これはよいオンライン聖書
これが望みの聖句をさがすのにとてもよい。
だがまだインストールできていない。
pcでのよいツールがみつからなかったが
面白いのをみつけた。
オンライン聖書で
望みの句を読んでくれる。
素人がよむよりもいい感じがする。
まあ、むかしのガリ版と活版印刷の違いだろう。
よいと思いきや、
ちょっとあやしいところ(エホバの証人)がサービスをしていた。
注意注意。
別のサイトもあります。
聖書の論理的および非論理的理解
論理と非論理のバランス
パウロとイエスの教えは明らかに逆のものがあるが(権威の問題、律法の義と信仰の義)
12使徒とパウロの教えの間にも似た問題がある。
それは論理と非論理バランス問題ともいえるものである。
使徒行伝6章2-4節では
そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、「わたしたちが神の言(ことば)をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。
そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊(みたま)と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、
わたしたちは、もっぱら祈と御言(みことば)のご用に当ることにしよう」。
10節
彼は知恵と御霊(みたま)とで語っていたので、それに対抗できなかった。
そして
第一コリント二章(パウロ)
そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。
パウロはもともと神学に精通していたが、神学(知恵)によるなといっている。だからあきらかに知恵の価値の評価が低い。一方、12使徒は御霊(聖霊)と知恵を併用せよといっている。
一見その違いを見逃しそうだが、聖書を学ぶときには重要な違いとなる。
パウロのように聖霊を重視する学び方では正しいアプローチも期待できるがその一方で主観的に偏った聖書の読み方の危険も伴う。各個人にほんとうに聖霊に満たされているかどうかが不明だからである。実際、ヒトの聖霊の満たされかたのレベルには差があり、同じ個人でもそのレベルは一定でないように聖書に記述されているからだ。また常に聖霊を重視するあまり知恵(論理性)を軽蔑して見向きもしなくなる傾向があるようだ。
この点で12使徒のほうが論理と非論理バランスをうまくとっているようにみえる。
12使徒はイエスが復活のあと40日間にわたって、個人的な指導を受けた。
一方、パウロはもともとユダヤ教の神学に精通したあと、イエスの一方的な顕現によって聖霊をうけ、イエスの帰依した。その差がでていると思われる。
聖書には両者の教えが対立する箇所が少なくなく、どちらがどうかという問題は結局聖霊に手綱無ければならがいということになってしまうが、大多数のクリスチャンには明示的な聖霊光臨がないのでそれはかなわない。
権威の問題 ヨハネ19章9節から
もう一度官邸にはいってイエスに言った、「あなたは、もともと、どこからきたのか」。しかし、イエスはなんの答もなさらなかった。
そこでピラトは言った、「何も答えないのか。わたしには、あなたを許す権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのか」。
イエスは答えられた、「あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい」。
実はパウロだけでなくペテロも、二人とも、このよの権威は神から与えられているといっている。(I ペテロ 2-13)
さて、上述の文脈でイエスはピラトに対してピラトの権威は神からあたえられているといっているのだろうか?
イエスの返答は以下のように考えれべきなのだろうか?
”ピラトさん、あなたの権威は神から与えられている。だが、その権利を
間違って行使しようとしている。それは罪である。メシアであるわたしを貴方にひきわたし、十字架につけようというものは、神の権威を悪用したものであり、その罪はさらに重いのです。
”
”貴方の権威の行使は神がゆるされたのであって、あなた自身が誇ることではないのだ。”
とこのように考えてしまうと、イエスとペテロ、パウロの間には矛盾がなくなるのだが。
しかし、そういうことになるとこの世の悪の活動はみな神が許したことになる上に、悪にも従いなさいというとんでもないことになってしまう。これはイエスの名によって悪霊をしりぞけることと矛盾をしてしまう。頭の痛い問題だ。
あるいは
こう考える事もできる。
”上から賜るのでなければ(変な日本語だ)”
というっていることは、”上から賜らない場合もある”という含みを持たせている。
悪霊をおいだすことができるのは主からの恵みによるチカラである。
それに、イエスは全ての権威は神からあたえられたなどとはいっていない。
それをいっているのは
ペテロとパウロである。
論理に疎い牧師の一例 神の権威
現代からみると理不尽なことをいっている。
(「神から出ない権威はない」(ロマ書:13章 - 1))
その権威はこの二千年間悪用されてきた。
だから権威の問題については牧師は凡庸な考えをのべないようにしないといけない。
この問題についての一例がある。(ここをクリック)
。。。。
権威に従わねばならないということは、逆に言うと権威を持っている人には、正しいことを命令する責任がある、ということです。
。。。。
こんな凡庸な解釈で権威の問題をそらしてはいけない。
これはやはりパウロの弊害がでているのではないか。
イエスのいわれるように、
神からこない権威は権威ではない。
キリストは「もし上から与えられなければ、あなたは私に対して何の権限ももっていはいない」と言われた。
