優しさがいちばん -34ページ目

ウランシアの音声版あり

ウランシアの音声版あり。
これだと目が疲れなくて澄む。
ここ(クリック)

聖書でもオンライン聖書では音声できけます。

そして復活

マタイ28章はイエスの復活の場面だ。
天使はマリアたちにイエスは復活されてさきにガラリアにいっているというがイエスはマリアたちがガラリアにいくまえにあっているので多少齟齬がある。
  1. イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
  2. それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
  3. あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

    ここで

    父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、

    とあるところが紛らわしい。

    この聖句のために、水の洗礼をうければ、おのずから
    聖霊の洗礼をうけるという主張がおおく、
    そのために、聖霊の洗礼をうけられないクリスチャンが多い。牧師やその周囲のひとたちがそういう考え方をもっているから、聖霊の洗礼を希望しても、結果的に足をひっぱってしまうことになり、イエスが天国で準備している地上での質の高い生活をえられず、地上で苦労しながらいきていくことになりかねないのだ。


十戒とユダヤ人の人口

チャールトンヘストンの十戒をみた。
出エジプト記によればエジプトに奴隷としていたユダヤ人の数は成年男子で
60万人とある。
ところで紀元前300年のときのエジプトの都市アレキサンドリア人口が700万人で自由市民が30万人というから、都市と年代の違いはわからないがユダヤ人成人人口が60万人といのはありうるかもしれない。
家族の数を考えればユダヤ人200万人というのもありうるか。
この数のユダヤ人が砂漠に40年間生活をしていたという。
この間、(天からふってきた)食べ物はマナだったとある。
まあ、ありえないような歴史だ。

結局、かれらはどうなったのだろうか?


ウランテイアブックのいかがわしさ

ウランテイアブックのなかの

The Urantia Book, Part 4, Paper 194

Bestowal of the Spirit of Truth
の一部を読んでみたが
聖書と比べるとなにかインチキ臭さがあった。
なんだかなー。

ファイマンの神の見解

ファイマンはアメリカでもっとも人気のある理論物理学者で
わたしの最も好きなひとだ。
ファイマンは並の天才ではないのだが
物理以外の世界にたいして彼の個性が強すぎることによる
哲学や神への偏見が強い。

ここにファイマンの神への考えの一端がある。


新約聖書の権威のでどころ

新約聖書の権威のでどころ、
つまり、新約聖書が神のとこばであるという保証は
どこにあるかということが新約聖書からは明確になっていない。
キャンパスクルセーダーズのBill brightが学生からの質問を想定してその説明をここでやっている
傍証の傍証をやっているようで隔靴掻痒な説明だ。

なんだかなー。こんなまどろこしい説明なのか?
おまけにその問の子和えがわからないのは
わからないひとが聖霊をうけいれていないような
書きぶりだ。

ユダヤ教とキリスト教のコメントに対して

ユダヤ教とキリスト教の”本質”は同じものだと言う
コメントをいただきましたがそうではありません。
本質ではなくおおもとが同じだといいかえなくてはいけません。

もとはエホバの神からきていますがキリスト教は
イエスキリストをとおさなかけばキリストとはいえません。
イエスキリストの十字架による人間の救済がその本質です。


聖霊によるがんの治癒

ブログガんになったら
からの転載:

まえから知っているのだが
イエスキリストをとおしてがんの癒しがある。

知り合いでもあり、なによりも新約聖書にはいたるところに
病の癒しの例がある。

世の中には少なからずの宗教でも病の癒しがいわれている。
キリストを基盤とする味方によれば
人間の本質は霊であり、この霊をとおして病があり、その
癒しもおきる。
さらにいえば世界は2元論で考えられる。
つまりキリストをもとにする聖霊とサタンを基盤にする悪霊の
二種類存在する。
善と悪というよりもキリストによる聖霊とサタンによる悪霊と
いうほうがより真理にちかい。

聖霊による癒しの施設をつくることが可能化?

世界は両者の戦場で病の癒しについても
その戦場での現象なので
ことは簡単ではない。

イエスは二度、さけばれたのか?

マタイ27章
  1. さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。
  2. そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
  3. すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。
  4. するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦(あし)の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
  5. ほかの人々は言った、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。
  6. イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。


    実は他の福音書を総合するとたしか
    7回ことばを発せられていたはずである。

    とするとマタイはその一部しか記述していないことになる。
    これは少なくとも4つの福音書を総合的にみないといけないということになる。

聖書の自己撞着

イエスが十字架にかかって長い間、ひとびとはカトリック教会の下にあった。
1529年マルチンルターが抗議書を神聖ローマ帝国カール5世に抗議書protestantを送る迄の1500年間まで聖書を信仰の基準とすることはなかった。
いまのプロテスタントの起源はここにあるのでその歴史はせいぜい513年である。
ルターの改革とは

ルターらは洗礼聖餐以外の教会の諸秘跡を排し、聖書に立ち返る福音主義を唱え始め、また西方教会では、それまでほとんどラテン語でのみ行われていた典礼聖書をドイツ語化するなど、著しい改革を行った

であった。

ところでルターの主張の根拠はあったのだろうか?
聖書にもとめてもその根拠がみあたらないどころか

イエスキリストはクリスチャンの救い手として
聖霊の約束をしたのであったと
聖書に記してある。

つまり私たちが頼るべきは聖霊であると明示してあるのだ。
ここには
自己撞着があるのではないか。

その回答は聖霊に求めるしかない。