①「となりのトトロ」と「死の気配」
金曜ロードショーで「となりのトトロ」を観て、急に何か書きたくなったので書きます。
あらためて感じたのは、この映画に色濃く漂う死の気配。
それは、トトロが死神…とか、サツキとメイが死んでる…とかいう都市伝説的な話じゃなくて。
そうではなくて、物語の中にテーマとして織り込まれている死の気配。明るく、無邪気な物語の中に、生と死という重厚なテーマがしっかりと意図的に組み込まれているということです。
それは、まずは入院中のお母さんという存在。
この時代で、山奥の隔離病棟のような病院だから、結核なんでしょうねたぶん。
そもそも東京に住んでいたらしい草壁家が、こんな田舎の村に移り住んできたのも、お母さんの療養に向いた環境を求めてのことでしょう。
彼らが移り住んだあの家が日本家屋と洋館をくっつけたような奇妙な形をしているのも、その家が結核患者の療養のために建てられた別荘だったから…という設定があるそうです。日当たりの悪い日本家屋に、張り出す形で日当たりの良い2階建ての洋館をつけている。
田んぼや畑とも接しておらず、塚森の木々に隠されるように囲まれ、村道からも奥まった場所にこの家があるのも、隔離という目的があっての設計であるからだとか。
「トトロ」の時代とされる1950年代は、結核が死亡率の高い病気から、治癒可能な病気へと移り変わる、ちょうど境目の時代にあたっています。
後の「風立ちぬ」で描かれたように、それ以前は結核は明らかな死病でした。サツキは明るく振る舞いながらも、ずっとお母さんの死の不安を抱え続けていたはずです。
映画が後半に入るまで、この不安はずっと押し隠されていますが、サツキが「お母さんが死んじゃったらどうしよう」と遂に口に出してしまうシーンを境に、映画にははっきりとした死の気配が一気に噴出していくことになります。
そしてこのシーンから後では、今度はもっとも幼いメイが死の気配に巻き込まれていくことになります。
メイが行方不明になり、大人たちが池に棒を突っ込んで探す。おばあちゃんが、池に浮いていたサンダルを胸に抱いてなんまいだと拝む。こんなシーンが突然突きつけられ、それまでの明るく楽しいムードに浮かれていた僕たちは愕然とさせられることになります。
そこで突きつけられるのは、あんなに元気で生き生きとしていたメイちゃんですら、こんなにあっけなく死んでしまうかもしれないということ。
いや、映画のストーリーの上では死んではいなかったんだけど、でも、死んでいてもおかしくはないんですよね。あれがメイのサンダルで、メイが池にはまって溺れていても、決してあり得ないことではなかった。
つまり、それほどに死が身近にあること。その事実を、いきなり突きつけられることになるのです。
結核も幼い子供のあっけない事故死も、時代背景を反映したものではあります。
「トトロ」に関してよく言われる、「昔はよかった」という懐古的な感想は、初めから冷や水をぶっかけられているんですよね。
現代と比べて昔は、確かに自然は豊かで暮らしはのんびりしているけれど、一方で治癒困難な死病は今よりも多く、死は現在よりずっと身近な存在だった。そのことが初めから、きちんと描かれているわけです。
そういうシビアな現実認識。人の暮らしには常に死がそばにあって、生と死は隣りあっているということ。それが、世界観の基本となっています。
そして、そんな「常に存在している死」に対抗していくのが、生命力。
元気に走り回る子どもたちの生命力であり、森の自然を司り、どんぐりを芽吹かせるトトロの生命力である、ということになります。
トトロは、生命力にあふれる自然の象徴ですね。死神なんかじゃない。
死はむしろ人の側にある。それも、死を恐れる気持ちの中から、死の気配が立ち上がって、不吉なことを招き寄せていく。そんな描写がされています。
