優しさがいちばん -31ページ目

クリスチャンは

クリスチャンのみなさんは
いちど信じたら二度と
真理の追求にたちむかいことはない。

クリスチャンに限らないが。

それが人間のDNA に組み込まれた習性か。

ブルースリーを越えた空手の型

この宇佐見サンの空手の型
ブルースリーを越えた。

素顔との落差が大きいんです。

封印のイエスの問題点

封印のイエスの99ページに
アレクサンドルのクレメンスは
マルコの福音書は加筆や真実でない事が含まれていると
書いている。
その事実の確認をしようとしたのだが
インターネット上では確認ができななかった。
著者のナイトあるいはロマスは
その情報源をあかしていない。
wikipedia ならば
ちゃんと情報源を書くように注意するだろう。

これは重大な指摘なので当然
情報源をだすべきだ。
こまったお二人だ。
ことによっては
偽証になるかもしれない。

10日の真土おの地震は変

11月10日の真土5の地震は
震源地の発表が筑西と発表されていたが
地図上の震源はどうみても違う。
つくばの南部が震源にみえる。

この発表の意図は?

新約聖書は神によって書かれたか

よく聖書は神の霊感によってかかれたと主張される。

たとえば、ここ(クリック)


質問: 聖書が霊感を受けているとはどういう意味ですか? 

答え: 人が聖書が霊感を受けていると言う時、それは、神が人間の著者に影響を与え、聖書を書かせたので、彼らの書いたものは神のことばそのものであるという事実を指して言うのです。聖書の中では、霊感ということばはただ、「神の息が吹きかかった」という意味です。霊感を受けているということは、聖書が本当に神のことばであること、他のすべての本よりも全く独特なものであるという事実を私達に伝えてくれます。 

どの程度まで聖書が霊感を受けているかに関しては様々な見解がありますが、すべて、一語一語の単語、すべての部分に神の息がかかっていると聖書そのものが主張していることは疑う余地もありません。(第1コリント2章12-13節;第2テモテ章16-17節) この聖書の見解は、「全語絶対的」霊感とよく言われています。これはどういう意味かと言うと、霊感は一語一語すべての単語に及び(逐語霊感)、ただ聖書にある考えや概念だけではなく、聖書のすべての部分、すべての主題に霊感が及んでいる(絶対的、または全体的霊感)という意味です。ある部分だけが霊感を受けていると信じている人たちもいます。宗教に関した考えや概念だけが霊感を受けていているという人もいますが、この考えは聖書が主張している霊感についての見解からは程遠いものです。逐語全部が霊感を受けているということはみことばの本質的な特質です。 

第2テモテ3章16、17節では、霊感が聖書のどこまで及んでいるか明らかに見ることができます。 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。それは、神の人が、すべて良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」この聖句は、神が聖書すべてに霊感を与えられたこと、聖書は私達にとって有益であることを語っています。霊感を受けたのは、宗教に関することだけではなく、創世記から黙示録までのすべての部分が神のことばなのです。 聖書が神の霊感を受けているので、聖書は教理を確立するにあたっても権威があり、神と正しい関係になるにはどうしたらいいかを人に教える(義の訓練)にしても十分なのです。聖書は、神の霊感を受けているだけではなく、私達を変え、すべての良い働きをするために十分に整えて、私たちを完全にする力があると言っています。

このような主張は誠実さにかける。
ここでいっている聖書とは旧約聖書のことであるのに
新約聖書であるかのように主張ている。
同様のロジックをつかう牧師が少なくない。


アンテイオキア事件

ペテロとパウロが衝突したアンテイオキア事件というものがあったらしい。
ガラテア2章:

ガラテヤ信徒への手紙2章11-14
さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」

パウロがペテロは偽善者だと非難しているのだが
わたしはそれは表面的な理由だと思う。
もともとペテロはイエスから40日間の集中講義をうけてイエスの教えを
忠実に説いていたのにたいして
パウロは聖霊によってのみ教えを基準としていて
この教えが対立しているところが多々見られるのである。
パウロの教えは主イエスの教えさえ対立するところが少なくない。