(ヨハネ19-11)
そしてイエスキリストは当時にローマの権威に逆らっている。
パウロってルール違反では? >>間違い
とおしてクリスチャンになる。
だれでもイエスを通さないで神のこになることはできないからだ。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければだれひとり父のみもとに来ることはできません。」(ヨハネ14:6)
ところが例外がある。
パウロだ。
パウロは水の洗礼も聖霊の洗礼も火の洗礼もうけていない。
本来ならイエスがそうしたように
ヨハネから水の洗礼をうけなければいけないはずだ。
イエスの弟子からも洗礼を受けていない。
パウロはだれからも洗礼をうけていない。
(? のちにペテロらにはあっている。ガラテア1:18-23)
イエスの十字架の以後に与えられた聖霊もうけていない。
(これは間違いでした。アナニヤから洗礼をうけていました。
失礼しました)
パウロが主張するところは
神(イエス)から直接、招命をうけたという:
ダマスコへの途上において、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と、復活したイエス・キリストに呼びかけられ、その後、目が見えなくなった。アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロのために祈るとサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった[7]。こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒となった[8]。この経験は「パウロの回心」といわれ、紀元34年頃のこととされる。一般的な絵画表現では、イエスの幻を見て馬から落ちるパウロの姿が描かれることが多い。
祈りが叶えられないたくさんの理由
決してあきらめず、いのりつづける。
あきらかな回答がないばあいでも、ちいさなヒントに望みをたくすか、
死後の天国にいける希望につなぎ、現状はあきらめない。
もともと
祈りというものは神様の考える最適の時にかなえられると
考えているクリスチャンがおおいのだから、
決してクリスチャンは現実をみとめず、かならじ
叶えられると信じ続ける。
だからほんとうに祈りがかなえられるかどうかは
時期を限定した、締め切りをもうけた祈りにすればよい。
だがそんなことをしたら神の怒りをかってしまうから
大半の祈りにはそんなことをしない。
だからもし回答の時期は祈る人にはきめられないのなら
祈りは答えられるかという質問はもともと存在しえない。
それでもヒトは祈る。そして長いあいだ神様から回答がなければ
その理由を考えざるを得ない。
日本のクリスチャンは少ないから神学も充分発達していない。
だから
祈りが答えられない場合の満足のある説明はほとんどない。
それではアメリカではどうか。
以下に一例をみてみよう。
http://www.openbible.info/topics/unanswered_prayer
Unanswered Prayer
祈りが答えられない理由を聖書から引用している。
いやー、四十も祈りが答えられない理由があるんかい。
でもよんでみると、祈りがかなえられる理由が大半じゃないか。
予言を求める
I コリンシアン
はさまざまな意味で興味深い。
そのなかのひとつ
パウロが命令している。
第14章1節
愛を追い求めなさい。また、
霊の賜物を、
ことに預言することを、熱心に求めなさい。
こんなことを実行している教会はほとんどないだろう。
(わたしの知る春日部にあるアルジェリア系の教会CGMIでは予言を含めてパウロがいっているところの種々の賜物をうけている人々のあつまりであるという)
そもそも予言の意味がわからない。
勉強の必要あり。
異言についての結城浩さんの解説
使徒行伝をよむとそのなまなましい描写があるが、日本の伝統的な教会では否定されているか、怖がられていることがおおい。
しかし、聖霊のバプテズマを教義の中心にあげてるところでは
異言をかたるところが多い。
わたし自身は異言ははなさないが結城浩さんというかたが
その体験を含め解説をしているのをみるとその一端がうかがえる。
ここ(クリック)
抑えた筆致ながら異言にかんして聖書にのっとった解説だ。
異言の効果として:
- 大胆に祈り、大胆に証しすることができるようになった。
- 両手を上げて祈ることができるようになった。
- 聖霊による聖書の解き明かしが行われるようになった。特に旧約と新約の呼応の理解が(うまく言えないけれど)急激に深まった。私はこれを聖霊様の働きだと理解している。
(青字は引用)
わたしの体験ではこの最後の部分は
聖霊のバプテズマをうけただけでもおなじ現れがあるようにおもえる。
また理解だけでなく聖書にそって生きようと言う気持ちもわいてくる。
さらにわたしの周囲の例(異言をはなす)では聖霊から物理的な声と同じような語りかけがあるという。
それこそイエスが約束したものだ。しかし
いかほどに頻繁かはわたしにはわからない。
時間指定のない契約
約束事項に時間指定がない約束に意味があるだろうか?
聖書には
クリスチャンは祈りなさい、(ただしく)祈ればかならず願いはかなえる。
そして皆祈る。
祈る。
しかし叶えられない。
あるいは叶えられたかのようにもみえるときもあるが
はっきりとはわからない。
神はクリスチャンが天国だけでなく
この地上においても
精神的にばかりでなく物資的にも豊かにくらせるようの
用意してくれた(東康男)
しかし、そのとおりにならない例の多い事よ。
時間指定のない約束はすべて叶えられる。
それが神の約束の本質なのだろうか?