この記事は「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH(TRUE)2/Air/まごころを、君に」レビューというか読解記事、前編の続きです。
一連の「エヴァンゲリオン心理解析」記事、
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」記事の続きでもあります。
十字架にかけられるシンジ
「Air」の最後でようやくエヴァに乗ったシンジですが、外に出てアスカの惨状を見るなり絶叫して茫然自失となり、そのまま何もせずにサードインパクトの依代となっていきます。
これをシンジの心理的に解釈すると、ずっと心を閉ざして目を背けていた「アスカの惨状」を直視して、耐え切れなくなって精神崩壊した…という状況ですね。
前述したように、アスカの惨状はシンジがもたらしたものに他ならないので、自分のしでかした罪を直視していることになります。
シンジの初号機は量産機に誘われて浮上し、光の十字架にかけられる。月からロンギヌスの槍が飛来して、初号機に突きつけられる。量産機が槍を初号機の手に突き刺し、シンジの手のひらには聖痕が現れる。
これらはすべて、キリストの磔刑のイメージですね。人類の原罪を背負って、処刑されるイエス・キリスト。
自己評価が低過ぎるあまり、自分が生きていることそのものを「原罪」と考え、自分は裁かれるべきだと考えてしまうのが、シンジです。今、アスカへの罪という重みも背負って、シンジはいよいよ自分自身を十字架にかけることになります。
象徴的な形ではありますが、これがシンジの「贖罪」なのです。
キリストは十字架で死に、復活することになります。シンジの磔刑はだから、彼の死と再生の象徴です。
初号機はテレビ版で既に、使徒を食って生命の実を取り込んでいます。ヒトの持つ知恵の実と合わせて、シンジと初号機の組み合わせは神に等しいものになっています。
初号機を中心に生命の樹が出現し、それはカバラのセフィロトの樹で、神の天地創造の設計図とも言われます。
原罪によってシンジは死に、復活して新たな世界を創造することになります。
シンジの「内面世界の滅亡と再生」は、キリスト教とオカルトに彩られている。
シンジはクリスチャンか、あるいはもともとオカルトマニアなんでしょうか。
エヴァにはキリスト教の用語が頻出するんですが、エヴァの劇中では不自然なまでに、誰も宗教に言及しません。
ミサトが父の形見として、十字架のペンダントを持ってるくらいですね。
エヴァ世界は「聖書の記述やオカルトが現実になった世界」として作られているので、この世界ではそれは言わずもがなとして、言及されないのだと思います。
ゲンドウとレイ
ゲンドウは、「アダムとリリスの禁じられた融合」を行うことで独自の「補完」を進め、妻ユイに再会しようとしています。
レイは劇中の設定では「ユイの肉体のクローンに、リリスの魂を宿らせたもの」です。
ゲンドウは、胎児状のアダムを手に一体化させていて、ゲンドウはレイの体に手を突っ込むことで、「アダムとリリスの融合」を図ります。
しかし、このシーンは非常にセクシャルで「気持ち悪い」ですね。
わざわざ少女の乳房から手を突っ込み、下腹部に移動させるゲンドウ。
自分の息子と同じ年齢の少女と「融合」しようとするゲンドウは、禁忌的なものを感じさせます。
ゲンドウを「妻を失ったショックで少女に妻の面影を求めてしまうおっさん」と捉えると、これは法的にも倫理的にも許されない行為ですね。
ユダヤの伝承では、リリスは悪霊や妖怪のようなものであり、男性を誘惑する魔女です。アダムの最初の妻とも、サタンの妻ともされます。その子は悪霊リリンであり、これも男性を誘惑する淫魔です。
エヴァ世界では人間はリリスから生じたリリンなので、そもそも邪悪な存在です。これもシンジの自罰意識の表れですね。
設定的にはレイの魂はリリスなので、レイは「誘惑者」であるということになります。
これはゲンドウが自身の行為を正当化する「言い訳」かもしれません。
赤城ナオコ博士とリツコの親子から見ても、レイははっきりとリリスでしょうね。
同時に、リリスは人類全部の「母」でもあるので、レイは母なる存在でもあります。レイはユイでもあるので、これももっともです。