このように矛盾した教えをそのまま併記しているのが新約聖書でもある。

多くの牧師はこのような意見をとんでもないと思うだろうが
このような観点から先入観なしに新約聖書を読んでほしい。

第二コリントびと

パウロはコリントには三度いったとある。
コリントのひとたちは水の洗礼をうけながら
不品行などをくりかえし、パウロも悩む。
パウロはコリントのひとたちには神のチカラをあらわしたが
原則として洗礼はさずけなかった。役割分担という考えからだろう。
ならばパウロのパートナーのバルナバは聖霊の洗礼を授けたのではないだろうか。

いもかかわらずコリントのひとたちは第二コリントをよむかぎりパウロを悩まさせつづけたようだ。

パウロ自身は主がサタンのとげをとりのぞいてもらっていないし、
多くの艱難を経験させられ、
この世では貧乏なまずしい生活を送った。

なぜ主は働き手のパウロにそのような生活をさせたのだろうか。
21世紀までのクリスチャンにもそのようなことを望まれているのだろうか?

旧約と新約の妥協点

旧約聖書の律法による神の義と
パウロらが重要視した信仰による神の義は
ことなるところがおおい。

そこでイエスの弟子たちは議論をしたのちの結論は
信仰による義によるひとたちも
以下の4つの戒めに従えば妥協できようということになった:

異邦人で信者になった人たちには、すでに手紙で、
偶像に供えたものと、
血と、
絞め殺したものと、
不品行とを、
慎むようにとの決議が、わたしたちから知らせてある」。
(使徒行伝21章25節)

このう血とよばれる戒めはわたしにはわからない。
また絞め殺したものもなんのことやら。
偶像に供え物をするヒトもいまでは少ない
(仏前の供え物もこれに含まれるか)

いったい何人のユダヤ人を改宗したか

ユダヤ人は頑固だといわれているが
使徒行伝の時代にはいったいぜんたい何人のユダヤ人が
イエスをメシアとして認める事になったか?

答えは使徒行伝21章20節にある:

一同はこれを聞いて神をほめた
たえ、そして彼に言った、「兄弟よ、ご承知のように、ユダヤ人の中で信者になった者が、数万にものぼっているが、みんな律法に熱心な人たちである。

クリスチャンも罪人か?

  1. 最先端治療からの転載:

    わたしたちに負債(罪)のある者をゆるしましたように、
    わたしたち負債(罪)をもおゆるしください(マタイ6:12)   ①  

    わたしたちを試みに会わせないでください(マタイ6:13) 


この祈り はイエスは私たちはクリスチャンになったあとも罪があるとして多くの教会で祈られている。また②は神が試み(試練、誘惑)をクリスチャンに持ってくるという教えとして多くの教会で使われている。この説教はイエスがペテロ達を弟子にしたあとの最初の説教である。説教の相手は弟子達と集まってきた群衆である。

 ①にたいしてエペソ1:7では わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。        
とあり一見矛盾するようにみえる。またにたいして

またヤコブ1:13には              

だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。   

とありマタイと矛盾しているようにみえる

(ヤコブの手紙は離散ユダヤ人にむけて書かれているという)

さてマタイとヤコブの矛盾は東泰男博士により”キリスト教かネオ・ユダヤ教か”で解き明かしがなされている。

東泰男博士によればこれらの矛盾ははイエスが十字架で贖罪されるまえ①②と後でことなるという。また③④は十字架の贖罪以降である。

”だから①②はわれわれ異邦人のクリスチャンには適用されないが”東博士の結論である。実際、新約聖書全般においてイエスは異邦人には福音を述べないと明言している。イエスの教えをそのまま異邦人のクリスチャンが実行するのは誤りであると言う。異邦人への福音の教えはパウロにあるいは聖霊にまかされているのである。

この視点は非常に重要なので詳細はキリスト教かネオ・ユダヤ教か”をご覧いただきたい


以上の事がほとんどの教会でごちゃごちゃになっていて、
本当の福音が大半に日本人クリスチャンに隠されているのである。