緑の木々に囲まれ、無数の虫や蛙が鳴き、トトロや猫バスが潜んでいる、生命の気配に満ち溢れた世界。その中に身を置き、生命の気配を感じることで、隣り合う死の気配に対抗し、生きる力で打ち勝っていく。そうすることができる。
「となりのトトロ」の終盤の展開は、生と死に対するそんな世界観を込めたものになっていると感じます。
だから子供たちに対しても、生命の気配を感じて欲しいと呼びかけている。無機的な、死んだ世界に慣れ親しむのではなくて。だから、「トトロのDVDを何度も見せるのではなく、外で遊べ」って物言いになっていくんでしょうね。
生の中に、必ず死があるということ。それとどう向き合っていくかというテーマは、「崖の上のポニョ」でより発展した形で描かれることになります。
そして、「風立ちぬ」での、遂に訪れることになる結核のヒロインの死と、それを真正面から受け止めてなお仕事に邁進する主人公。だから、宮崎駿はあの映画を一旦集大成としたのでしょう。
②「崖の上のポニョ」と「死の気配」
「トトロ」より、「ポニョ」の方が死の気配は濃厚であからさまですね。
死亡説が語られるなら、「トトロ」より断然「ポニョ」の方だと思いますが。あまり都市伝説化していないのは、「ポニョ」はあからさますぎるからでしょうか。
「崖の上のポニョ」で、洪水で街が沈み、お母さんが行方不明になって以降の世界は、ほとんど死後の世界のように見えます。
洪水に呑まれ、澄み切った水に覆われた世界は「パンダコパンダ 雨降りサーカスの巻」からの引用ですが、その静謐なイメージは現実離れしていて、現世でなく彼岸を強く匂わせます。
街がすっぽり水没するという大災害なのに、「災害感」が皆無なんですよね。ボートに乗って避難する人々もみんな、のんびりしていて楽しそうにすら見えます。
誰も本気で心配していない。悲しんでいる人もいない。みんなふわっとした穏やかさの中にあって、むしろ幸福すら感じさせる。
宗介とポニョが出会う、赤ちゃん連れの若い夫婦も現実離れしています。こんな大災害の中でボートに乗っていて、全然動じていない。心穏やかに、ふわふわと笑っています。
これは、命の危険を案じることから解放された世界。既に現世のあれこれから離れた世界に見えてしまいます。
そして、お母さんの不在。洪水の夜に、「職場の様子を見に行く」と言って出かけてそれっきり、というあからさまな死亡フラグ。
道の途中に車が放置されて、ドアは開けっ放しで、姿は見えなくなっていて。周囲は水没している。お母さんを呼んで涙を流す宗介。
これもう、完全に死別の描写ですよね。
お母さんは水没した老人ホームにいて、そこはグランマンマーレによってドームに覆われていて、みんな水の中で生きている。歩けなかったはずの老人たちもみんな歩けるようになっていて、楽しげに笑いながら駆け回っている。
竜宮城のような世界。生前の苦しみから解放され、老いの痛みから自由になった世界。これはもう、黄泉の国にしか見えないです。
お母さんはそこで思いつめた表情をして、宗介を見守っています。宗介とポニョの行く末について案じ、グランマンマーレと語り合う姿は、天国から我が子を見守る今は亡き母親の様相です。
もう直接我が子を導くことはできない。我が子の成長を信じて、見守ることしかできない。そんな母親の姿に見えます。
そういえば、老人ホームに至る道にはトンネルがありました。
不気味な雰囲気のトンネル。そこを通ると、魔法が解けてポニョが魚に戻ってしまうトンネル。そこを通り抜けることが、宗介の一種の通過儀礼のように描かれていました。
これは、現世から黄泉の国に至るトンネル。イザナギが通ってイザナミに会いに行った、決して振り返ってはいけないこの世とあの世を繋ぐ道であるようです。
「ポニョ」はラスト近くまで、はっきりと「少年の親との死別と、自立」を描いているように見えます。
