これは宮崎駿監督作品「君たちはどう生きるか」について、時系列に沿って解析を試みる記事です。
独自解釈です。公的なものとは違う可能性が大いにありますので、ご了承願います。
「君たちはどう生きるか ネタバレ解説1」、「ネタバレ解説2」続きです。
森の小道
ナツコがいなくなり、ばあやたちはナツコを探し回ります。
ナツコが森へ消えたことを目撃していた(そしてそのまま見過ごしていた)眞人は、キリコと共に森の中へ入っていきます。
この森の小道は、「となりのトトロ」でトロロの洞に通じる秘密の小道を思い出します。普段は通れず、許された時だけ通れる道。
塔への入り口は埋められ塞がれたはずで、この道は(そしてこの後に出現する入り口も)普段は存在しないはずです。
実際、時の回廊から通じるのは埋められた出入り口だけ。この道と入り口は、アオサギによって作られたまやかしの入り口でしょう。
地獄の門
塔の入り口には立派な門があり、そこには文字が掲げられています。
はっきりと読めないのですが…
Fecemi la divia podes…
かろうじて読めたのは上のような文章。
検索して引っかかるのは、次のようなイタリア語の文章でした。
Fecemi la divina podestate,
la somma sapïenza e 'l primo amore.
我を作るは、神の威信、
至高の知恵、始原の愛。
これはイタリアの詩人ダンテが1304年から1308年頃に執筆した「神曲」の一節。
「地獄篇」第3歌にある、「地獄の門」に書かれたフレーズの一部です。
これは「神曲」でもっとも有名な部分。
門をくぐって地獄に入ろうとする者に警告する内容で、最後はこう締め括られます。
我を過ぎる者よ、すべての望みを捨てよ。
「神曲(La divia commedia)」の「地獄篇(Inferno)」はダンテが古代ローマの詩人ウェルギリウスに導かれ、地獄の底へ降りていって、生前の罪によって様々な罰を受ける亡者たちを見て回る、地獄めぐりの物語です。
ということは、眞人が向かう「海の世界」は死後の世界であり、地獄であるということになります。
実際、そのような言及もあちこちでされています。キリコは「この世界は死んでる奴の方が多い」と言っているし、ペリカンは「ここは呪われた海だ」と言っています。
ただ、これはアオサギが作ったまやかしの入り口なので、アオサギらしい脅しかもしれません。
一方で、地獄の門のフレーズの中から、あえて有名な「すべての望みを捨てよ」ではなく、神威や知恵や愛についての一文を選んでいるのは、意図があるのかもしれません。
他の部分はもっぱら地獄は怖いぞ!って言ってるのに、ここだけは「そんな地獄でさえも神聖な神によって作られた」ことを語っています。
小説「君たちはどう生きるか」から宮崎駿監督が受け取り、伝えたいと思った要素を「愛とか正義とか友情とか、自分が生きてきたことを肯定してくれるもの」とするなら、これから入っていく異世界をそのような言葉で定義することは頷けます。
神聖さや知恵や愛を理想として掲げつつ、その世界は同時に地獄でもある。
この異世界は今回濃厚に「宮崎駿の世界」であるのですが、この皮肉はそれをよく物語っている気がします。
塔のあるじの声
塔に入ろうとする眞人を、必死で止めるキリコばあさん。
「塔のあるじの声など聞こえん!」とキリコばあさんは言います。「あるじの血を引くものにしか聞こえんのじゃ」
あるじ(大叔父)に呼ばれて異世界に入ることができるのは、大叔父の血縁者に限られます。
つまりヒサコ、ナツコ、眞人です。
ショウイチは血縁者ではないから呼ばれないし、ばあやたちも同様です。
でも、キリコには聞こえてるふうでもあるんですよね。それに関しては後ほど検討。
「あんたは夏子お嬢様がいない方がいいと思ってるでしょ。それでも行くなんておかしいよ」とキリコ。
眞人本人は隠しているつもりの内心の鬱屈は、周囲のばあやたちにはバレバレなんですね。
それをわかった上で、キリコは眞人を守ろうとしてくれている。
子供である眞人はそんなふうに、周りの大人に守ってもらっている。でも本人はそのことに気づかずに、ひがんだり拗ねたりしてしまうんですよね。
アオサギの罠
塔に入っていくと背後で扉が閉まり、眞人とキリコは閉じ込められます。
塔の中は回廊も扉も、天井までぎっしり本棚で占められています。
本の虫だった大叔父様は、実際に塔の中に自分が収集した本を溜め込んでいたものと思われます。
壁の浮き彫りになっていたアオサギが実体化し、眞人を案内します。
