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「エヴァンゲリオン心理解析5」はこちら。

 

EVANGELION:3.0 YOU CAN (NOT) REDO.(2012 日本)

総監督:庵野秀明

監督:摩砂雪、前田真宏、鶴巻和哉

脚本:庵野秀明

製作総指揮:大月俊倫、庵野秀明

主キャラクターデザイン;貞本義行

主メカニックデザイン:山下いくと

画コンテ:鶴巻和哉、樋口真嗣、摩砂雪、前田真宏、小松田大全、轟木一騎、庵野秀明

作画監督:林明美、井上俊之

音楽:鷲巣詩郎

主題歌:宇多田ヒカル

出演:緒方恵美、林原めぐみ、宮村優子、坂本真綾、石田彰、三石琴乃、山口由里子、沢城みゆき、立木文彦、清川元夢

 

①失敗がいっぱい

「Q」が何かというと、これはいろんなフェイズがあると思うんだけど。

まず第一には、「壮大な失敗をしてしまった人が、失敗をなかったことにしようとして、さらに傷口を広げる話」なんだと思います。

これ、とても普遍的な話だと思うんですよ。

誰しも、身に覚えがあることだと思うから。

 

失敗は、それが痛恨の失敗であればあるほど、自分で認めたくないものですからね。

認めたくないものだな…自分自身の、若さゆえのあやまちというものは。…であって。

自分が悪い、自分自身の失敗である、ということを、まずは認めたくない。そういう心理が働きます。

 

自分は失敗しちゃったわけだから、もう今度は、自分は何もしないのが何より最善であるかもしれない。

自分よりもっと能力のある人に、なんとかしてもらう方が、結果的にはより良い選択である…ことの方が多い。

でも、それじゃ済ませられないんですね。自分でなんとかしなきゃ!って思っちゃう。

 

というのは、その時に本人が気にしていることは、実は起こってしまった事態をなんとかすることではないんですね。

そうではなくて、「自分自身が失敗をしたという烙印を押され、評価が地に落ちてしまったこと」。これが、本人にとっては認めがたい最悪の事態なんですよ。

だから、なんとかして自分の失態を回復しようとする。地に落ちてしまった自分の評価を、なんとかして逆転させて、以前の評価を回復させようとして、あがく。

そうして、大抵の場合より悪いことになっちゃうわけですが。

 

だから、いいわけをする。「あれは僕の失敗じゃなくて、仕方がなかったんだ! 他にどうしようもなかったんだ!」

誰かに責任を押し付ける。「僕のせいじゃない! 父さんがやれって言ったから、その通りにやっただけじゃないか!」

逆ギレする。「誰も何もしてくれなかったじゃないか! 他にどうすればよかったって言うんだ?」

 

起こってしまった事態を受け入れることができないから、次にどうすれば被害を最小限にできるか…というような、具体的な対策を考えることができない。

「起きてしまったことを、なかったことにしたい」という思いで、頭の中はいっぱいですからね。

「なかったことにできるよ。やり直しがきくよ」と言われたら、もう大喜びでそこに飛びついちゃうんですね。

 

やり直せる!というわずかな可能性を最大限に過大評価して、他の可能性はすべて意識から閉め出して、しゃかりきに頑張ろうとするんだけど。

でも、そこでの頑張りは、本当に事態を良くしようとしてのことじゃない。あくまでも、自分の評価を回復しようと必死になっているに過ぎないことは、周りにもバレバレになっちゃうから。

だから、いくら頑張っても誰にも評価されないんですよね。さらに評価を落としてしまう。

 

これ、怖いのは、普段は仕事ができる人であっても、こういうことは起こり得るということなんですよね。

どんなに能力の高い人でも、一切失敗しないなんてことはあり得ない。なんらかの失敗は、してしまうものだから。

普段仕事ができる人ほど、自分の失敗を認められなくて、なんとかして取りつくろうとしてしまったりする。

その結果、後でかえってひどいことになっちゃうんですが。

 

