新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH(TRUE)2/Air/まごころを、君に(1998 日本)

総監督:庵野秀明

監督:庵野秀明、鶴巻和哉、摩砂雪

脚本:庵野秀明、薩川昭夫

製作:角川歴彦

作画監督:摩砂雪、貞本義行、鈴木俊二、平松禎史、庵野秀明

音楽:鷺巣詩郎

出演:緒方恵美、三石琴乃、林原めぐみ、宮村優子

 

 

新劇場版3作に続いて、旧作劇場版も再公開されました。

しかし、またキナ臭くなってますね…緊急事態宣言

「シン・エヴァンゲリオン」が無事に公開されればいいのだけれど…。

 

今回公開されたのは、旧作劇場版2作を1本にまとめたものです。

エヴァの旧作劇場版は2本。一つは1997年3月公開の「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生」

テレビ版総集編の「DEATH編」と、新作の「REBIRTH編」の2部構成でした。

もう一つが1997年7月公開の完全新作完結編「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」

本作は、「DEATH編」と「Air/まごころを、君に」を繋げたもので、1998年3月に「DEATH(TRUE)2/Air/まごころを、君に」として公開されたものです。

上映時間160分。「REBIRTH編」は「Air」の一部なので、これで旧作エヴァ劇場版は網羅されていることになります。

 

「DEATH編」と「Air」の間には5分弱のインターミッションが入ります。

「Air/まごころを、君に」もDVD版とかいろいろなバージョンがありますが、真ん中にエンドクレジットが入ってラストは「気持ち悪い」でブチっと終わる、劇場公開版の「気の悪い」バージョンです。

 

今あらためて観ると、「病んでるなあ…」「尖ってるなあ…」と感じます。

要は、「若いなあ…」って感じですね。ナイフみたいに尖っては触るもの皆傷つけていく感じ。

これを観ると、新劇場版は丸くなったと感じます。「Q」ですら全然マイルドな印象です。

自意識が全開なので、観ていてしんどくなってきます。だからこそ、インパクトがあったわけだけど。

大きなブームになって、多くの人のビジネスに巻き込まれる中で、この個人的・内向きな前衛作品を貫いたのは、凄いなあと感じます。

 

「思い出す」過程の映像化

テレビ版の総集編…と言いつつ時系列はめちゃくちゃにシャッフルされ、凝りすぎたコラージュみたいになってる作品です。

劇場版完結編への敷居を下げるための総集編という役目は、まったく果たしてませんね。テレビ版を全部観て話を把握してないと、何のことやらさっぱりわからない。

 

ただ、あえてそこから意味を読み取るなら、主観的な世界を「思い出している」感覚が上手く再現されている…とも言えます。

我々が過去を「思い出す」時、必ずしも過去から現在に向けて、一直線に思い出すわけじゃないですからね。

印象の強いシーンから、思い出す。ある記憶から、それに紐付いた記憶を連想するように思い出す。

ある人物の代表的な印象から、その人物の辿った運命が駆け足で回想され、それに関係した別の人物の印象に移っていく構成は、ちょうど人が記憶を「思い出す」時の感覚に近くなっています。

 

また、これは非常に「夢」に近い構成でもあります。

夢は、人が眠っている間に記憶を整理している過程だとも言われています。

 

また、記憶であるにしても、夢にしても、そこで思い出されるのは必ずしも現実に起こったことに限らない…ということも言えます。

ただ想像しただけのことや、こうであれば良かった…という願望、後悔なども入り混じってきます。

また現実にあったことも主観というフィルターを通って、強調されたり、改変されたりといったことが起こります。

そして、記憶や夢の中ではそれは現実と等価であり、区別がつきません。

 

エヴァンゲリオンという物語自体が心象風景の映像化であって、客観的なものではないのだ…ということが、再三言ってることですが。

特に「DEATH編」は、それが強調されていると思います。

シンジの苦悩の正体

時系列がシャッフルされた結果、テレビ版エヴァの客観的な物語は無効化され、物語はあくまでもメタファーとして、その中に隠されていたテーマが前に浮き出てきます。

それが、登場人物たちの心の変遷

特にシンジが、中学校の講堂で友達と弦楽四重奏を奏でる穏やかな風景から、友達を絞め殺すに至る精神崩壊の様相です。

 