案内する先は、シャンデリアのある広いホール。ソファには眞人の母ヒサコが横たわっていますがこれはアオサギが作った偽物で、眞人が触ると溶けてしまいます。
「ハウルの動く城」で、絶望に陥ったハウルの体が溶けていく描写がありました。魔法が上手く働かなくなることが、溶けるという描写で表されているようです。
この場面は「失われたものたちの本」でデイヴィッドが魔女の魔法で死んだ母の姿を見せられるシーンが元になっています。
古い塔の主である魔女は母親の姿でデイヴィッドを誘い、殺そうとしますが、デイヴィッドは機転でそれを切り抜けます。
「生意気で嘘つきのお前の赤く腫れ上がった心臓をプチンと噛み切ってやる」とアオサギ。
アオサギは眞人の内心の願望を掬い上げて母親のまやかしを作り、また内心の嘘や悪意を見透かして告発する存在。まさにメフィストフェレス的な悪魔ですね。
嘘つきというのは、傷をつけたのが自分であることを誰にも白状していないこと。
心臓を噛み切るというのは、魂を奪うことの比喩にも聞こえます。
サギ男
ずっとアオサギと表記してきたんですが、ようやく発売されたパンフレットのストーリー紹介ではサギ男とされていました。
そういうキャラ名さえもはっきりとしないのが、今回の特徴ですね。
眞人は自作の弓矢でアオサギ/サギ男を狙い、サギ男は始めは余裕ですが、矢羽に自らの羽根「風切りの7番」が使われていると知り、慌てて逃げ惑います。
風切羽は鳥の翼の後方に位置する一連の羽根で、飛翔に重要な意味を持ちます。
アオサギの風切羽は黒色で、グレーの体色と区別されるのでわかりやすくなっています。
サギ男が鳥になったり人になったりできるのは何らかの魔法によるものと思われ、そうであれば魔法を強めたり弱めたりする約束事が存在するのは考えられることです。
「風切りの7番」が弱点であるというのは、サギ男が魔法を得る代償として最初から定められた条件なのでしょう。
これまでの作品では、湯婆婆やハウルが鳥に変身していました。
魔法によって空を飛びたいというのは多くの人に共通する願望で、だから誰しも魔法によって鳥になろうとするのかもしれません。
サギ男の正体は、巨大な鼻とハゲ頭の醜い中年男でした。
元は人間だったと思われますが、人間社会を憎んで世を捨て、なんらかの魔法の契約を交わして鳥になってしまった…というところでしょうか。「ポニョ」のフジモトみたいに。
大叔父が人間界にいた頃の、召使いとかそういう立場の男だったのかもしれません。
ハウルが「このままだと元に戻れなくなる」という描写もあったので、魔法を制御できずに人間に戻れなくなってしまったのかも。
サギ男は鈴木敏夫…という話もありますが(鈴木敏夫自身そう言ってるみたいですが)、まあ確かにそういう側面もあるにせよ、それがすべてでもないんじゃないかな、という気はします。
あの外見は、鈴木敏夫をキャラ化するにしては(いくら気心が知れているにしても)悪意が過ぎる気が。
鼻がデカくて頭もデカい、頭でっかちでマンガ的なサギ男は、むしろ原点回帰というか、初期ディズニーやフライシャー兄弟などの黎明期のアニメ映画に戻る試みを感じさせます。
7人のばあやたちや、後に出てくるインコたちも同様ですね。「白雪姫」の7人の小人のようなマンガ的デザイン。それがリアルな頭身の白雪姫と(眞人やナツコと)並んでいる構図。
カートゥーンへの回帰が意図されているように感じます。
赤いバラの落下と崩壊
一輪の赤いバラが落ちてきて床で砕け、溶けていく。それをきっかけに、眞人は星の天井に近い高みに塔のあるじである「大叔父様」がいるのに気付きます。
赤いバラは愛や情熱の象徴とされる場合が多いですね。
キリストの血や、純潔など、それこそ無数の象徴があるので、 どんな意味が込められているのか…はなかなか絞りにくいです。
宮崎駿監督が影響を受けた作品で、バラと言って思い出すのは「雪の女王」(1957)でしょうか。
全編を通じて、赤と白のバラがゲルダとカイの友愛の象徴として登場しています。
雪の女王の訪れと共に窓辺に置いたバラの鉢が落ち、バラは一瞬で萎れて真っ黒になり、枯れてしまう。それが、カイの目に氷のかけらが入って雪の女王に魅入られていくきっかけになっています。
「バラの落下と崩壊」が冒険が始まる合図になるという点が共通していますね。
窓から睨みを効かせる雪の女王と高みから見下ろす大叔父、カイを探しに行くゲルダと夏子を探しに行く眞人、も対応関係になっているように見えます。
でもここでは「目が曇っている」のは眞人の方ですね。
