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論理と非論理のバランス

論理と非論理のバランス


パウロとイエスの教えは明らかに逆のものがあるが(権威の問題、律法の義と信仰の義)

12使徒とパウロの教えの間にも似た問題がある。


それは論理と非論理バランス問題ともいえるものである。


使徒行伝6章2-4節では

そこで、十二使徒は

弟子全体を呼び集めて言った、「わたしたちが神の言(ことば)をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。

そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊(みたま)と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、

わたしたちは、もっぱら祈と御言(みことば)のご用に当ることにしよう」。


10節

彼は知恵と御霊(みたま)とで語っていたので、それに対抗できなかった


そして

第一コリント二章(パウロ)

そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。


パウロはもともと神学に精通していたが、神学(知恵)によるなといっている。だからあきらかに知恵の価値の評価が低い。一方、12使徒は御霊(聖霊)と知恵を併用せよといっている。


一見その違いを見逃しそうだが、聖書を学ぶときには重要な違いとなる。

パウロのように聖霊を重視する学び方では正しいアプローチも期待できるがその一方で主観的に偏った聖書の読み方の危険も伴う。各個人にほんとうに聖霊に満たされているかどうかが不明だからである。実際、ヒトの聖霊の満たされかたのレベルには差があり、同じ個人でもそのレベルは一定でないように聖書に記述されているからだ。また常に聖霊を重視するあまり知恵(論理性)を軽蔑して見向きもしなくなる傾向があるようだ。


この点で12使徒のほうが論理と非論理バランスをうまくとっているようにみえる。


12使徒はイエスが復活のあと40日間にわたって、個人的な指導を受けた。

一方、パウロはもともとユダヤ教の神学に精通したあと、イエスの一方的な顕現によって聖霊をうけ、イエスの帰依した。その差がでていると思われる。

聖書には両者の教えが対立する箇所が少なくなく、どちらがどうかという問題は結局聖霊に手綱無ければならがいということになってしまうが、大多数のクリスチャンには明示的な聖霊光臨がないのでそれはかなわない。



パウロの聖霊の洗礼

わたしはパウロはイエスから直接に聖霊の洗礼をうけたとおもっていたが

思い込みの勘違いであった。聖書をつねづね読んでいないとこういう間違いを犯すようだ。

イエスはパウロに直接に顕現したが、そのときにパウロに洗礼を授けたのではなかったのだ。パウロは他のクリスチャンから聖霊の洗礼をうけていたのだ。パウロは実質的に3日間断食をした(9章9節)その時に断食とともに祈っている(11節)サウロ(パウロ)はアナニヤから按手をうけて聖霊の洗礼を受けているのだ。


たしか聖書のほかの箇所では按手の洗礼を受けずに聖霊の洗礼をうけている例があったような。実は妻の知り合いが水の洗礼さえうけないで異言の洗礼をうけているひとがいる。

このような例外があるのだが、パウロの場合は男性アナニヤから聖霊の洗礼を受けるようにイエスから直接指示を受けているのだ。


これをパウロの回心と呼ぶらしい。パウロの回心はイエスがパウロに直接介入しておきたものだ。


パウロの回心以前にはパウロはクリスチャンを迫害していてステパノの殺害にはパウロも

賛成していたとある(8章1節)。



恐ろしいイエスの命令

マタイ第5章でイエスはいわれる。

27. 『姦淫(かんいん)するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
28. しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
29. もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である
30. もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。

これではわたしたちは
みなカタワになってしまうが、こででは困るから
この命令は無視するのか?

怒れるイエスと命令

マタイ5章でイエスは弟子たちを前にして怒る。

イエスがイエスらしからぬ言葉をいう。

17.わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
18.よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
19.
それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

イエスが律法をかたくなに守るパリサイ人をしかりつける場面も
あるが、このように基本は旧約聖書の律法を守るように命令をしている。
わたしたちはそんなことは都合が悪いからイエスの教えを無視していないだろうか? イエスの教えはこのようにパウロの教えとはことなる場面が少なくないのである。

くどくどと祈るな

イエスはマタイ6章7節から
くどくど祈るな
といわれている。

それななイエスご自身が40日間も荒れ野で
なにをそれほど長くいのられていたのだろう:


  1. また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
  2. だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
  3. だから、あなたがたはこう祈りなさい。