エヴァという物語をシンプルにまとめると、シンジという14歳の少年が苦悩し、精神を病んでいって、自己の内面世界を崩壊させる話、ということが言えます。

…なんだけど、シンジは結局何に悩んでいるんでしょうね。

 

まず、親子関係に起因する問題があります。

シンジが幼い頃、母親がいなくなり、それを原因として父親が心を閉ざしてしまう。

その結果、シンジは親に嫌われ、捨てられたという心の傷を負ってしまう。

心の傷は、人に愛されたい、でも捨てられるのは怖い、という強迫観念をもたらし、シンジは他人との関係を上手く築くことができなくなってしまいます。

 

そこまでは明確に語られていることで、エヴァという物語は、シンジが愛されることを求めて人に近づいたり、嫌われることを恐れて逃げ出したり、その試行錯誤を繰り返す物語である…と言えます。

しかし、それだけじゃない。テレビ版終盤に至って、また一連の劇場版で強調されるのは、シンジの心の問題がもたらした「結果」です。

つまり、「シンジが他人を傷つけてしまうこと」ですね。

 

トウジの乗った3号機をボコボコにしてしまうこと。

カヲル君を、絞め殺してしまうこと。

「DEATH編」で強調されるのはその2つのシーンですが、エヴァの戦闘シーンはすべて、「シンジが他者を傷つける」ことのメタファーだったとも言えます。

「使徒を殲滅」するというのはまさにそういうことで、ロボットアニメのオブラートに包まれているのだけど、所々で現実の暗い側面が顔を覗かせます。

キレてプログレッシブナイフを振り回すシーンはいかにもそれっぽいし(プログレッシブナイフの工作用カッターっぽい形状)、エヴァが獣と化す「暴走」も繰り返されます。

 

そして、この「シンジの暴力」は「Air」で更にあからさまにされ、「まごころを、君に」では遂に「実際に女の子の首を絞めるシーン」が描かれてしまうわけです。

 

シンジのアスカへの犯罪

冒頭は、シンジがアスカをオカズにマスをかく…という「最低」シーンなわけですが、本当は「俺って最低だ」じゃ済まないですね。

昏睡状態で抵抗できない少女の服をはだけさせて、その尊厳を踏みにじってる。これもう、レイプと変わらないひどい性暴力だと思います。

 

シンジのアスカへの暴力は、決定的なシーンが「まごころを、君に」で描かれます。

ミサトのマンションの室内で、激しくなじられたシンジがキレて、アスカの首を絞めるシーン。

これもう決定的ですね。殺す意思がない限り、人は他人の首なんて絞めない。

 

「Air」冒頭でアスカは昏睡状態で、脳神経外科に入院しています。

テレビ版終盤のアスカは自信を失ってエヴァに乗れなくなり、幼い頃のトラウマを繰り返し再生して精神的に荒廃した状態にありましたが、別段脳に物理的な損傷を受けてはいなかったはずです。

首を絞められたら、酸欠になって脳は損傷を受けます。だからアスカが入院してるのは、シンジが首を絞めたせいだと考えるのがいちばん自然ですね。昏睡状態だから、相当な重傷です。

 

アスカは派手に「復活」して、2号機で自衛隊や量産機相手に無双を繰り広げますが、活動限界とロンギヌスの槍によって倒され、量産機に「生きたまま食われ、内臓を引き出される」残虐な蹂躙を受けることになります。

このアスカの運命は、レイプや殺人のメタファーであることは明確で、そうなるとアスカをそんな目にあわせた主体は必然的にシンジということになります。

その時、シンジはアスカを助けに行くというミサトの要請に答えず、無気力状態になっていて、間接的にアスカへの暴力に加担していると言えます。

 

2号機はロンギヌスの槍で左目を貫かれ、アスカは左目を失います。

そういえば、「最後のシ者」でシンジの初号機が2号機を撃退する時も、左目にプログレッシブナイフを刺していました。

この時の2号機はカヲルに操られていて、「魂は今閉じこもってる」とのことでした。エヴァの設定的には「2号機の魂はアスカの母親」とか思っちゃうんですが、この時実際に閉じこもっている様子が描かれていたのは他ならぬアスカですね。

シンクロによって動かされるエヴァは、パイロットの象徴です。だから、この時の2号機もアスカ。ここで描かれたのも、「シンジによるアスカへの暴力」ということになります。

 

繰り返しいろんな形で、「シンジによるアスカへの酷い暴力」を描き続けるエヴァ。

そういう目で見てみると、新劇場版でもそれは一貫してるんですよね。

トウジと置き換えられることで、3号機への暴力がアスカへの暴力になって、シンジによって直接アスカが傷つけられるシーンが描かれています。シンジ的には、「この時はダミーに乗っ取られてるから僕は悪くない」という認識だけど。

でもここでよくよく考えてみると、ダミーという言葉って普通は、本物ではない偽装のことを指しますよね。「アスカを攻撃したのはダミーである」と言った時、普通は表面的に見えているのは偽装であって、本当にアスカを攻撃した者は他にいるということになります。

だから、アスカを傷つけたのは本当はシンジで、それをごまかす欺瞞が「ダミーシステム」である、という言い方もできる。ゲンドウが「ダミーに切り替えろ」と言うのは、シンジが自分のひどい行為に気づかないようにごまかせ!と言っているのかもしれない。そう考えると、ゲンドウ、優しいですね。

 

「Q」のクライマックスは、カヲルと共にドグマを目指すシンジと、それを止めようと追いかけるアスカの2号機の戦いが描かれていて、これよく見たら「最後のシ者」と同じ様相です。

ここでもシンジはアスカを攻撃しています。アスカは「女に手をあげるなんて、最低」と言ってますね。

自分から攻撃しておいて、反撃されたらその言い分はなかろう…と思っちゃいますが、シンジのアスカへの加害の歴史を踏まえると、ちょっと意味合いが変わってきます。

 

他人との適切な距離を保てないという心理上の問題が、最終的に他人を傷つける犯罪として表出する…というのは、十分に考えられることです。

今になると忘れられがちですが、1990年代後半は、少年犯罪の凶悪化が社会問題化した、ある種のブームになっていた時代でもありました。

「14歳」という年齢も、少年犯罪と結びつけて語られる年齢でしたね。エヴァのテーマの一つに、犯罪を犯してしまう少年の心理、犯罪を犯してしまった少年の心の再生があることは確かでしょう。

愛で破壊されるエヴァ世界

エヴァ世界はメタファーなので、劇中で描かれたことが必ずしもそのままの真実というわけではないでとは思います。

特にこの首絞めシーンは人類補完計画が発動して、様々な虚実入り混じるビジョンが描かれる中に出てくるので、心象風景的に捉えられることも多い。

ただ、他のシーン、例えば講堂のシーンや、電車の中のシーンと比べても、このマンションの一室のシーンはリアルです。

このシーンは、エヴァ物語の流れの中ではどこにも繋がりません。どこにも繋がらないだけに、このシーンはメタファーであるエヴァ物語には属さない。つまり、むしろ真実に近いものなのではなかろうか…という気がしてきます。

 

「Air」ではひたすら残虐に、ネルフの若いスタッフたちが虐殺されていくわけですが、エヴァ世界はシンジの世界なので、これはシンジの世界が残酷に破壊されていっているということです。これほどの残酷さは、どこから来るのか。

それはつまり、シンジの自罰意識がそれほどに大きいということの表れでしょう。

これまでに描かれてきた、シンジの漠然とした「ハリネズミのジレンマ」、命じられた任務としてのカヲル殺しなどでは、これほどまでに強烈な自罰意識は説明がつかない。

 

「Air」の英題は”Love is destructive”、愛は破壊的。

この字幕は、自衛隊が突入してネルフのスタッフたちが次々と虐殺されていく、もっとも残酷なシーンに重ねられます。

「首絞めシーン」で、シンジは机に突っ伏しているアスカに、「何か役に立ちたいんだ。ずっと一緒にいたいんだ」と言って近づいていきます。「アスカじゃなきゃだめなんだ」とも。