エヴァ世界はシンジの世界なので、世界創生はシンジの誕生を意味します。この世界の人間の始まりはシンジの始まりであって、だからアダムとエヴァはシンジの両親、ゲンドウとユイです。
ゲンドウはアダムを取り込み、ユイはエヴァ初号機と一体化しているので、繋がりますね。
…なんだけど、その構図はシンジの自罰意識によって歪められることになります。
シンジは自分を価値のないものと考えているので、美しく善の存在であるアダムとエヴァが自分を生んだものであるはずがないと考えます。自分のようなものは、邪悪な誘惑者リリスから生まれた悪霊リリンであると考える。
だから、ターミナルドグマに隠されたリリスがシンジの本質である、という認識になるのでしょう。
また、父親への憎しみからゲンドウ=アダムを自分を生んだものと思いたくない、という意識もあるのでしょう。
エヴァ世界の人類がリリスを祖とするリリンであるとあるという設定は、そこから来るものですね。
シンジにとって、本当の母親はユイでありエヴァ。
しかし、歪んだエヴァ世界での母親は、レイでありリリスということになるのでしょう。
だから、旧劇場版では、レイはシンジにとって母親の象徴ということになります。恋愛対象はあくまでもアスカ。
そう考えると、新劇場版というのは単純に言って、シンジがアスカからレイに乗り換えた世界と言えますね。
そう考えていくとアダムとリリス、ゲンドウとレイの融合というのは、ユイとの聖なる結びつきを捨てて、シンジの思う自罰的なエヴァ世界を創造するリリスとの結びつきをもう一度なぞるものである…と言えます。
新しく人間を生み出す過程は一般的にはアダムとエヴァの結びつきによって行われるわけですが、エヴァ世界の設定に従って、またユイ/エヴァは既に失われているので、アダムとリリスを結びつけるというのがゲンドウの意図でしょう。
これでどうやってユイに会えるのか…と思いますが、新しく人間が創造されればユイも再創造され、帰ってくることになる…のかな。
しかし、レイはアダムは受け入れたものの、ゲンドウとの結びつきは拒絶することになります。
レイは母性の体現だから、夫ゲンドウよりも息子シンジと共にあろうとするのでしょうね。
ただ、アダムとの融合はゲンドウの意図通り成し遂げています。アダムを取り込んだレイがリリスと融合し、「おかえり」「ただいま」とリリスの魂が戻って、融合したアダムとリリス、それにシンジとエヴァを加えた天地再創造が始まることになります。
レイ/リリスの巨大化とは
地球よりもでっかく巨大化していく裸の綾波レイは、本作を決定づける強烈な「美しく、そして気持ち悪い」イメージです。
これはつまり、母性の体現なのだろうと思います。世界を産み出す母なるものは、世界を包み込むほどデカいのです。
そして、その世界は中二病のシンジ君が創り出した、自罰意識と罪悪感でいびつに歪んだ世界です。
気持ち悪いのは、そんな世界の母だから、でしょう。
リリスはレイの顔だけでなく、カヲルの顔もシンジに見せます。レイの顔に絶叫していたシンジは、カヲルの顔には安心して心を開きます。
レイ/リリスはアダムも取り込んでいて、カヲルの魂はアダムの魂ということになっていたので、ここにはカヲルもいるわけですね。
リリスが歪んだ世界の母性なら、アダムは本来のあるべき世界の父性ということになるのかなと思います。
だからカヲル/アダムはシンジにとって理想の自分であり、邪悪なゲンドウと敵対する存在であり、優しく導いてくれる存在ということになるのでしょう。
シンジの初号機はロンギヌスの槍と一体化して赤い生命の樹となり、レイ/リリスの中に挿入されていきます。
これはセックスの暗喩のようでもありますが、レイ/リリスが母性であることを考えると、むしろシンジが母胎の中に戻ったと見るべきでしょう。胎内回帰です。
母親の胎内に戻り、もう一度世界へ産まれ直す。その時に、「どんな世界を望むの?」ということをシンジは母から問われることになります。
そこから、シンジの内面の旅が始まります。
砂場とブランコ
砂場で友達と遊んでいるけれど、やがて友達はお母さんが迎えに来て、自分だけ取り残されてしまって、泣きながら砂山を作っては、自分で蹴って壊す幼児のシンジ。
砂山はピラミッド型でネルフ本部の形をしています。これは「男の戰い」で初号機がネルフ本部を蹴って壊そうとするのシーンの「原型」ですね。
エヴァ世界はこのように、シンジの心の中の様々な場面を「モデル」として、再構築されたものだということが示唆されているのでしょう。
子供が砂場で、砂山を作っては自分で壊す。それを、延々と繰り返す。
エヴァという物語でシンジがやっているのは、つまりはそういう反復なのだ…という意味でもあります。
反復運動を繰り返すブランコも、その象徴です。
このシーンでは、砂場はセットの上にあって、カメラや照明器具が設置されています。友達の母親は、我が子の出番が終わるのを待つようにパイプ椅子に座って待っています。
ここでは、シンジの過去の風景はフィクションに変換されています。常軌を逸したエヴァ世界が現実として描かれ、ごく普通の幼児の回想がフィクションとして描かれるという、逆転が起きているわけです。
エヴァ世界では、現実/虚構が通常と反転して描かれているということが、ここでは示唆されています。
性的なイメージ
シンジとアスカが裸で重なっているように見えるシーン。ミサトと加持が愛欲に溺れているシーン。セックスにまつわるシーンが続きます。
エヴァ世界のセックスのイメージはミサトに託されていて、「寂しい大人が慰めあってる」「体だけでも必要とされていると思える」「こんなことしてるのがミサトさん?」などと、子供たちに引かれ、責められまくるわけですが。
実のところ、シンジは人一倍セックスに関心を持ってる。それは14歳の男の子として当然のことですが、シンジはそれを全部罪悪感に変換してしまいます。
シンジのセックスへの歪んだ見方は、これもリリス的世界観から来ているのかもしれません。
どうしようもない自分を生んだのは、誘惑者リリスによる邪悪な営み。だからセックスは邪悪な、忌むべきもの。でもそんなセックスに惹きつけられる自分は、どうしようもない汚れた存在…という、ぐるぐる回る世界観ですね。
リビドー(性的衝動)は生きることに向かう力であるはずなのですが、しかしシンジが性的衝動を感じると、その前にはアスカが立ちはだかります。
レイやカヲルがシンジにとって何らかの象徴である一方で、アスカは明確に「他人」なんですよね。
しかも、ややこしいトラウマとコンプレックスを抱えていて、本心を表に出すことを怖がり、寂しさの裏返しで攻撃的な態度をとってしまう、ややこしい女の子。要は、シンジと似たもの同士ですね。
アスカに跳ね返されることでシンジのリビドーはデストルドーに変換され、シンジは「ボクなんてもうダメだ…」というループに落ちていくことになります。
シンジとアスカという関係
それぞれよく似たトラウマと心理的問題を抱えるシンジとアスカ。二人が互いに距離を縮めることで、お互いの問題解決にも繋がると、ミサトら大人たちは考えたのかもしれないですね。
しかし、結果は完全な裏目に。シンジとアスカは罵り合い、首絞めという決定的な破局に至ってしまいます。
「私のことがわかってない」と言うアスカ。
「何も言わないのに、わかるはずない」とシンジ。
レイが「わかろうとしたの?」と問うのは、テレビ版の劇中ではシンジとゲンドウの関係に対して問われています。
アスカがシンジを責めるのは八つ当たりみたいなものなので、シンジが気の毒でもあるんだけど。シンジも、実質他人に興味を持っていない、他人を使って自分を慰めることしか考えていないので、どっちもどっちだと言えます。
シンジのアスカへの「愛」は、実は自分への愛。
自分の中の欠落をアスカで埋めようとする行為。つまりは「補完計画」です。
だからやっぱり、破局に終わるしかない。
「裏切ったな!僕の気持ちを裏切ったんだ」とシンジ。これはテレビ版ではカヲルに対するセリフでしたね。
だから、カヲル殺しはアスカ殺しのメタファーだったとわかる。
「みんな僕をいらないんだ…だから、みんな死んじゃえ!」となって、シンジの世界の登場人物である他人たちはみんな消えていきます。
これは世界再創造の方向を決めるシンジの願いとして、人々がLCLに還元されていく世界をもたらすんだけど、それ以前に「Air」の殺戮と破局自体が、シンジの自暴自棄な心の反映としてもたらされていると言えます。
世界の始まりと終局の扉
「ガフの部屋」はヘブライ人の伝承。神の館にある、魂の住む部屋とのことです。
Wikipediaによれば、この世に生まれてくるすべての子供たちは、この部屋で魂を授かり産まれてくる…とのこと。