本当、直視するのは辛いことなんですよね。自分のカッコ悪いところ、恥ずかしいところが全開にされてしまうことだから。

本作は本当に、映画1本まるまる使ってそれを描くんですよね。しんどいテーマだなあ…と思うんですが。

 

②エヴァまたは巨神兵またはゴジラによる世界の滅亡

「破」は思うさまに盛り上がって終わったんだけど、その続きを期待する観客に肩透かしを喰らわせるように、「Q」では始まった時点で既に14年経っていて、間の描かれていない間に世界はとっくに終わってしまっていたのでした。

いいところが飛ばされた…と多くの人が感じたと思うんだけど、でも考えてみれば、「破」の最後にリツコが「世界は終わる」と言ってるんですよね。

「この世界の理を超えた新たな生命の誕生。代償として、古の生命は滅びる」と言っていて、人類の滅亡はもう明言されている。

だから、その続きを描くとしても、それは世界が終わっていくさまを描くしかなかった。

そしてそれは、旧劇場版で既にやっちゃっていることであって。

 

だからまあ、繰り返す必要はないでしょう、ということだったんでしょうね。

その代わりに「Q」では、前座的に短編「巨神兵、東京に現わる」が用意されていて。

「破」と「Q」の間に起こったのは、こういうことである、という意味なんでしょうね。「Q」のテレビ放映でもこの短編はセットになっていたし、ソフトでも必ず「巨神兵」を観てから「Q」本編を観る順番になっています。

 

旧エヴァを含んだループ説は様々な解釈でも言われていることで、「Q」が実は「破」の続きではなく、旧劇場版を引き継ぐ時間軸に位置する…というようなことも予想されているんですが、しかしもはや、そんなこともどうでもいいことになってますね。

「Q」が旧劇場版の後の世界だろうと、「破」の後の世界であろうと、それで特に何が変わるわけでもない。

どちらにしても、「シンジがトリガーとなってサードインパクトが発生し、人類がほぼ滅亡した」という結果は変わらないわけです。

 

滅亡の形は、どんなものであっても構わない。

「巨神兵東京に現わる」のように異形の巨人がビーム兵器で世界を焼き尽くしたのでもいいし、「シン・ゴジラ」のように究極生物が単独進化を遂げながら世界を燃やすのでもいいわけです。

「シン・ゴジラ」のラストでゴジラのしっぽから分離しようとしていた人型は、巨神兵のようでもありましたね。

どちらにせよ、後に残るのは破壊し尽くされ、荒廃を極めた赤い大地。

「炎の7日間」があって、破壊を終えた巨神兵は骸となって、世界を埋め尽くす無数のエヴァ状の残骸になるのでしょうか。あるいは、ターミナルドグマを埋め尽くす骸骨? あるいは、インフィニティのなりそこない?

 

正確に何が起こったか、そこについては、そんなに問題にされていない。実際、描いてないわけですからね。要は、太古からプログラムされていた大量絶滅が実際に起こった、ということ。

そして、それを引き起こしたのが個人であるということ。シンジがそれを引き起こした張本人である、ということです。

③皆がシンジを憎む理由

世界は滅亡した。

そして、その張本人であり責任者は、シンジくん

それはわかったんだけど、でもあらためて冷静に考えて、「破」の状況から世界が滅亡に向かったとして、そこまで誰もがシンジの責任だと判断するだろうか?というのはやや疑問です。

あそこでのシンジは、通常の任務の範囲で、使途を撃退するために行動してただけですからね。同じパイロットであるレイを救うというのも、エヴァパイロットとしては当たり前の行動だと思えます。

結果的に、シンジの選択がサードインパクトを招いてしまった…というのは、それはそうかもしれないんですが。

しかし、それであればミサトやリツコや、当時のネルフの人々はみんな同じ責任があるのではないでしょうか? だって、誰もシンジに「しちゃいけないこと」を説明してはいなかったのだから。

シンジ一人に責任が押し付けられ、皆が憎しみの視線を向ける。それを、当時のネルフの人々も当然に思っている。というのは、不自然であるように感じます。

 

こんなふうに誰もがシンジを憎み、それに疑いを持たないという状況になるためには、ただ「破」の状況では足りない。

旧劇場版での、シンジ自身の願いによる人類の補完であっても、やっぱり足りないような気がします。ここでも、シンジは何の説明も受けていなかったし、ネルフの大人たちは誰もシンジが正しい選択をする手助けをしなかったのだから。

 

そう考えていくと、皆がこの世界の惨状をシンジ一人の責任だと判断し、シンジ一人に怒りや憎しみを向ける状況というのは、この世界そのものをシンジが作っている場合しか、あり得ない。

この世界を生み出し、形作っている「神」が、シンジその人である場合、です。

 

この間の「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」のレビューで、エヴァとの類似について書いています。

あの映画は、夢邪鬼によって作られた、ラムの夢の世界に閉じ込められたサクラ先生やあたるたちが、夢の世界からの脱出を目指して奮闘する物語でした。

このエヴァQの世界は、それなんではないでしょうか?

この世界は、シンジ自身によって作られた、シンジの心の中の世界なんじゃないでしょうか?

 

テレビシリーズについて書いた「エヴァンゲリオン心理解析」のシリーズで、僕はずっと、エヴァ世界はシンジの心の中の世界なんだ…という前提で記事を書いてきました。

そこでは、その世界の中にいる、シンジ以外の登場人物が、その世界をどう認識しているのかについては、深く触れていなかったのですが。

Qの世界は、「シンジが作った、シンジの心の中の世界の登場人物である人々が、これがシンジの心の中の世界であることに気づいた世界」なのではないでしょうか?

「ビューティフル・ドリーマー」で、自分たちがラムの夢の中の世界にいることに気づいて、必死で脱出を図るあたるやサクラ先生たちのような立場です。

そうであれば、皆が「この世界を滅ぼした張本人」としてシンジを憎み、怒りの視線を向けてくるのも、無理のないことではないでしょうか?

④渚カヲルの意味するところ

「破」と「Q」の間に、14年経っている。そう考えると、なんだか滑稽なことになってくるのが、渚カヲルくんですね。

彼はだって、「序」の最後で目覚めて、「また3番目とはね」とか言っていて。

「破」の最後でいよいよ「さあ約束の時だ」とか「今度こそ君だけは幸せにしてみせるよ」とか言ってたんですが。

そう言った途端にシンジが幽閉され、出番がなくなって、ただひたすら何もせずに、次の出番が来るのを14年もぼーっと待っていたことになりますね。

「約束の時」はいったいどうなったんだ…。

それだけ待ってたなら、そりゃピアノも上手になりますよね…。

 

だからね。やっぱり、この「14年」というのも欺瞞だと思うんですよ。

「14年経った世界」というこの設定そのものが、シンジの思いつきで。みんな、14年分の記憶を持った状態で、ポッと出現させられたんじゃないかな。

(滅亡後の世界を生き抜く、辛い辛い14年。そりゃ腹たちますね!)

 

テレビ版の「最後のシ者」は、傷ついたシンジが美しい少年に心を開きかけるけれど、その少年に裏切られたことを知って、殺してしまう物語でした。

他人を受け入れられないという病理を持つシンジの心の物語を描いてきた旧エヴァでは、それはもっとも重要なエピソードだったと言えます。むしろそのエピソードを核として、旧のエヴァ世界は構築されていたと言えるくらい。

 

でも新劇場版では、シンジは人に心を開けないという病理を脱したはずでした。

シンジのコミュニケーションは次の段階に進み、レイと恋愛関係を築き、「ひとつになる」という段階へと進みかけていた。本来なら、シンジはカヲルとの禍々しいエピソードをもう一度繰り返す必要はないはずだった。

それなのに、結局カヲルに慰められ、頬を赤らめたりして、あげく死に至らせてしまうという同じ展開を繰り返してしまっています。

 

「破」の最後で、シンジとレイが「ひとつになる」のを邪魔したのはカヲルでした。そこから見れば、Qというのは「カヲルがシンジをレイから強奪した世界」とも見えます。

カヲルは「今度こそ、君だけは幸せにしてみせる」なんて言ってましたが、Qでは「ごめん。これは君が望む幸せではなかった」になっちゃってますね。

コミュニケーションが発展して、恋愛にまで至ったけれど、嫉妬とか干渉とか、性別をめぐる葛藤とか、恋愛のドロドロしたところまでも発展しちゃって、結果、みんなが不幸せになってしまった。

Qで描かれたのは、要はそういうことでしょうか。素直に本心を出したからと言ってそれでコミュニケーションはゴールではなくて、その先にまだまだややこしいことが待っている…。

なんだろう、恋愛/結婚を経た庵野監督の実感なんだろうか。

 

この辺りのところを見てもやっぱり、Qの世界というのは、「序」から「破」の一直線な世界の延長線上の世界ではない。

「破」での選択がもたらすしがらみ、レイとカヲルの三角関係をめぐるドロドロ、旧エヴァにおける対人関係の悩みまでみんなぐしゃっとミックスして、あらためて「後ろ向きな少年」シンジの心象の象徴として、めいっぱい壊れた世界として「リビルド」したシンジの内的世界。

それが、Qの世界なんじゃないでしょうか。

⑤「天気の子」とQ。セカイ系が直面する「責任」

一人の女の子を助けるために、世界を犠牲にする。

どっかで見たような…と思ったらこれ、「天気の子」(2019)ですね。

意図的かそうでないのかわからないけど、「天気の子」のストーリーは「エヴァ破」から「エヴァQ」への流れと同じテーマにクローズアップしています。

 

違うのは、「天気の子」はそれを肯定的に描き切ったというところですね。

レイを救おうとして世界を滅ぼしてしまったシンジは、自分のやってしまったことに後悔し、悩み、その選択をやり直そうとすることになります。

それに対して、「天気の子」の帆高は確信的に世界より女の子を選び、後悔しません。水没し、半ば崩壊した世界を描きつつ、映画は前向きに締めくくられます。

 

この辺、ちょっと面白いなと思いました。新海誠監督は、エヴァの影響を受けた「セカイ系」の作り手の一人だと思うけど…。

これだけシビアな物語を描きつつも、庵野監督は「世界なんて滅びたっていいじゃないか」という物語を描くことはなかったんですよね。その点で、庵野監督の方が常識的だし、あるいは新海監督の方が先へ行っている…かもしれない。

 

個人の問題と、世界全体のありかたとを、同価のものとして扱うセカイ系

エヴァンゲリオンが、その火付け役だったわけですが。

世界ってなんなのか…ということを真剣に考えていくと、たどり着く概念なのかなと思うんですよ。結局のところ、僕たちが体験している「世界」というのは主観的なもので、一人一人が個人的な「自分の世界」の中で生き、死んでいく。そこから「外に出る」「客観的な世界を知る」ということは、この世界の構造上絶対に不可能なわけだから。

 

個人的な世界が死ねば、それは世界が滅亡するのと同じこと。

その認識のもとに、シンジという一人の対人恐怖を抱えた少年の内面世界を、神話的ルールに従って人類と使徒が戦いを繰り広げるスペクタクル世界として再現したのが、エヴァンゲリオンでした。

だから、旧エヴァはシンジの心の変遷に沿ってストーリーが展開していった。

シンジが対人関係に絶望し、他人のいない世界を望んだから「人類補完計画」が起こり、人々はLCLの海に還元されて消えていった。

シンジは最後に思いとどまって、アスカが生き残って「気持ち悪い」と言ったわけだけど。

 

こういった形で世界の惨状を描くのは、あくまでもシンジの心理を描く上での「象徴」であって、「現実」ではない。だから、壊れてしまった世界のその後がどうなるかということは考えないし、世界への責任ということも考えない。

…というのが、従来のセカイ系の考え方だったのだと思うのですが。

でも、エヴァ以降、アニメの世界を中心に安易なセカイ系が世に溢れ、世界の滅亡がエンタメとして消費されていく中で、違和感が蓄積していった…のかもしれない。

 

「エヴァQ」は2012年公開で、東日本大震災を経ての作品でもありますね。

個人の「心のもちよう」で、世界は地獄にも天国にもなり得る…というのが旧エヴァのメッセージで、新劇場版が「破」に至るまで描いていったのもそういうことだったんだけど。

それはそれで事実ではあるけれど、でも、個人の「心の持ちよう」と関係なく、外的要因によって世界が地獄になってしまうことも起こり得るし、世界にはそんな災害が溢れている。

また、個人主義が行きすぎた結果として、誰も責任を取らぬまま問題が放置されたり、被害が拡大して悲劇を再生産するようなことも、実際に起こってしまっていて。

そんな問題意識が強くなった結果、「個人が欲望を貫いた結果、災厄が起こる」「そして個人はその責任を問われる」という形に、「破」と「Q」はなっていったんじゃないでしょうか。

 

「天気の子」の、「世界への責任を気にせず個人を貫く」というスタンスは斬新でした。それはそれで、すごく共感できるものでした。

…というのは、やはり震災や、毎年の災害が問題になっている状況だからこそだと思うのですが、いわゆる「自粛への同調圧力」というものも大きくなっていて。

特に若い人が、何かちょっとはみ出したことをすると、一斉に攻撃され責任を問われ、炎上してしまうような……窮屈さ、息苦しさが目立つようになってきていて。「天気の子」は、それを受けたものだったんですよね。

ただ、「天気の子」が共感できるのは、世界が払う犠牲が「雨が降り止まない」という微妙なラインに設定されていて、その災害の結果として人命が失われている…ということが見えにくくされているからに過ぎない…かもしれない…のですよね。

「天気の子」がアレで済んでるのはたまたまかもしれなくて、多くの人命が失われ、世界が姿を変えてしまうような、大惨事が起こっていたかもしれない。

その時に、好きな子を救うために行動することは、どう位置付けられるのか…が問題になってくる。

 

フィクションにそこまで考えるのか…という気もしてきますが、でも優れたフィクションが現実に大きな影響を与えるのも、事実ですよね。

今、新型コロナウィルスの問題で、個人と社会の軋轢はむしろあからさまに誰もの目につく問題になっていると言えます。人の生死がかかっているということが明白で、だから個人の自由が抑制されることを、誰もが自然に受け入れられるようになっている。

ここでまた、テーマがシンクロしてしまうという偶然がすごいと思うのですが…。時代に敏感な優れた作品というのは、そういうものなのかもしれないですね。

 

その時その時で、世界のありさまを反映して、物語が描くべきテーマも次々と変わっていく。「旧エヴァ」〜「序、破」〜「Q」〜「シン・ゴジラ」〜「天気の子」という流れを見ていると、それを強く思います。

だから、その都度、非常に深く考えている。だからこそ病気になっちゃったりもするし、これだけ時間がかかっているのでしょうね。

エヴァが90年代以降に強い影響力を持ち、現実世界と関わってきたからこそ、いかにしてその責任を取るかということを考えている。それが、庵野秀明監督の産みの苦しみなのだろうと思います。

「シン・エヴァンゲリオン劇場版」がどんな結末を見せてくれるのか。見当もつかないですが、楽しみに待ちたいと思います。

 

もう一つの重要なファクター、ナウシカとの関連はこの記事をどうぞ。