これは一応「愛の言葉」ですね。アスカに歩み寄ろうとするシンジは、自分なりにアスカを愛そうとしているつもりでいる。

それに対してアスカは、「じゃあ何もしないで。もうそばに来ないで」と冷たく拒絶し、「あんた誰でもいいんでしょ!」「本当に他人を好きになったことないのよ!」と見抜いてしまうわけですが。

 

愛を人に向けても、ひどい憎しみと嘲りが返ってくる。

その絶望が、シンジの世界を壊していくものなのでしょう。

それは実のところ愛というか、「自分の欠落を何かで補完しようとしている」だけに過ぎないわけだけど。

性への関心と嫌悪

劇場版完結編に顕著なのは、人間関係の性的な側面、それに対する興味や嫌悪です。

それによって全体の中二度が格段にアップしていて、ヒリヒリする感じになっていると言えます。

冒頭シーン、廃墟の壊れた看板には、「産婦人科・性病科」と書かれてました。性病科と看板に掲げるところなんて、実際にはあるのかな…?

 

人間関係への鬱屈した思いに、多感な年頃の少年が組み合わされれば、性的なことが大問題として感じられるのは必然と言えます。

また、他人と上手く関係を築けないという病理が、性犯罪に結びついてしまうというのもよくある話です。

 

シンジは14歳の少年らしく、セックスに強い興味と関心を持つと同時に、そんな自分に恥ずかしさと嫌悪感を抱いていて、そこからも彼の自我は分裂していきます。

レイやアスカにシンジは強いリビドーを感じますが、同世代の少女に性衝動を感じることには、どうしても罪悪感が付きまといます。それはもう、アスカは過剰にそれを指摘して攻撃してくるしね。

年上のあけっぴろげなお姉さんであるミサトさんは、シンジにとって性的な憧れの対象です。

しかし、ミサトのことをより深く知っていくうちに、シンジは彼女の中にある大人として当然のセックスに気づき、そこにも嫌悪感を抱いていきます。「シンジの中のミサト」は、何度も執拗にセックスしていることを責められることになります。

 

ミサトに引きずられて初号機を目指すシーンで、生きる気力を失ったシンジに、ミサトは「自分のことは自分で決めろ」と告げます。

「あなた自身のことなのよ。ごまかさずに、自分の出来ることを考え、償いは自分でやりなさい

ここも、客観的に見ると、ネルフを守るためにシンジにはどうしても初号機に乗ってもらわないといけない場面ですからね。シンジ自身のことじゃないはず。だから、ここも見えているのとは違うことが話されているのだと言えます。

ミサトが言っているのは、実際には「アスカを傷つけてしまったシンジが、どうするか」ですね。特にポイントになるのは、「償いは自分でやりなさい」というところではないでしょうか。

 

ミサトは「大人のキス」でシンジを送り出します。「帰ったら続きをしましょう」と、セックスを表に出すことも厭わない。

このシーンは格納庫へのエレベーターの前で展開しますが、この周りにはいくつものドアがあって、そこには「R-14」などの数字が書かれています。

「大人のキス」のシーンで特に大きく映るのは「R-18」のドア。たぶんこれ、大人へのドアをシンジがくぐっている…というような象徴なんでしょうね。

ミサトの死を背後に、エレベーターに乗ったシンジが辿り着くフロアには「R-20」とあります。

 

ここはつまり、ミサトはシンジを大人にしようとしているということなんでしょう。

性的な意味…ではなくて。誰かに行き先を決めてもらうのではなく、自分で自分の行動を決め、それに責任を持ち、過ちを犯したなら、自分で償いをすること。それが、大人であるということですね。

 

ミサトは一貫してシンジの保護者であって、シンジが何とか立ち直るのを支えようとしている。

それがミサトの仕事なんだろうし、それだけでなく、父親に絡んだトラウマを持つミサトは、シンジに強い思い入れを抱いているようです。

そんなミサトが、ここではもう瀕死になっている。シンジの世界の中で、シンジの絶望の反映として、シンジ世界の住人としてのミサトも命を失う寸前。

それでも最後まで、シンジを何とかしようとするんですよね。ミサト自身にとっても辛い部分である、自分の中のセックスを表に出して、シンジのリビドーを焚きつけてでも、シンジを救おうとしている。

 

それでもなお、シンジはまだ大人になれないわけですが。

後編、「まごころを、君へ」に続きます!