から逃避するように、本の世界に熱中するデイヴィッドは、やがておとぎ話の世界に入っていきます…。

 

「失われたものたちの本」では、父親が「弟か妹ができる」と告げて、デイヴィッドはショックを受けることになります。

その他にも、共通項は様々にあります。

母親の声が「私は死んでない。助けて」と呼びかけてきます。

カササギに変身する「ねじくれ男」が出現して、デイヴィッドを付け回します。

 

この本には宮崎駿が帯に推薦文を書いているので、構造の参考にしたことは明白ですね。

それでも「原作」という扱いでないのは、描こうとしているテーマはまったく違う、物語としてもまったく違うものである、というスタンスなのでしょう。

実際、舞台が異世界に移って以降は、物語はまったく違う方向に向かっていきます。

お屋敷

トトロっぽい田舎道を抜けて、眞人とナツコはお屋敷に到着します。

これは、非常に大きなお城のようなお屋敷です。

正面玄関は長い階段の先にあり、竜の装飾のある柱があります。

神社のような赤い欄干に飾られた階段や、獅子の絵が描かれた豪華な襖など、調度は絢爛豪華で「千と千尋」の油屋を思わせます。

 

まさにお殿様のような…ではありますが、このお屋敷にはまったく人の気配がなく、ナツコと眞人は靴を持ったまま通り抜けて、階下の使用人たちのエリアに移動してしまいます。

「初めてなので表玄関から」とナツコは言ってるので、日常的には表玄関自体使っていないようです。

ナツコとショウイチ、眞人の家族は離れの洋風の家に暮らすことになるし、他には使用人の婆さんたちがいるばかりです。この広大なお屋敷の主人がどこにいるのか、いないのか、それも劇中では明かされず謎めいています。

 

このお屋敷はヒサコとナツコの実家なので、いるとしたら彼女たち姉妹の親族が暮らしているはずですが、存在している気配は皆無です。

後に、ヒミ(つまりヒサコ)が眞人と同じく子供の頃に「母は死んだ」と言っています。なので、少なくともナツコの母は不在です。

父も既に死んでいるのだとすれば、このお屋敷を引き継ぐ一族は今やナツコしかいないのかもしれません。

絢爛豪華ではあるけれど、実質的に滅びゆく一族になっていて、このお屋敷も「消えゆく戦前の伝統」の象徴のようなものなのかもしれません。

 

ところで、このお屋敷の豪華さは、宮崎駿監督の幼少期を反映した描写としては、やや意外でした。

数千人の従業員を要する軍需産業の経営者の一家なのだから、庶民ではなく金持ちであることは歴然としているのだけど。

それでも、あえてここまで「お殿様」のように描いたことが意外。

 

「伯父が社長で親父が工場長でした。飛行機工場といっても、零戦の風防と夜間戦闘機『月光』の、翼の先の組み立てだけをやっていた、まあそんな程度の工場なんです。ですから飛行機工場というほどの大それたものじゃなく、町工場の延長です」

「ぼくらは工場のちかくの家に住んでいたのですが、ぼくが見た零戦の風防は、きっと工場のなかに置く場所が足りなくなって置かれていたのでしょうね」

(文春文庫「腰ぬけ愛国談義」より)

 

この発言を聞くと、いかにも「小さな町工場」みたいなものを連想するんですが。

自分自身が非常に恵まれた環境で育ったことを、これまでは控えめに表現していたけれど、ここに来て「隠さない」ことに決めたのか。

あるいは、本作の描写の方が誇張で、ある種の物語的なデフォルメなのか。

そこはちょっとわからないですね。(両方あるような気がしますが)

アオサギ

アオサギは池や水田などにやって来る大型の鳥で、都会の公園などでも頻繁に見かける身近な鳥です。

古代エジプトでは聖なる鳥ベヌウとされ、これはフェニックスのモデルとされています。

日本では「青鷺火」という怪異が言い伝えられていて、夜に羽が光るという伝承があります。

田の守り神ともされて、家の近くにアオサギが巣をかけると縁起が良いという言い伝えもあります。

 

しかし、本作におけるアオサギは邪悪な雰囲気です。

ただ、本作のアオサギはあくまでも偽者で、おっさんがアオサギに化けているモノであるようです。

(おそらく。アオサギがおっさんに化けている可能性もありますが、ハゲで醜い容姿からしても、正体はおっさんの方でしょう。)

 

アオサギが何者なのかは、最後まで判然としないのですが。

想像できるのは、人間界に馴染めず、憎しみを募らせて人間であることも捨ててしまった存在。「ポニョ」のフジモトとか、そうですね。

 

眞人が屋敷に着いた時、アオサギは屋敷の鬼瓦にとまっています。

これは、宮崎駿監督のイメージボードだけしか描かれなかった、映画にならなかった初期バージョンの「もののけ姫」を連想します。

映画版とはまったく違うストーリーだったここでは、投げ飛ばされた武将が鬼瓦に引っかかり、鬼瓦に潜んでいた悪霊に取り憑かれて悪人と化していました。

鬼瓦は悪意ある存在の象徴ではあります。

 

長い廊下を歩く眞人を、威嚇するように飛ぶアオサギ。

ナツコは「覗き屋のアオサギ」と評しています。

これ以前から、アオサギは屋敷を覗いて眞人が来るのを待ち構えていたのでしょう。

7人のお婆ちゃん

階下へ降りていくと、そこは台所などの実務的なエリアになっています。

お屋敷の主人が「お殿様」的な暮らしをしていた頃には、主人の家族は階上で暮らしてこちらへは降りて来なかったのでしょう。

今は、ナツコも主にこちらを生活の場にしているようです。その方が便利なんでしょうね。

 

ショウイチのトランクを漁って、缶詰やタバコに興奮する7人のお婆ちゃんたち

個性あふれる老婆は宮崎アニメのおなじみキャラですが。今回は、その集大成という印象があります。

7人といえば、「崖の上のポニョ」で登場する「ひまわりの家のお婆ちゃんたち」も全部で7人なんですよね。

海の底で待ってるのが6人で、別行動をとるトキさんを入れて7人。

現実世界で待ってる6人と、別行動をとるキリコさんで7人。そこも同じです。

 

 

このお婆ちゃんたち、みんな耳が尖ってるんですよね。

7人の小人…ドワーフみたい。お婆ちゃんたちはこけしになって眞人を守ることになるので、白雪姫の守護者としての7人の小人イメージと重なります。

また彼女たちは眞人以前にナツコの守護者です。まさにお姫様を守っているわけです。

病弱だったヒサコ、つわりで寝付いてしまうナツコ共に、眠ってしまった白雪姫を守る7人の小人のイメージが重なります。

 

「失われたものたちの本」では、デイヴィッドが行く異世界は、おとぎ話がブラックなパロディのようになる世界です。太ってわがままな白雪姫と、それにうんざりする7人の小人も登場します。そこからの連想もあるかもしれません。

 

その2に続きます!