アンチATフィールドによって人の形を失い、LCLに還元された人々の魂は、天に昇ってガフの部屋に帰っていくことになります。
シンジの最終的な絶望によって、シンジの世界=エヴァ世界は終わりを迎えます。
シンジの世界の始まりはシンジの誕生です。無から生命を得たシンジという存在は、ガフの部屋で魂を得てこの世に生まれてきました。
その終わりだから、誕生時に起こったことの反対が起こるということです。シンジはガフの部屋に魂を返し、無に還ることになります。それに応じて、シンジの世界のすべての登場人物、つまりエヴァ世界の全人類も、魂を返さなければなりません。
シンジがエントリープラグ内のLCLに溶けてしまう「心のかたち人のかたち」のところで触れましたが、「自分と、自分以外とが区別できなくなる」心の状態が存在します。
いわゆる、自他境界線が消失した状態。自分の考えが他人に聞かれていたり、他人の考えが自分の中に入ってきたりする。自分という存在の統合が失われる、統合失調症という状態です。昔で言う精神分裂病。
自分と他人との区別がなくなる世界は、統合失調症の世界とも言えます。
LCLは「生命のスープ」と呼ばれます。有機物が溶け込んだ生命のスープが海を満たしている状態は、生命が誕生する前の原始地球の状況でもあります。
すべての生命がスープに還元されたなら、地球は生命誕生前の原始の状態に戻っていると言えます。そこからまた何十億年をかけて、生命が発生し進化して、慣れ親しんだ人々が帰ってくる…ということになるのでしょうか。
「火の鳥未来編」あるいは「イデオン」エンドと言えますね。
実写パート
実写の街並みや、オタクでいっぱいの映画館、コスプレした声優たちなどが映される実写パートでは、シンジとレイが夢と現実について語ります。
「都合のいい、作り事で現実の復讐をしていたのね」
「いけないのか?」
「虚構に逃げて、真実をごまかしていたのね」
「僕一人の夢を見ちゃいけないのか?」
「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせよ」
この会話が、「エヴァンゲリオンとは何か」という問いに対する答えなんでしょうね。
エヴァ世界は、シンジがそれを使って現実の復讐をしていた、都合のいい作りごと。
真実をごまかすための虚構。
シンジ一人が見ていた夢。
夢ですらない、ただの現実の埋め合わせ。
これはシンジへの批判であると同時に、エヴァンゲリオンの作り手である庵野監督の自己批評なんだろうと思います。
庵野監督は後に「シン・ゴジラ」で「現実対虚構」というテーマを再び取り上げ、「虚構で現実を描き出す」という達成を見せることになるのだけど、それはまた別の話。
エヴァのテーマであったシンジの病理というのは、辛い現実に対峙し切れず、虚構の世界に逃げてしまうことでした。そのシンジの心の傾向そのものを、エヴァの物語に変換して描いていた。
そしてそれは、当時の内向的なオタク文化を批判的に捉えた時には、多くの人に当てはまってしまう傾向でした。
辛い現実からの逃避として、フィクションに耽溺する。
もちろんそんなネガティブな面だけではないので、一方的な見方なんだけど。シンジの問題とオタクの問題が根を同じくする…ところがある…のは否めないので、オタク批判は一旦は必要だったのでしょうね。
夢、現実、真実
この最終局面でのシンジとレイ、あるいはカヲル、あるいはユイとの会話では、夢、現実、真実という言葉が頻出しています。
「他人の現実と自分の真実との溝が、正確に把握できないのね」
「じゃあ、僕の夢はどこ?」
「それは、現実のつづき」
「僕の現実はどこ?」
「それは、夢の終わりよ」
「現実は、知らないところに。夢は現実の中に……」
「そして、真実は心の中にある」
夢はエヴァ世界、エヴァンゲリオンのストーリーのほとんど全部。現実の続きに、現実をモデルとして形作られるもの。
現実は、劇中で描かれた中でどこがそうかというのは難しいのですが。エヴァ世界では、何事もそのままの形では描かれないので。
ただ、シンジがアスカの首を絞めた、ミサトのマンションのシーンは現実ではないか…という気がします。