そういう演出意図があるように見える。それでも、ラストになるとお話はバタバタっと早急に畳まれて、死後の雰囲気はなかったことになって、「ぽーにょぽにょぽにょ…」の陽気な歌とともに、あっという間のハッピーエンドを迎えることになります。
でもこれ、どっちかというと大慌てでとってつけた、間に合わせのハッピーエンドのように見えます。物語を必要以上に重くしないための、とりあえずの措置。
ポニョのメインのテーマは、やはり世界の中にがっちりと食い込んでくる「死」との向き合い方の方にあるし、そして、トトロ以上に「死を恐れる必要はないこと、死がある種の救いでもあること」が色濃く描かれているように感じます。
③「トトロ」と「ポニョ」と「未来のミライ」
「未来のミライ」のレビューでは、「崖の上のポニョ」との類似について書きました。徹底した幼児の視点で描かれているという点で、「未来のミライ」は「ポニョ」と共通したところを持っています。
細田守監督も、「ポニョ」の5歳の主人公に対して、それより幼い4歳の主人公を設定したということを発言されているようですね。
でも、「トトロ」とも共通点はある。さまざまなふしぎを子ども視点で描いていて、決してSF的な理屈を重視した描き方をしていない点。絵本的な視点、ですね。
劇中で起こるふしぎに関して、理屈がつけられていないのは「未来のミライ」も「トトロ」も同じなんですよ。「夢だけど、夢じゃなかった!」ってやつですね。それで結局どっちなんだ、夢なのか夢じゃないのかどっちだ、というのは、劇中で説明されていない。ミライちゃんが未来からやってきたり、犬がしゃべったりする理屈がつけられていないのと、同じ。
全体を通すストーリーが希薄で、バラバラのエピソードの連結で作られているという点も、2つの映画の共通点です。
どちらも5つのストーリーを連ねた連作短編形式になっていて、最後には「迷子の話」に帰結することも同じ。
「トトロ」ではサツキの視点で、メイを助けに行く様子を描き、「ミライ」ではくんちゃんの視点で、ミライちゃんから助けられる様子を描きます。
「ミライ」と「トトロ」の大きな違いは、やはりサツキに当たる「分別のついた主人公」がいるかどうかなんですね。
大人が普通に感情移入できる、大人と共通する分別を持った主人公、その視点。「トトロ」ではそれを導入することで、大人の観客の感情移入を容易にしています。
その意味で、「未来のミライ」は「となりのトトロ」の語り方と、「崖の上のポニョ」の視点とを合体させた作品である、という見方もできます。
新たな「子どもの世界を描く映画」を創るにあたって、先行する偉大な2作品を研究して、さらに先へ向かう新しい表現を模索していく。
「未来のミライ」は、やはり価値あるチャレンジをしている作品だと思います。ハードルが高いだけに、なかなか達成も難しいですけどね。
共通項の一方で、なんとなく面白いなと思うのは、「未来のミライ」には、「トトロ」と「ポニョ」双方に共通している「死の気配」がまったく見当たらないこと。
同じ迷子を描いていても、「池にはまって死んだことを露骨に連想」させる「トトロ」とは違って、「ミライ」ではあくまでも空想の世界の恐怖にのみ限定されています。
迷子シークエンスに関して、「トトロ」の参照元の一つであるはずの、林明子さんの絵本「あさえとちいさいいもうと」。小さい子向きの絵本であるこちらの方が、むしろ死の気配を感じさせるんですよね。
これは、道で遊んでいたら小さい妹がいなくなって、ドキドキしながら探し回るお姉ちゃんの姿を描いた絵本です。こちらの方が、車にひかれた?…人さらいにさらわれた?…という、より直接的な「死の恐怖」があちこちに感じられます。
ただ道で遊んでいるだけで、死の気配が不意に現れてくる昔の生活に比べて、現代ではそのような感覚が感じにくくなっているのかもしれません。