愛とは

愛とはコリント13にある:

愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない、

不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。(Ⅰコリント13:4-8

この言葉は文法的には間違いでわかりにくい。

愛とこれにたいする述語は成り立たない。
これらは等号で結ばれる物ではなく
愛をもつ神・神の子の属性である。

我々の助けては聖霊であるが
おうおうにして
高ぶり、誇り、自分の利益を求めやすい。
教会をひきいる牧師でもそうであるのが現状である。
特にアセンブリーの教会でおちいりやすい。
もちろんルターが糾弾したようにカトリックでも同様である。

また
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

とは祈ってもそのような事を容認しているともみられ
祈りが答えられない、あるいは答えない理由となっていると
解釈されやすい。

以上はパウロのことばである。
パウロとイエスは重要な点で逆のことをいうことがあるので注意。

聖書とは

聖書とはというときよく誤解をする。
新約聖書のなかに聖書はとあるのはまだそのときには
新約聖書はなかったのだから
もちろん旧約聖書のことであるが
これを新約聖書として引用してしまう場合がある。

たとえば:

聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。(Ⅱテモテ3:16


とあるように
新約聖書をして神の霊感をうけたという主張をするときに
この聖句を引用してしまう。

イエスとパウロの主張の違い


同じ新約聖書なのだからイエスの教えもパウロのおしえも同じだとおもわれるだろうが、先入観にとらわれず、赤子のようにココロをリセットしてよむとかならずしもそうではないことに気づく。
各教派の牧師はすでにその開始者の先入観にそまっているものを
ただ右から左におしえるだけのものが多いからである。

権威に関してはイエスとパウロは矛盾することをいわれている。

権威以外にも神の義として
イエスは律法の義を(マタイ)、パウロは信仰による義を(ロマ書)
とこれまた異なる主張をしている:

ロマ書10:1-4

マタイ5章は矛盾をしている。

マタイではイエスは旧約の世界のように律法はまもらなくてはいけないといい

(律法による義)

ロマ書ではパウロは

モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いている。

しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。

と信仰による義を重要視している。

この程度の指摘はおおくの神学者がしているはずである。

神はどのように宣教をすることを望まれているか

現在のプロテスタントのほとんど全部が新約聖書のおしえがが唯一の従うべき教えであると信じている。
それはルターなりカルバンなりの宗教改革のリーダーたちが
そう教えているからである。
しかし、皮肉なことに、その新約聖書には、新約聖書を神の聖典とすべきなどとはどこにも書いていない。
わずかに旧約聖書がイエスキリストをメシアだとおしえているにすぎない。
イエスは弟子たちになんといったか。
イエスは弟子たちになにを約束したのか。

弟子たちは新約聖書を読んだか?
パウロは新約聖書を読んだか?
彼らは新約聖書を読んでいないのに
普及に成功している。

私たちも彼らと同じようにするのが
本来の姿ではないのだろうか。

それこそが神の望まれていることではないだろうか。

いやそういいきったしまわないほうがよいかもしれない。


パウロの主張は以下のようなものであるが。

THE FIRST EPISTLE OF PAUL TO THE
CORINTHIANS
コリント人への第一の手紙

第2章(CHAPTER 2)
  1. 兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。
  2. なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。
  3. わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。
  4. そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。
  5. それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。
  6. しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。
  7. むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。
  8. この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。
  9. しかし、聖書に書いてあるとおり、
       「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、
       人の心に思い浮びもしなかったことを、
       神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」
    のである。
  10. そして、それを神は、御霊(みたま)によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。
  11. いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
  12. ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。
  13. この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊(みたま)の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。
  14. 生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。
  15. しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。
  16. 「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。
出典はここ。

ナイジェリアでのペンテコステ派

ナイジェリアではペンテコステ派が多いらしい。
ここつくばにもペンテコステ派の学生さんがきていて
熱心なクリスチャンぶりを発揮している。
彼らは聖霊の恵みによりちから強い生活をおくっている。


このナイジェリアのペンてコスト派の紹介がここにある。
(クリック)


ペンテコスト派とは使徒行伝2章1-4
の記述にもとずいた信仰でまさにイエスキリストが
ご自分の死後と復活のあとに
聖霊を助けてとしておくると約束をしたものである: