Weathering With You(2019 日本)
監督/脚本/原作:新海誠
製作:市川南、川口典孝
製作総指揮:古澤佳寛
作画監督:田村篤
気象監修:荒木健太郎
音楽:RADWIMPS、三浦透子
出演:醍醐虎汰朗、森七菜、小栗旬、本田翼、倍賞千恵子、吉柳咲良、平泉成、梶裕貴
①エンタメであると同時に個人的な作品
結論から先に言うと、とても良かったです!
面白かったし、きれいだし、気持ちが良かった。物語も好みでした。
そして、すごい映画でした。ラストに導かれる地点は、これまでどんな映画でも見たことがないような、驚くべき場所でした。
すごいな…と思ったのは、「君の名は。」のあれだけの大ヒットを受けて、大企業のスポンサーが大量について。テレビでもガンガン宣伝して、大変な期待と思惑を背負わされてる。
大ヒットして当たり前のような状況。すごいプレッシャーだと思うんですよ。
世間一般の期待値も高まってる。その中で、方向を変えた小品などに逃げずに。あえて「君の名は。」と同じ方向で勝負している。
若い男女のラブストーリーで、青春映画でもあって、一方でスケールの大きなセカイ系の物語でもあって。
RADWIMPSの歌があって、感情を掻き立てるクライマックスがあって。
それでいて、しっかりとまったく違う映画になっている。決して焼き直し、2匹目のドジョウ狙いの安易な作品じゃない。
今回思ったのは、すごい個人的な物語でもあるんですよね。作家的というか。
現代社会のある風潮に対して、新海誠という個人がはっきりと異議を申し立てている。そういう、明確なメッセージ性を持った映画でもあります。
それは本当に、大衆に迎合するような方向性ではなくて。
場合によっては嫌われもするような、硬質なメッセージを打ち出している。
これだけの大きなプロジェクトと化した映画で、口を出す人もたくさんいるだろうに、自分の個人的なメッセージ性を貫く。勇気ある作品だと思いました。
それでいて、皆に求められるエンタメとしての質は完璧に達成していて。
いや本当、すごい映画だと思います。
②家出の理由を問わないということ
高校生の帆高(ほだか)は家出して新宿にやって来ます。帆高はフェリーで知り合ったオカルト雑誌ライターの須賀を頼り、彼と夏美二人だけの事務所で下働きを始めます。
ある日、帆高は街で少女・陽菜(ひな)と出会います。彼女は、願うことで晴れを呼ぶことができる“100%の晴れ女”でした…。
主人公たちの設定から、前作と大きく違っています。今回は、既定路線からこぼれ落ちてしまった、はぐれものたちの物語。
家を飛び出して一人で東京に来て、新宿の裏通りをふらつき、ネカフェに泊まり、風俗店のゴミ箱から拳銃を拾ってしまう家出少年。
母親を亡くし、弟と二人きり天涯孤独になって、世界の片隅で未成年だけでどうにか生きている孤児の少女。
特徴的なのは、背景が説明されないこと。
帆高がなぜ家出をしたのか、元いた場所で何があったのかは、一切語られません。
今回は全体が帆高の視点で描かれているので、陽菜の事情も彼女が語らない限り知らされることはありません。彼女の実際の境遇は、物語が進む中で少しずつ明かされていきます。
これ、今回の映画のメッセージ性と深く結びついてるところだと思うんですが。
人を、その理由の正当性で評価するような視点が、周到に避けられているんですね。
たとえば、家出の原因がいじめとか虐待とか、世間一般的に重いものであれば認められるけれど、ただ親と喧嘩しただけとかであれば許されない!…みたいな。
そういう、高みから見下ろしていいとか悪いとか、人を評価する視点があらかじめ除かれている。
そうじゃなくて。それが帆高にとって切実であるなら、それがすべてだということ。
世間の見方とか、一般的な尺度とか関係ない。他人の尺度で自分を測る必要なんてないんだということ。
若者たちが誰かの評価を気にするのでなく、自分の心に正直に生きること。この映画はそこに、価値を置いているのだと思うのです。
③天気というモチーフのユニークさと、飛翔シーンの素晴らしさ
天気というモチーフも、ユニークだと思いました。SFのモチーフとしての天気って、これまで見たことのない斬新さがありました。
天気って、どこかブラックボックスみたいなところがあるんですよね。これだけ科学が進んで、気象についての理解も進んでいるけど、それでも明日の天気予報は当たったり、当たらなかったりする。
「天気ひとつで気持ちが左右される」っていうのもその通りで。天気を変えるのは気圧配置だとわかっていても、人はてるてる坊主を作ったりしてしまうもので。
晴れ男とか雨女って言葉も、普通に使うしね。
特に最近は異常気象の多さを実感しているところでもあって。
それは突き詰めれば温暖化などの環境変化の影響ということになるんだろうけど、そういう大規模な変化ってなかなか目には見えにくいですからね。
でも、目の前のゲリラ豪雨とか、「経験したことのないような大雨」とかは目に見える。
何かが天から突きつけられているような、不吉な感じというのは皆が共有していたりもします。
雑居ビルの屋上の祠が天とつながっていて、陽菜がそこを訪れることで“100%の晴れ女”になる。
その部分の理屈は例によってぼんやりしています。「君の名は。」で入れ替わりやタイムスリップの理屈がぼんやりしていたのと同様に。
でもその曖昧さがあまり気にならないのは、天気というものがそもそも曖昧なものだから。
日常生活の中で常に触れている、「科学や人智の及ばない感じ」が天気にはあるから、現実からファンタジーへの接続も、スムーズに見えるのだと思います。
そして、映画館の大画面との親和性。
空を見渡して、遠くに雨が降っていたり、雲の切れ目から光が射したりする様を見た時に感じる神秘性。
空を見上げて、雲がすごいスピードで動いていくのを見た時の、そこに何か別の世界があるような感じとか。
そこから、映画の中で2回ある、空の上へ舞い上がるシーンの開放感へとつながっていきます。
飛翔シーンは本当に見事だったと思います。美しくて、同時に怖さもあって。
透明な魚が泳ぎ、入道雲の上に草原が広がる異世界を、強い風に吹かれて持ち上げられるリアルな体感とともに、描いていく。
この飛翔シーン、素晴らしいクオリティだと思いました。全体としては暗いトーンの映画で、スペクタクルシーンは本当ここくらいなんだけど、鬱屈した気持ちを吹き飛ばすような興奮を感じさせてくれる飛翔シーンです。
宮崎駿作品の飛翔シーンに匹敵するような、見方によってはそれを超えたと言っていいような。
映画らしいダイナミックな見せ場でした。
④伝承を通して描く人柱の説得力
“晴れ女”に関してはSF的な理屈付けではなく、気象神社の伝承という方向から肉付けしていきます。この辺り、科学的な背景でなく口噛み酒の神事で超常現象を説明した「君の名は。」と同じアプローチですね。
雨乞いのイメージとかがあるから、天気と神事は結びつきやすい。「君の名は。」以上に、すんなりと飲み込みやすくなっていたように思います。
「天気と人柱」というのも、映画の中では唐突に感じる人もいるかもですが、日本の各地に昔から伝わる伝承です。
橋が大雨で流されないよう、橋脚に人を生きたまま埋める。天の神様への人身御供ですね。
偉いお坊さんが干ばつの村を救うために、自ら人柱になるとか。
「まんが日本昔ばなし」のトラウマエピソードで有名な、「キジも鳴かずば」も大雨を鎮めるために百姓を人柱にする話です。
(強烈なエピソードなので機会があったら見てみてください!)
映画ではこれらの伝承から、神的な力を得て天気を変えることのできる天気の巫女…「天気の子」のシステムを構築しています。
強い願いを持って鳥居をくぐることで、空と繋がり、「天気の子」の力を得ることができる。
でも、人間を超えた力には代償がある。「天気の子」はやがて人柱として天に召され、神隠しにあって、人の世界から消え去ることになる…。
陽菜が「天気の子」になったのは偶然でしかないんだけど、それは古代からずっと続いてきた強固なシステムであって。そう簡単には、逃れられない。
大雨が降り止まず、真夏に雪が降る異常気象を鎮めるために、陽菜が人知れず犠牲になる…。
という運命に、帆高が全力で反抗することになります。それこそが、本作の核心のテーマですね。
⑤正しくない行動の果てに辿り着くところ
この辺りからラストのネタバレを含んできます。未見の方はご注意ください。
帆高が陽菜に惹かれ、陽菜も帆高に惹かれていくのは、やはり彼らがよく似た境遇にあるから。
家出と死別という差はあれど、二人とも親を欠いていて。新宿という猥雑なガチャガチャした街に、心細さを抱えながら漂うように生きている。
子供であれば当たり前に得られるはずの、家という安心を失ってしまって、不安な宙ぶらりんの状態。
帆高と陽菜、陽菜の弟の凪が3人でラブホテルに泊まるシーンも、セクシャルな意味は何もなくて、そんな場違いな場所で眠らなければならない彼らの所在なさを表現しています。
だから二人の関係は、恋愛というにはまだ幼い感がありますね。
それよりむしろ、「同士」のような関係。
理不尽な世界を子供として生き抜く、同じ目的を持った仲間のような側面があります。
だからこそ、心から守りたいと思う。
陽菜が人柱になるなんていう理不尽は到底受け入れられず、何がなんでも取り戻そうと思う。
たとえ世界が壊れようとも。
終盤にかけて、帆高はどんどん「一般的に言って、正しくない」行動へと突っ走っていきます。
警察の取り調べ室から脱走する。
夏美のバイクに乗せてもらって、パトカーを振り切る。
線路に侵入し、高架の上を走っていく。
立ち入り禁止の雑居ビルに入り、以前そこに捨てた拳銃を拾って、止めようとする須賀に向ける。
駆けつけた警官にも向ける。
それだけで済まず、発砲する。
そうした数々の「正しくない」行動の果てに、帆高が選択するのが「天気なんて狂ったままでいいんだ!」ということ。
世界の形を決定的に(悪い方に)変えてしまうという選択。
異常気象によって世界中に大変な被害がもたらされても、それでも陽菜を取り戻す方を選ぶんだ、という選択です。
でもこれ、考えてみれば迷うまでもない、当たり前の選択であるはずなんですよね。
須賀ならともかく。少なくとも十代の少年にとっては、異常気象を止めることよりも、好きな女の子を助けることの方が大事に決まってる。
でも、今、そういう当たり前が選びにくい世の中になってるんじゃないか。
社会的責任とかを気にせずに、ただ自分の心のままに選ぶ。それが、若いということの特権であるはずなのに。
むしろ若い人の方が、過剰な社会的責任を問われたり、正しいことしか選べないような状況になっている。
ちょっと正しくないことをしたり、言ったりしただけで「炎上」してしまったり。
帆高なんて、いろんなことで責め立てられそうです。家出とか、脱走とか、拳銃とかのことで。
東京を水没させたのが帆高の選択だと分かったら、それこそとんでもないバッシングに晒されそうですね。
「天気なんて狂ったままでいい」なんて言ったら、それこそ「不謹慎だ!」とかね。
子供が拳銃撃ったり、ラブホテルに泊まったり、警察に反抗したり「不道徳的で不快だ!」とか。
正しいんでしょうけどね。でも、正直言ってこういう正論の意見って、実は上っ面だけのことでしかない、結局どうでもいいことであって。
本当は、もっと大事なことがあるはずで。その大事なことを、そんなつまらない正論に押さえ込まれてしまうべきじゃない。
新海誠監督が若い観客たちに伝えたいのは、そんなメッセージじゃないのかなあ…と感じました。
だから、結構挑発的なんだと思うんですよね。上のような、短絡的な「叩き」をできる隙が、意図的にたくさん作ってある。
このビッグバジェットの作品で、そんな挑発的な仕掛けを仕込んでいる。だからやっぱり、ものすごく勇気のある、画期的な作品なんだと思うんですよ。
⑥いまだかつて誰も見たことのないラストシーン
自分が犠牲になることで、世界を救うヒーローの物語は、たくさんありますよね。
それはそれで確かに気高い、立派なことだけど、でも無理強いされるものではないはずで。
人柱というと大げさだけど、似たような話は今でもいくらでもあふれていて。
会社全体の利益のために、無茶な残業も断り切れない、とか。
みんなが迷惑するからと言われて、自由に有給を取ることができない、とか。
集団の和を乱すことを恐れて、本当は嫌な目にあっているのに言い出せず我慢している、とか。
公共と個の対立という点では、道路を通すための立ち退きとか、典型的ですね。
大勢の利益のために、一人が抵抗することは「わがままである」として、批判されがちだったりします。
でも、その構図の究極にあるのは、「国を守るために命を差し出せ」ということになりますね。それも絵空事ではなく、70数年前に現実にあったことです。
公共の利益のために…というけれど、でもそれって本当に、個を殺してまで達成しなければならない大事なことなのか。
たかが公共の利益じゃないか、なんて言えたりもするんじゃないか。
映画のラスト、水没した東京が映し出されます。家を失って移住した人々、船で通勤する人々、沈んだスカイツリー。
近未来ディストピアモノの滅亡後の世界のようで、これ映画の締めくくりのシーンとしてはかなり思い切った設定なんだけど、不思議とバッドエンドには感じないんですよね。
いや、だって。ただ雨が降り止まないだけじゃないかと思えるから。
陽菜が生きていて、帆高と陽菜がまた会えて。それが何より素晴らしいことで、その日が雨か晴れかなんてどうでもいい。たかが天気じゃないかと思えるから。
「自己犠牲を払って世界を救う物語」というテンプレートを使いながら、そのまるっきり逆の地点に着地する。
それでいて、バッドエンドじゃない、世界が救われていないのにハッピーエンドという、本当にこれまで見たこともない、初めて出会う地点に連れてこられてしまう。
だからやっぱり、すごい映画だと思います。アニメの歴史に、残るのではないかな。