優しさがいちばん -37ページ目

ユダの裏切り

マタイ27章ではユダが裏切るとイエスは明言している。
弟子たちはこれを聞いていなかったのだろうか?


  1. 夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。
  2. そして、一同が食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。
  3. 弟子(でし)たちは非常に心配して、つぎつぎに「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。
  4. イエスは答えて言われた、「わたしと一緒に同じ鉢(はち)に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。
  5. たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。


パウロ本領を発揮して雄弁となる

第一コリント2章ではパウロは知恵があるにもかかわらずこれを否定していたが
またパウロは訥弁だという牧師もいるが
とんでもはっぷん。
使徒行伝17章では理論家パウロが本領を発揮していきいきと論争を行っている痛快な章である。

難問 ”すべての権威は神によって与えられている”か


優しさが一番からの転載:

”すべての権威は神によって与えられている”
311以降、たいていの権威は”悪”であることをしらされたから
新約聖書のこの表現は大問題であることになる。
あきからにこのステートメントは間違いである。

「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」(ローマ13:1)


しかし聖書を
自ら考えず、おしえられたとおりに信ずる大多数のクリスチャンも牧師も
このステートメントを正当化しようとして間違いに陥る。

ではなにが正答か?

聖書に間違いがあるのか。
ひとつ間違いがあれば、他にも間違いがあることになり
聖書の正統性を再検討しなくてはいけない。

それとも聖書の読み方に問題があるのか?

しばらくのあいだ、わたしにとっては大問題であった。
それでかのパウロのロマ書以外に同様のステートメントが
ないか調べた。

ヨハネ19章:
ポンテオ・ピラトはイエスに声をかけました。「私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを知らないのですか」(ヨハネ19:10)。

イエスは答えられました。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません」(ヨハネ19:11。ピラトはあたかも自らが生殺与奪の権威を持っているように振る舞っています。しかし、イエスは権威とは人間のものではなく、上から与えられるものであることを明確にしておられます。

イエスがヨハネ伝のなかではっきりといわれている。
パウロがいうところのすべての権威が神から与えられているのではない。ローマの権威は神から与えられていない。

それではパウロが間違っているのだろうか?
必ずしもそう考えなくてよいこともありうる。
それは
聖書の真意は全体からきめるべきで、特定の状況のもとで
状況にあわせて判断すべきなのだろう。

これだから聖書を読み解くのは難しい。
クリスチャンの大半は宗派のおしえに忠実に従うかそのように教育されている。
牧師はその典型だ。羊は自分のまえの羊しかみえない。
だからパウロがその状況にあわせたステートメントであっても
言葉通り、字義通りに解釈して一般化しがちになってしまい
聖書の真の意図を見誤ってしまう。

ウランテイアブック

Let us Reason ミニストリーというサイトに
カルトの一派としてウランテイアブックというのがあった。
(ちなみに統一教会やエホバの証人もカルトして取り上げられlている)
なにかとおもって調べてみると
ニューエイジ系、スピリチュアル系の宣伝本らしい。

目次の一部をみると
Part 1
The Central and Superuniverses


Part 2

The Local Universe


Part 3

The History of Urantia—Planet Earth
Part 4

The Life and Teachings of Jesus
4章にあることないことがかかれているという。

聖霊で読みなさい

クリスチャンのブログのある方に
聖書は神の例に導かれかかれたというのなら
その根拠を聖書から証明してほしいという意味合いの
ご質問をしたところ、
”聖書を読むのは聖霊で読みなさい” 
その根拠はご自分の実体験からきているといわれる。
つまり聖霊の洗礼を受けている人にしか納得できないということだ。

そして
聖書での参考個所はコリント第一の2章だといわれる。
パウロはイエスを語るのに聖霊によるといっているので
聖書を読むのに聖霊で読めとはいっていないのだが
拡大解釈をしていると思われる。

聖書には使徒行伝のなかで弟子たちが聖霊とバプテズマをうけて
チカラ強い伝道をはじめたとある。

聖霊を受けるには
イエスの弟子(現在を含む)から
または
主に求める、
あるいはパウロのように本人の医師とは無関係に
主から一方的に聖霊がくだる
などがある。

また、聖霊の洗礼を受けなくても水の洗礼でも受けられると
大多数のクリスチャンが考えている。
そういう皆さんは聖霊の洗礼に消極的だ。

そして聖霊を求める祈りをしても
いつその回答があるかわからないケースも多々ある。
問題のひとつはそこだ。
祈っても受けられないの祈り手が考えざるを得ない。

さらに聖霊の洗礼をうけても、その行動が神の義となっていない
ケースが多々みられる。
みよ数々の不祥事を。

世の中そういうぐちゃぐちゃの状態で
パウロがコリントのひとたちに説く言葉も
説得力があるかといえば?
あったこともないイエスから聖霊がくだるパウロとはなにものか。

なんども繰り返すのだが、
イエスは新約聖書についてはなんの予言もしていない。

ローマンカトリックの悪時の反動で
新約聖書がすべての頼りであるとはイエスはいっていない。
約束をしているのは
聖霊の助け手なのだが、
これを受けたと思われる人々は少数派なのだ。

天の国にはいることはなんと難しい事よ。


これは便利 インターネットとつかった聖書

これは便利 インターネットをつかった聖書(クリック)

インターネットを使った聖書は数が多い。英語版ならなおさらだ。

まだ一部しか知らないが私が便利と思っているのは

新約聖書 (口語 1954年改訳版)旧約聖書(文語)INDEX
THE NAMES AND ORDER OF THE BOOKS OF THE TESTAMENT

クリック

これは読みやすく調べやすい。

世の終わり

ヨハネ24章に世の終わりがどのようにくるかを示す。
それはいつくるかイエスさえわからないという。
してみると三位一体というがイエスが天の父にすいてすべてしっているわけではないことを示している。

主はまたもや介入された

パウロとシラスのコンビはまたもや獄中にとらえられたが
またしても
主が介入されて地震をおこされ、牢獄の鍵さえあけてしまった。
使徒行伝16章。

国際的な神学者

最先端治療から:
最先端物理の世界や映画の世界では

どうしても西洋人が数歩前をいっているのは認めざるを得ないが
神学の世界ではまだしられていないが数少ない日本人がいる。
故東康男博士だ。

そのひととなりをしるには
”うまれかわるとは”
国際クリスチャンセンター
の小冊子をよむとわかりやすい。
国際クリスチャンセンターには重要なメッセージを
MP3 で聞く事が可能だ。

牧師を先生といってはいけない。そして

マタイ23章では
神以外はだれも先生とよんではいけないと命令をしている。
いま日本ではプロテスタントの牧師でさえ牧師先生と読んでいる。
まあ、そこまではいいが
肉親上の父親も父と読んでは行けないと命令をしている。
これは字義通りに従わないと行けないのか。
そうでないとしたら
どういう論理でそうではないのか?