聖霊で読みなさい
クリスチャンのブログのある方に
聖書は神の例に導かれかかれたというのなら
その根拠を聖書から証明してほしいという意味合いの
ご質問をしたところ、
”聖書を読むのは聖霊で読みなさい”
その根拠はご自分の実体験からきているといわれる。
つまり聖霊の洗礼を受けている人にしか納得できないということだ。
そして
聖書での参考個所はコリント第一の2章だといわれる。
パウロはイエスを語るのに聖霊によるといっているので
聖書を読むのに聖霊で読めとはいっていないのだが
拡大解釈をしていると思われる。
聖書には使徒行伝のなかで弟子たちが聖霊とバプテズマをうけて
チカラ強い伝道をはじめたとある。
聖霊を受けるには
イエスの弟子(現在を含む)から
または
主に求める、
あるいはパウロのように本人の医師とは無関係に
主から一方的に聖霊がくだる
などがある。
また、聖霊の洗礼を受けなくても水の洗礼でも受けられると
大多数のクリスチャンが考えている。
そういう皆さんは聖霊の洗礼に消極的だ。
そして聖霊を求める祈りをしても
いつその回答があるかわからないケースも多々ある。
問題のひとつはそこだ。
祈っても受けられないの祈り手が考えざるを得ない。
さらに聖霊の洗礼をうけても、その行動が神の義となっていない
ケースが多々みられる。
みよ数々の不祥事を。
世の中そういうぐちゃぐちゃの状態で
パウロがコリントのひとたちに説く言葉も
説得力があるかといえば?
あったこともないイエスから聖霊がくだるパウロとはなにものか。
なんども繰り返すのだが、
イエスは新約聖書についてはなんの予言もしていない。
ローマンカトリックの悪時の反動で
新約聖書がすべての頼りであるとはイエスはいっていない。
約束をしているのは
聖霊の助け手なのだが、
これを受けたと思われる人々は少数派なのだ。
天の国にはいることはなんと難しい事よ。
聖書は神の例に導かれかかれたというのなら
その根拠を聖書から証明してほしいという意味合いの
ご質問をしたところ、
”聖書を読むのは聖霊で読みなさい”
その根拠はご自分の実体験からきているといわれる。
つまり聖霊の洗礼を受けている人にしか納得できないということだ。
そして
聖書での参考個所はコリント第一の2章だといわれる。
パウロはイエスを語るのに聖霊によるといっているので
聖書を読むのに聖霊で読めとはいっていないのだが
拡大解釈をしていると思われる。
聖書には使徒行伝のなかで弟子たちが聖霊とバプテズマをうけて
チカラ強い伝道をはじめたとある。
聖霊を受けるには
イエスの弟子(現在を含む)から
または
主に求める、
あるいはパウロのように本人の医師とは無関係に
主から一方的に聖霊がくだる
などがある。
また、聖霊の洗礼を受けなくても水の洗礼でも受けられると
大多数のクリスチャンが考えている。
そういう皆さんは聖霊の洗礼に消極的だ。
そして聖霊を求める祈りをしても
いつその回答があるかわからないケースも多々ある。
問題のひとつはそこだ。
祈っても受けられないの祈り手が考えざるを得ない。
さらに聖霊の洗礼をうけても、その行動が神の義となっていない
ケースが多々みられる。
みよ数々の不祥事を。
世の中そういうぐちゃぐちゃの状態で
パウロがコリントのひとたちに説く言葉も
説得力があるかといえば?
あったこともないイエスから聖霊がくだるパウロとはなにものか。
なんども繰り返すのだが、
イエスは新約聖書についてはなんの予言もしていない。
ローマンカトリックの悪時の反動で
新約聖書がすべての頼りであるとはイエスはいっていない。
約束をしているのは
聖霊の助け手なのだが、
これを受けたと思われる人々は少数派なのだ。
天の国にはいることはなんと難しい事よ。