同じミサトのマンションで描かれるシンジとアスカのシーンとして、「嘘と沈黙」のシーンも現実でないかという気がします。リアル度の高い日常っぽい空気感が共通しています。シンジがチェロを弾くシーンです。
更にチェロ繋がりで、「第3中学校の講堂」の弦楽四重奏のシーンも現実…かも。
ここで合奏していたシンジとアスカがやがて接近して、それから破局に至った…というのが現実なのかもしれません。レイとカヲルは、ここにいた友達をモデルとして作られたのかも。
真実は心の中。だから、「終わる世界」「世界の中心でアイを叫んだけもの」そしてこの心象風景のシーンなどが、シンジの真実ということになります。
実際、シンジが本音を語るのは一連の心象風景の中だけですね。
他人の存在を望む
全人類はLCLの海に溶けてしまい、シンジとレイは「どこまでが自分で、どこからが他人なのか判らない曖昧な世界」に取り残されます。
裸で、なぜかレイと騎乗位状態で結合していたり、膝枕されていたりするシンジ。
ここは「イデオン」のエンディングを連想しますね。すべての生命が散った後の世界で、コスモとカーシャがこんな感じだった気が…。
すべての他人がいなくなり、シンジの望み通りになりましたが、シンジは「これは違うと思う」と言って、再び他人のいる世界を望みます。
「他人の存在を、今一度望めば、再び心の壁が全ての人々を引き離すわ。また、他人の恐怖が始まるのよ」とレイ。
しかしこの後、シンジが目覚めるのは赤く染まった海のそばで、一緒にいるのはアスカだけなんですよね。
海が赤いということは、人はまだLCLに溶けたまま。
誰も戻ってきていない…ように見えます。
「世界の中心でアイを叫んだけもの」の通りなら、シンジは「どんな世界に生きるかは気の持ちようで決まる!」ということに気づいて、みんなに「おめでとう」と祝福されるわけなので、それまでとまったく違う明るい世界に目覚めてもいいはずですが。
でも夢は現実の続きなので、シンジの現実の反映にしかならない。
そしてシンジの現実は、アスカの首を絞めてしまったという罪から逃れられないはずです。
だから、あらためてどんな世界を構築するにせよ、シンジはまずはアスカとのことを乗り越えなければならない。
エヴァ世界の中では、一応贖罪はなされています。キリストのように処刑されるという、象徴的な形ですが。
だから、贖罪を経てあらためてまっさらな状態で、アスカと向き合う。そのために、シンジはアスカと二人きりの世界を、まず望んだのかもしれない。
滅亡後の世界で二人きりなら、アスカも受け入れるかもしれないしね。
…だったはずなのですが。
ラストシーン
自失状態になっている女の子にまたがって、その首を絞める…というのは、どう解釈しても擁護できない行為ですね。
そりゃもう気持ち悪いし、それ以前に人として駄目です。シンジはやっぱり、自分の罪に直面することも、真摯に償うこともできていない。
ここでのシンジは他人の恐怖に負けてしまって、また他人を排除するように動いてしまってる。「使徒と認識して殲滅」してるってことだと思います。
傷つけられるのが怖いから、先に相手を傷つけてしまう。
また、同じことを繰り返してる。
そんなふうに繰り返されるのだ…ということが、エヴァが最終的に至った結論なのだと思います。
人の傾向は、そう簡単には変わらない。気の持ちようでガラッと変わってしまうのは、洗脳でもされない限りそうそうない。
幼児が砂山を作っては壊すように、人は同じことを繰り返してしまう生き物だし、そんなふうにして少しずつ成長していくしかないのだ…ということ。
だから、同じことを繰り返しながらちょっとずつ先へ進む新劇場版が発想されるのも必然になるのでしょう。
エヴァ世界的に、ここから新劇場版へのリンクをどう考えるか…ですが。
シンジは結局この世界に責任を取ることができず、「逃げた」んじゃないでしょうかね。
また別の新たな虚構、夢の世界を構築して、その中に逃げた。それが新劇場版の繰り返しの世界。
アスカは、こちらの世界に取り残された。それが、惣流アスカが新劇場版に出てこない理由。
再び心の壁に引き離されて、ヒトの形に戻った人々は、新劇場版の人々になるのか。
それとも、14年後の「Q」の人々として、このほぼ滅亡したひどい世界で生きることを課せられるのか。
もしそうなら、そりゃシンジに対して怒ってるのも無理はない…ですね。
次は、「シン・エヴァンゲリオン」でしょうか…。