海の世界への落下
「愚かな鳥よ。お前が案内役になるが良い」と大叔父様が言って、アオサギと眞人、キリコは床下へと沈んでいきます。
床が液状化して沈んでいく様子は底なし沼のようで、「黒沼」や「千と千尋」から繋がる沼のモチーフを感じさせます。
現実世界は「上」にあり、異世界は「下」にある。眞人はどんどん落下していくことで、海の世界へ到達します。
異世界が長く落ちて行った先にあるのは、「不思議の国のアリス」ですね。
「海の世界」のシュールな混乱ぶりはアリスのナンセンスな夢の世界を思わせます。
既に書いた白ウサギと青サギの対応を見ても「不思議の国のアリス」のイメージは確かにあるように思われます。
ただしディズニーのアニメ映画というよりは、ルイス・キャロルの原作からの参照を強く感じます。
原典の「アリス」がそうであるように、下へ下へと落ちていく(沈んでいく)イメージは、自分自身の深層意識へと降りていくメタファーです。
パンフレットでは「深層世界」と表現されている海の世界は、眞人の深層心理の世界です。
これは、多くの「行って帰るファンタジー」で異世界に与えられている性質です。
「不思議の国のアリス」が主人公の夢なので顕著ですが。
「銀河鉄道の夜」とか。「千と千尋」や「失われたものたちの本」にしても、異世界は客観的な存在であると同時に主人公の深層心理を反映するものにもなっています。
この深層世界は、眞人の世界。
ということは、宮崎駿の世界ですねもちろん。
だから海の世界は宮崎駿自身や過去を反映した要素で溢れており、登場人物は多かれ少なかれ宮崎駿(やその周囲の人)の分身になっています。
生と死の世界
パンフレットによれば、海の世界は「生と死の世界」「死が終わり、生の始まる場所」「生と死が渾然一体となった世界」とされています。
(情報が少ない!と話題になったパンフレットですが、結構大事な情報はあるのです。)
海の世界には多数の帆船が行き交っていますが、後でキリコはそれを「みんな幻」「ここでは死んでる奴の方が多い」と言っています。
船の漕ぎ手たちは半透明で、「殺生はできない」とされ、亡者たちであるように見えます。
全体に静かで、美しいけれど生命感はなく、死後の世界のように見える世界です。
一方で、ワラワラが上の世界へと昇っていき、新たな生命を生み出す元になるとされています。
生と死がどっちつかずの、間にある世界。
「神曲」では「辺獄(リンボ)」とされている領域です。地獄の門をくぐったダンテは、まず辺獄に至ります。そこは罪を犯してはいないけれど洗礼を受けていない人たちの魂が、天国へも地獄へも行けずに留められます。
この世界のムードは、これまでの宮崎作品でも描かれてきたものです。
「列をなす幻の帆船」は、「紅の豚」で列をなす死者たちの飛行機の群れを思い出させます。
黒い影のような半透明の者たちは、「千と千尋」で電車を乗り降りしていた乗客たちですね。
静かな水に覆われた世界は「ポニョ」の洪水後の世界を思わせるし、そこで船を漕いでいた人々はなぜか生命の危機を感じさせず、達観したような雰囲気の中にありました。(「ポニョ」のあれは死後の世界で、彼らは死者たちだと思う…というのが僕の解釈。)
「風立ちぬ」で二郎がカプローニと出会うのも、そんな生と死が入り混じった「間の世界」でした。死に別れた菜穂子も、そこで二郎を待っていました。
死が生の中に入り混じって存在する世界を描くことで、死の意味や価値を考える。
このことに、「千と千尋」以降の宮崎駿は強くこだわってきたのだと思います。
本作の海の世界は、その延長線上にあります。
もちろん簡単に答えのある問いではないので、それは映画全体を通して手探りされ、模索されていくことになります。
ワレヲ學ブ者ハ死ス
そんな生と死が混じった世界の中でも、特に死の気配を強く漂わせているのが、波打ち際に降り立った眞人が最初に訪れる場所、墓所です。
糸杉の林を背に、古代の墓のような石舞台が作られています。
更に石垣で囲まれ、黄金の門があります。
門には、「ワレヲ學ブ者ハ死ス」という銘文が掲げられています。
地獄の門の銘文が一瞬しか映らないのに対し、この銘文ははっきりと映し出され、眞人によって読み上げられる。かなり重要であることが示されます。
でも、単純なことわざとか、故事成語のようなものでは、そのままの形では見当たらないんですよね。結構難解です。
いかにも中国の言葉っぽいのですが、いちばん近いのは1864年生まれの中国の画家・書家である斉白石が残した「学我者生 似我者死」という言葉でした。
「我に学ぶ者は生き、我に似せる者は死す」。
「師匠に学び、自らの創意を加える者は生き残るが、師をただ真似るだけの者は大成しない」といったような意味ですね。
宮崎駿の創作論として妥当な気もしますが、しかし映画では「我を学ぶ者は死す」なんですね。ただ真似るだけでなく、学ぶことさえ否定されている。
なので、つい短絡的に「宮崎駿が自分の真似を戒めている」と受け取りそうになるし、自分も最初はそう受け取ったのですが。
深く見ていくと、そうとも言い切れない。創作論だけではない言葉であるように思えます。
四つの文字
この言葉の出典を探ってみると、林房雄の「四つの文字」という小説に行き着きます。
林房雄は1903年生まれの小説家・評論家。
当初はプロレタリア作家でしたが、戦後は「大東亜戦争肯定論」を発表してもいる、変節を感じさせる人物です。
「四つの文字」は太平洋戦争の2年目に中国を旅行した「私」が南京で出会った、南京政府の大臣である男についての回想録です。この男が日本敗戦の翌日に自殺したという時点から語られています。
戦時中にあって、大臣の地位で贅沢な暮らしを謳歌するこの男は、しかし日本の勝利を信じていたのではなく、やがて破滅することをあらかじめ見通しながら、刹那的な悦楽に興じていたのだというのが「私」の見立てでした。
多くの中国人青年を虐殺したことをこともなげに語り、「私」にご馳走を振る舞った後、大臣は自宅の最上階に飾られた扁額を見せます。
そこに書かれていたのは四つの文字、「学我者死」。
「我を学ぶ者は死す」でした。
…というふうに、その言葉がオチになっている、ミステリ的な要素のある小説です。
特に謎解きというわけではないのですが、自分の死を予期していながら自らそこへ突き進んでいく大臣の深層の不気味さが端的に見えて、ゾッとするという仕掛けになっています。
中国での戦争を題材にした小説としては、大臣の姿は破滅をわかって突き進んだ日本の軍国主義の比喩になっているのでしょう。
墓の主は誰か
そんなふうに、いろいろな例を見つつ考えていくと、この墓に眠っている「墓の主」というのは、特定の人物ではなく「死」という概念そのものではないか…という気がするんですよね。
死について知りたいと願い、死について学ぼうとする者は、やがて自らが死へと向かってしまう。
それが、「我を学ぶ者は死す」という警句の正体ではないか。
大叔父の作ったこの世界では、死は墓の中に葬られ、外に出てこないように閉じ込められている。
だから、明治期の人物である大叔父はいまだに生きているし、現実世界で死んだヒサコも少女期の姿で生きていることができる。亡者たちは死に切らず、生と死の間の半端な状態のままで留め置かれている。
だから、キリコは「墓の主が起きる」ことを恐れる。それは「封じられた死が外へ出てくる」ことを意味し、生と死の狭間にあるこの世界にあらためて死をもたらすことになるからだ。
そして、死を知ろうとすることは大叔父によって戒められているんですね。
「殺し合い奪い合う愚かな世界」を拒否して、静かな永遠の平和を保とうとするのが大叔父だから。
でもやはりそれは、宮崎駿監督にとっては本意ではないのだと思います。死を知ろうとすることこそが、生きることにつながるのだと、宮崎駿監督は考えているはずです。
というのは、やはり、「千と千尋」以降の宮崎駿が強く惹かれ、その正体を解き明かそうとして、執拗に映画の中に織り込み続けてきたものが「死」だから。
そして眞人にとっての「死」は、この時代には「戦争」と不可分のものであるだろうと思います。
「戦争」に象徴される、悲劇的な大量死をもたらす禍々しいものが、石の墓の中には封じ込められている。
それは「悪意」であり、「呪い」であるでしょう。不用意にそれを学ぼうと近づく者は、取り込まれて滅んでしまうに違いありません。
ペリカンが殺到するのは、彼らが死に群がる鳥だから。
パンフレットによればワラワラは生と死の象徴なので、それを喰らうペリカンは生と死を共に喰らう者です。
上の世界の生の元となるワラワラが、上の世界の死によって生み出されるとするなら、ペリカンが大量死をもたらす墓の主を起こそうとするのは理にかなっています。
…というのが、今のところの「墓の主」に関する考察です。
本作は戦時中の物語で、戦争は大きなファクターであるはずなのですが、直接的な言及は少ないんですよね。
おそらくはこのような象徴として、「死」「悪意」といった要素に置き換えられて、物語のあちこちに紛れ込んでいるんじゃないかと思います。
その4に続きます!